酬恩庵(一休寺)の御朱印~一休さんのお墓参り~(京都府京田辺市)

住 所京都府京田辺市薪里ノ内102
宗 派臨済宗大徳寺派
由 緒1288~1293年、南浦紹明が開いた妙勝寺がこのお寺の始まりだそうです。1331~1334年、兵火に遭い次第に衰退。1456年、一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の『遺風を慕い師恩に酬いる』という意味で酬恩庵と名付けたそうです。その後、一休宗純は1481年に88歳で亡くなるまでをここで過ごし、死後、遺骨は境内の廟に安置されました。そんなこんなで、一休宗純が晩年を過ごしたことにより一休寺という通称で親しまれてます。
HP酬恩庵一休寺
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酬恩庵(一休寺)とは

●ザックリと簡単に酬恩庵(一休寺)とは

●臨済宗大徳寺派のお寺
・正式な寺号は酬恩庵
・一休禅師が晩年を過ごしたので、通称・一休寺と呼ばれてます。
・ちなみに一休禅師は、大徳寺・47世住持を務めてます。

●一休禅師のお墓がある
・境内には、一休禅師のお墓があります。
・一休禅師は後小松天皇の落とし子といわれ、天皇の血を引くことから、陵墓は宮内庁が管理しております。

●国指定重要文化財
・本堂・方丈・庫裏・東司・浴室・鐘楼
・一休和尚坐像
・絹本著色一休和尚像
・後花園天皇宸翰女房奉書

●京都府指定有形文化財
・総門・中門・虎丘庵など

●国の名勝
・酬恩庵庭園

●一休寺納豆
・一休寺の名物です。一休禅師が中国から伝わった製法をもとに作った納豆です。

●紅葉の名所
・秋には大勢の参拝者で賑わうそうです。

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総門と鐘楼

●総門


●総門
・江戸時代前期建立
・瓦葺 四脚門
・京都府指定有形文化財

そんなこんなで、一休禅師ゆかりの酬恩庵(一休寺)に到着。
一休禅師が晩年を過ごしたお寺ということで、通称・一休寺として知られてますが、正式な寺号は酬恩庵です。

1456年に一休禅師が、宗祖の『遺風を慕い師いる』という意味で酬恩庵と名付けたそうです。


●鐘楼


●鐘楼
・1650年建立
・瓦葺 入母屋造の袴腰鐘楼
・国指定重要文化財
・梵鐘は1623年鋳造

鐘楼はやや短足の袴腰でした。
それにしても、三手先の組物が素敵でした。
そんなこんなで、しばし建物観賞。

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本堂と開山堂

●本堂


●本堂
・1429~1441年建立
・檜皮葺 入母屋造 禅宗様
・室町幕府6代将軍・足利義教が建立
・国指定重要文化財
・臨済宗大徳寺派
・本尊は釈迦如来坐像
・通称・一休寺


本堂は、小ぶりな禅宗様の仏殿形式でした。
堂内の床は、平瓦を斜め45度に敷いた四半敷
本尊は釈迦如来坐像でした。

・左 → 普賢菩薩像
・中 → 釈迦如来坐像
・右 → 文殊菩薩像

いわゆる釈迦三尊像です。


●開山堂(大応堂)


●開山堂(大応堂)
・1456年建立
・大正時代改築
・檜皮葺 裳階付き入母屋造

堂内には、酬恩庵の前身・妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)像が安置されてました。

建物は大正時代に改築されてますが、堂内は建立当時のままなんだそうです。屋根が2つあるので2層の建物に見えますが、下の屋根は裳階なので実際は1層の建物です。

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宗純王廟

●宗純王廟

●宗純王廟(法華堂)
・1475年建立
・瓦葺 入母屋造
・枯山水庭園は村田珠光作で室町時代の築庭 

宗純王廟とは一休禅師のお墓です。
1475年、一休禅師が82歳の時に自ら建立したんですって。


一休禅師は後小松天皇の落とし子といわれ、天皇の血を引くことから陵墓は宮内庁が管理しております。

ということで、門には皇室の紋章である16菊花紋。 宮内庁が管理してるため、敷地内に入ることはNGです。

そんなこんなで扉の外から敷地内を望む。
廟の前にはステキな枯山水庭園がありました。どうやらこの庭園は、室町時代に村田珠光が築庭したお庭のようです。

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一休宗純とは

●ザックリと簡単に一休宗純とは

1394年京都で生まれる。幼名は千菊丸。
1399年京都・安国寺に出家する。
1410年西金寺・謙翁宗為の弟子となり、宗純の名を賜わる。
1414年謙翁宗為が亡くなり、悲しみのあまり入水自殺をはかるが、運よく助けられ未遂に終わる。
1415年近江・祥瑞庵の華叟禅師に弟子入りする。
1418年華叟禅師から、一休という名を与えられる。
1420年カラスの泣き声を聞いて悟りを開く。
1422年大徳寺7世・言外宗忠の33回忌に、粗末な着物を着て参列する。この頃から風狂といわれ始める。
1428年華叟禅師が亡くなる。一休は京都に帰り、風狂の生活を送る。近畿を放浪し巡錫する。
1432年後小松天皇に謁見し、宝物などを賜る。
1437年華叟の印可を火の中に投げ捨てる。
1456年酬恩庵を建立する。
1470年森女に出会う。
1471年森女と同棲する。
1474年第47世・大徳寺住持となる。戦火で焼失した大徳寺の復興を手がける。
1475年酬恩庵の境内に自身の墓所を建立する。
1481年酬恩庵で亡くなる。



