大徳寺の御朱印情報~京都府京都市北区紫野大徳寺町53~

都道府県別
住 所京都府京都市北区紫野大徳寺町53
宗 派臨済宗大徳寺派 大本山
由 緒1315年、禅僧・宗峰妙超が紫野の地に小堂を建立したのが始まりのお寺です。1334年、大徳寺を保護していた後醍醐天皇が、京都五山のさらに上位に位置づける命を発しました。しかし、足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまったという。1386年、大徳寺は十刹の最下位に近い第9位となりました。このため、足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとることになりました。その後、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えます。室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出。わび茶を創始した村田珠光など東山文化を担う者たちが一休宗純に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界と縁が深くなり、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係を持ちました。1453年の火災と、1467~1477年の応仁の乱で伽藍を焼失しましたが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て再興しました。 近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けました。江戸時代初期、幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵が流罪になりますが、3代将軍・徳川家光が沢庵に帰依したこともあり幕府との関係も回復しました。近世、塔頭・約130を有する大寺院として栄えますが、明治時代の上知令によって規模を縮小しました。
HP大徳寺 : 臨済・黄檗 禅の公式サイト – 臨黄ネット
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ザックリと簡単に大徳寺とは

●ザックリと簡単に大徳寺とは

●宗派
・臨済宗 大徳寺派の大本山

●京都でも有数の規模を誇る大寺院
・別院2ヶ寺・塔頭22院を有する大寺院です。

●五山十刹から離脱したお寺
・もともとは京都五山でしたが、足利家 vs 後醍醐天皇に巻き込まれ、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は五山から外されてしまいました。その後、十刹の最下位に近い第9位に転落させられます。ということで、五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとることになりました。

●茶の湯文化と縁が深いお寺
・武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係を持ちました。

●一休宗純ゆかりのお寺
・大徳寺47世・住持です。お寺には住みませんでしたが、再興に尽力しました。塔頭の真珠庵は一休禅師を開祖として創建されてます。

●千利休ゆかりのお寺
・千利休が切腹させられる一因となったお寺です。

●沢庵ゆかりのお寺
・大徳寺153世・住持です。

●戦国大名ゆかりの寺院
・織田信長の菩提を弔うために建立した総見院 、大友宗麟が建立した瑞峯院、石田三成・浅野幸長・森忠政が建立した三玄院、黒田長政が建立した龍光院、立花宗茂のお墓がある大慈院などなど、戦国大名が建立した塔頭が多数あります。

●織田信長の葬儀をしたお寺
・1582年に織田信長の葬儀が行われました。

●宝物
・国宝・・・6点
・国重文・・・65点

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勅使門

●ザ・桃山時代の素晴らしい勅使門



●勅使門
・1596~1614年建立 国重文
・1640年移築
・後水尾天皇より御所の南門を拝領
・檜皮葺 切妻造 前後軒唐破風付の四脚門



●軒唐破風の彫刻
蟇股と大瓶束の牡丹唐草の彫刻がステキでした。

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三門

●大徳寺の三門といえばやはりあのお方!



●三門
・1529年に下層のみを建立。1589年に千利休が上層を完成させて金毛閣と名付ける
・国重文
・瓦葺 入母屋造
・5間3戸の二重門で唐様建築
・禅寺の三門では東福寺の三門に次いで古い門
・大徳寺最古の建造物



上層には釈迦如来像と十六羅漢を安置。天井には長谷川等伯の龍図が描かれてるとのことです。


●利休が切腹するきっかけとなった門


千利休は大徳寺の門を改修するために多額の資金援助をしました。これに恩義を感じた大徳寺の住職・古渓宗陳は利休に感謝の意を込めて、三門の上層に雪駄を履いた千利休の木像を安置しました。このため門をくぐる者は利休の足下をくぐることになります・・・それを知った豊臣秀吉は大激怒。この門をくぐる者は利休に頭を踏まれるのと同じことと難癖をつけられました。これが利休が切腹させられる原因の1つといわれています。


●ザックリと簡単に千利休とは
千利休は、1522年に大坂・堺で商家の裕福な家に生まれました。 16歳の時にお茶を習い始め、18歳の時に堺の豪商である茶人・武野紹鴎の門下生になります。当時の堺は貿易港として発展しており、将軍や朝廷も及ばないほどの独立国家を形成してました。西洋から持ち込まれた文化・情報・武器・学問・芸術などが出回り、自由に商売を行う自由都市でした。

そこに目を付けたのが織田信長。 新しい物大好き、鉄砲大好きな信長は堺を支配下に置きました。信長は早くから茶道に目を付けており、武将の雇用や外交などで、高価な茶器を送ったり茶の席に招待したりして茶の湯を最大限に利用しました。利休は今井宗久・津田宗及と共に茶人として信長に従えることになります。しかし本能寺の変で信長は亡くなりました。

その後、豊臣秀吉に従えることになります。秀吉も茶の湯を政治や接待に利用しました。

利休は徹底的に無駄を省いた茶室や茶器にこだわり、高価な茶器で茶の湯を楽しむのではなく、本来の茶の湯だけを味わうわび茶を完成させます。そんな利休を多くの武将が訪ねました。茶道を極めた利休の名は全国に知れ渡り、茶道を通じて武将たちに重用されました。

秀吉のブレーンとなった利休は天下人・秀吉政権を支えますが、利休の影響力が大きくなるにつれ次第に2人の間に溝ができていきます。そして利休は秀吉から切腹を命じられます。理由は諸説あり、大徳寺の三門事件とも秀吉の政策に口を出し始めたからとも茶道の考え方の違いとも。死後、利休の首は一条戻橋に晒されました。

その後、大徳寺76世住職・古岳宗亘が、一条戻橋に晒された千利休の首を大徳寺に持ち帰り手厚く葬りました。

利休フォーエバー。

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仏殿

●仏殿内にはステキ仏が!