●怪僧・一休宗純こと一休禅師の素敵な逸話

一休さんのイメージといえば、やはりアニメの一休さん。しかし実際の一休さんはかなりファンキーなお坊さんだったようです。
そんなこんなで、私が好きな一休禅師の逸話を書いときます。

●逸話①
墓前でお経を読んでくれと頼まれ、でっかい屁を1発こいて『これでヨシ』と言ったそうです。一休さんは亡くなってからお経をあげるのではなく、生きている間にお経を聞くべきとおっしゃってます。

●逸話②
親友である本願寺第8世・蓮如の留守の部屋に上がり込み、阿弥陀如来像を枕に昼寝をしていた一休さん。帰宅後、蓮如は怒るどころか『俺の商売道具に何をする』と言い、2人で笑い合ったそうです。

●逸話③
一休さんは7曲がり半曲がった松の前に『この松をまっすぐに見た者には一貫文の褒美を与える』という立札を立てました。

立札の前は賞金目当ての人々でごったがえす。縦から見ても横から見ても屋根に登っても逆立ちしても何をしても真っ直ぐに見えない松・・・そこへ蓮如が通りがかり『真っ直ぐ見えた』と一休の所へ行きました。

蓮如 → 『真っ直ぐに見えたから一貫文ちょうだい』
一休 → 『あ~蓮如か、お前はあかん、立札の裏を見てこい』と答える
立札の裏には『ただし、蓮如は除く』と書いてあったという(笑)
人々は『どうやって曲がった松を真っ直ぐ見たのですか』と蓮如に聞くと、蓮如は『曲がった松を、曲がった松と見るのが真っ直ぐな見方なのだ』と答えたという。

●逸話④
浄土真宗では、阿弥陀如来は無条件で救われるのに、禅宗の祖・達磨大師が9年間、手足が腐るまで座禅をしたのは無意味なことだと言ったそうです。そんなこんなで晩年、一休さんは浄土真宗に改宗したそうです。

●逸話⑤
亡くなる直前に弟子達に『この先、どうしても困った時に開けないさい』と1通の手紙を手渡したそうです。数年後、お寺に大問題があり、どうしようもなくなった弟子達は手紙を開けました。手紙の内容は『大丈夫、心配するな、何とかなる』とだけ・・・弟子達は笑ったそうです。

その後、お言葉通り、お寺の問題は何とか無事に解決したらしいです。どんな事があっても何とかなるんですなぁ~!


酒呑んで、肉喰って、男色オーライ、女性とチョメチョメ、お寺で同棲などなど、仏教の戒律で禁止されてたことは、ほとんどやった人間味あふれる怪僧。アニメの一休さんのように幼少の頃から頭の回転が速く頓知を効かせたお方だったようですね。

しかしこの奇行は、足利幕府に庇護された五山仏教への痛烈な風刺・反骨精神によるもので、一休さんなりのメッセージだったようです。これはもうパンクロッカーです。この人が奏でるロックを聴いてみたい・・・。

方丈と庫裏と庭園

●中門

●中門
・江戸時代前期建立
・瓦葺 薬医門
・京都府指定有形文化財


●方丈の唐門

●方丈の唐門
・1650年建立
・瓦葺 向唐門
・国指定重要文化財


●庫裏と方丈

●庫裏
・1650年建立
・国指定重要文化財
・加賀藩2代藩主・前田利常が寄進

●方丈
・1650年建立
・国指定重要文化財
・加賀藩2代藩主・前田利常が寄進


●方丈・一休禅師像

方丈内には、1481年作で国重文の一休禅師像が安置されてました。一休禅師が亡くなる年に、高弟・墨済禅師に命じて作らせたもので、頭部に一休禅師の頭髪と髭を植えたとされてます。

一休さんの毛を見てみたい!
ということで、単眼鏡でのぞいてみるも、遠すぎて確認できませんでした~・・・嗚呼。

ちなみに一休禅師像は撮影禁止です。


●方丈・一休禅師御使用の輿

一休禅師は1474年に大徳寺・47世住持となりますが、住持になってからもこの輿に乗って大徳寺に通っていたそうです。いやはや、大徳寺に住まないとこが一休さんらしくて素敵ですなぁ。

って、ここから大徳寺って相当な距離がありますよ!


●方丈・襖絵

方丈内部の襖絵は、江戸時代初期の絵師・狩野探幽の筆なんですって。

ちなみにこれらの襖絵は複製画で、本物は宝物殿に収蔵されています。


●酬恩庵庭園・南庭

●酬恩庵庭園・南庭
・江戸時代築庭
・枯山水庭園
・国の名勝

酬恩庵庭園は、南庭・東庭・北庭の3庭からなる庭園でした。



南庭は、宗純王廟と虎丘庵を背景にした枯山水庭園でした。

朝一だったこともあり、参拝者は私ひとり。
お庭を独り占めできました。
そんなこんなで、あの名ゼリフを。
一休み、一休みっ。

無音の境内は、鼓動と耳鳴りだけがBGM。贅沢な時間を過ごしてきました。


●酬恩庵庭園・北庭


酬恩庵庭園・北庭は、石組で枯れ滝を表現したお庭でした。蓬莱山の滝から水が流れ落ち 海へ流れる様を石組みで表現してます。


●酬恩庵庭園・東庭

酬恩庵庭園・東庭は、石組みで十六羅漢を表現したお庭でした。

虎丘庵と浴室と三本杉

●虎丘庵

●虎丘庵
・1467~1477年移築
・檜皮葺 寄棟造
・京都府指定有形文化財

虎丘庵は、もともと京都・東山にあったそうですが、応仁の乱の際に一休禅師が移築したんですって。

残念ながら非公開のため、内部を拝観することはできませんでした。


ちなみにこの虎丘庵は一休禅師と森女さんが一緒に暮らしていた建物です。

森女さんとは、一休禅師とチョメチョメ関係にあった盲目の女性です。


●浴室

●浴室
・1650年建立
・瓦葺 切妻造
・国指定重要文化財

浴室は東司・禅堂・食堂などの三黙堂の1つで、静寂さを大切にする厳粛な修行の場です。私語はもちろん、音を立てずに身体を洗わなければいけないという。


●三本杉

1説によると、一休・蓮如・蜷川新衛門の3人が1本ずつお手植えになった杉なんですと!

しかし1965年に寿命を迎えたそうで、現在の杉は2代目とのことです。

それにしても、新衛門さん!ケツアゴの新衛門さん
お寺巡りを始めて早10年。新衛門さんゆかりのお寺に初めて出会いましたよ!なんだかワクワクしちゃいます。

墓石群

●能楽観世流の墓

左 → 19代・清興のお墓
中 → 15代・元章のお墓
右 → 音阿弥のお墓


●茶人・寸松庵の墓

寸松庵とは、1570~1642年に活躍した武士・茶人だそうです。
豊臣秀吉の小姓を経て、徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍に使えた人なんですって。

古田織部に茶道を学び、晩年は京都・大徳寺に寸松庵を営んで隠棲してたそうです。


●佐々木六角承禎の墓

六角義賢は、戦国時代から安土桃山時代に活躍した守護大名・近江国守護。 六角氏15代当主で観音寺城の城主を務めたお方です。


その他、境内には古い墓石がズラ~~と並んでました。


●宝物殿

宝物殿では、一休禅師ゆかりの品々を拝観することができました。

その他の見所

●少年一休像

世の中の汚れもこのホウキで一掃して明るい世の中にしたいという願いを込めて建立された像なんですって。


こ、これは・・・
一休さんの忘れ物・・・んな、わけない。


●二十世紀の森

本堂裏には、ポップな石仏が点在する二十世紀の森というスポットがありました。そんなこんなで、石仏観賞。
愛宕念仏寺もしくは石峯寺に匹敵するユル仏でした。


●絵馬掛け


絵馬には一善一年と書かれておりました。

どうやら元旦生まれの一休禅師にちなんで、1月の最終日曜日に絵馬の祈祷奉納が行われるそうです。


絵馬掛けには、一休さん・新右エ門さん・さよちゃんなどの絵もありました。

久々に一休さんの顔を見てノスタルジックな気分になったひと時。


●飛び出し坊や

そんなこんなで参拝後、酬恩庵(一休寺)周辺をプラプラと散歩してきました。

飛び出さない、飛び出さない。
一休み、一休み。

御朱印

●御朱印

御朱印は庫裏内の拝観受付で頂きました。
本日頂いた御朱印は、酬恩と善哉と四鰈(期間限定)の3種。


2019年の正月三が日には限定御朱印がありました。
その他、観音三十三身・諸行無常・ご用心・喫茶去・大應国師などの御朱印もあるようです。


庫裏にはセルフ顔ハメもありました。
めちゃくちゃハメ撮りしたかったけど、ソロ活動な上、1人も参拝者がいなかったため断念・・・くぅ~。そんなこんなで、1人でハメて慰めていたひと時。


可愛いストラップもありました。
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酬恩庵(一休寺)の地図

 

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