●仏殿
・1665年再建 国重文
・瓦葺 入母屋造
・京の豪商・那波常有が寄進




●釈迦如来坐像
・1651~1680年作
・徳川家綱が寄進

仏殿内には御本尊の釈迦如来坐像が安置されてました。徳川家綱が寄進したとのことなので、もしかしたら再建に合わせて安置された仏像さんの可能性が高いです。

天井の雲龍図は狩野元信作とのことですが、狩野元信は室町時代の絵師・・・はて?仏殿の建立年と100年くらいの開きがあります。天井の雲龍図だけ別のお堂から移設したのでしょうかねぇ?ちなみに雲龍図は剥落がひどく、龍の姿も雲の姿も確認できませんでした。



●イブキ
・樹齢 約350年
・京都市指定天然記念物

仏殿の再建と同じ頃に植樹されたものといわれてます。 一般的に長命の木といわれていますが、これほどの大木になることは稀で貴重とのことです。

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法堂

●狩野探幽作の雲龍図がある法堂!



●法堂
・1636年建立 国重文
・瓦葺 入母屋造
・小田原城主・稲葉正勝の遺言により、稲葉正勝の子・稲葉正則が建立



法堂の天井には狩野探幽作の雲龍図があるらしいのですが、柵がしてあったので立入ることができませんでした。どうやら特別公開の時に内部拝観ができるようです。噂では、堂内で手を叩くと龍が鳴いたような音が鳴り響くらしいです。龍って鳴くのかぁ。

鐘楼

●漆喰の袴腰!



●鐘楼
・1583年建立 国重文
・瓦葺 入母屋造 袴腰

やや短足の袴腰鐘楼でした。それにしても漆喰の袴腰って珍しいような。とても品のある鐘楼でした。

本坊

●本坊は通常非公開です。特別公開の時に拝観できます。

●方丈
・1635年建立 国宝
・桟瓦葺 入母屋造
・禅宗様ではなく日本様式の建物
・障壁画・・・狩野探幽作
・枯山水庭園・・・国の特別名勝および史跡に指定

●唐門
・1635年建立 国宝
・檜皮葺 切妻造 向唐門
・本願寺と豊国神社の唐門と共に桃山の三唐門の1つ

もともとこの地には本能寺の変の直後に明智光秀が寄進した明智門がありましたが、1886年に南禅寺・金地院に売却。現在の唐門は、聚楽第から移築されたものなんだと!



●一休宗純や沢庵宗彭が住持を務めた大徳寺

●一休宗純とは
一休宗純とは、室町時代に活躍した臨済宗・大徳寺派の僧です。第47世・大徳寺の住持を務めました。後小松天皇の落とし子といわれ、天皇の血を引く権力が嫌いで数々の奇行と破天荒な言動で反体制を貫いた僧です。酒呑んで、肉喰って、男色オーライ、女性とチョメチョメ、お寺で同棲などなど、仏教の戒律で禁止されてたことは、ほとんどやった人間味あふれる怪僧です。アニメ・一休さんのモデルになったお方です。


●沢庵宗彭とは
沢庵宗彭とは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した臨済宗の僧です。 1607年、37歳の若さで大徳寺の住持となりますが、わずか3日で大徳寺を去り堺へ戻りました。その後、紫衣事件で幕府に反抗し出羽(山形県)に流罪となります。罪が許された後、徳川家光・後水尾上皇・柳生宗矩などから帰依を受けました。ちなみに、たくあん漬けの考案者です。史実上では接点がないはずだけど、なぜか宮本武蔵関係のドラマによく出てくるお方です。

塔頭

●境内には22の塔頭があるという!

大徳寺の境内には22の塔頭があり、ちょっとした寺町を形成しています。



22ある塔頭のうち常時拝観可能な塔頭は院。

①大仙院
②高桐院
③瑞峯院
④龍源院


●常時拝観可能な塔頭

●大仙院の参拝記

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●高桐院の参拝記

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●龍源院の参拝記

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●特別公開の時のみ拝観可能な塔頭

●興臨院の参拝記

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●聚光院の参拝記

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●黄梅院の参拝記

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その他、真珠庵・総見院。



●その他の塔頭

●三玄院の参拝記

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その他、如意庵・大慈院・正受院・芳春院
龍光院・大光院・孤篷庵・来光寺・養徳院
龍泉庵・玉林院・雲林院。

平康頼の塔

●リバーシブルタイプの塔


平康頼とは、平安時代後期、鹿ケ谷の変に関わって島流しにされたお方です。
塔の正面は仏さんで、裏面は宝塔になってました。塔の周りは有刺鉄線がグルグルに 巻かれてますのでご注意を!

千体地蔵塚

●千体地蔵塚

もしかしてだけど、多分きっと千体もいないと思われます。

御朱印


御朱印は本坊で頂きました。

大徳寺の地図

 

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