寛永寺・根本中堂の御朱印~徳川将軍家の菩提寺~(東京都台東区上野)

都道府県別
所在地東京都台東区上野桜木1丁目14−11
宗 派天台宗
寺 格関東総本山
由 緒1625年、徳川家康の側近だった慈眼大師・天海大僧正が江戸城の鬼門に創建したお寺です。天海は、京都御所の鬼門に位置している比叡山延暦寺にならい、東の比叡山という意味で東叡山という山号にし、上野の台地に大伽藍を造営しました。さらに延暦寺同様、創建時の元号を使用し、寛永寺と命名。増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となり、歴代将軍の霊廟を造営しました。最盛期には、現・上野公園を中心に35万坪、清水観音堂・不忍池辯天堂・五重塔・開山堂・大仏殿・その他、36坊の子院などを有する国内最大級の寺院として偉容を誇っていたといいます。1868~1869年、戊辰戦争の際、境内に彰義隊が立て籠ったため、伽藍の大部分を焼失。さらに明治政府に多くの寺領を没収され、廃止状態に追い込まれました。しかし、1879年に復興が認められ、川越喜多院から本地堂を移築し、現・根本中堂を建立。昭和時代、関東大震災や東京大空襲で多くの堂宇を失いましたが、その後再建して現在に至ります。
HP東叡山 寛永寺 公式ホームページ
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寛永寺とは?

●上野公園のマップ

どっからどこまでが上野公園なのかわかんないけど、とにかく巨大な公園。
電車が到着するたびに押し寄せる人の大波。
来る人ばっかりで帰る人がいない(笑)


●境内入口

そんなこんなで、人混みから逃げるように寛永寺・根本中堂に到着。

パワフルな上野公園とは対照的に静寂に包まれた境内。
参拝者はまばらで、非常に落ち着いた空気が流れていました。
かつては上野公園一帯が境内だったそうですが、現在はその面影はありません。


~東都名所 上野東叡山全図 歌川広重 作~

寛永寺の創建は1625年。
徳川家康の側近だった天海が江戸城の鬼門に創建したお寺です。

京都御所の鬼門に位置する比叡山延暦寺にならい、東の比叡山という意味で山号を東叡山としました。
そして、これまた比叡山延暦寺同様、創建時の元号を使用して寛永寺と命名。
さらに、比叡山延暦寺にある同名のお堂・根本中堂・法華堂・常行堂などを建立しました。

清水観音堂は京都の清水寺を模して建立。
不忍池と弁天堂は、琵琶湖と竹生島・宝厳寺の弁財天を模して建立。

ということで、ここは東京の京都^^
寛永寺は相当京都を意識して建立されたお寺なんですね。

ちなみに寛永寺は増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺です。
徳川歴代将軍15人のうち、6人が寛永寺に眠っています。


~東叡山中堂之図 勝春朗 作 ~

かつては、清水観音堂・不忍池辯天堂・ 五重塔・開山堂・大仏殿・36の子院などを有する大寺院だったそうですよ。
また、朝廷との繋がりが深く、皇族が歴代住職を務めていたんだって。
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根本中堂

●根本中堂

●根本中堂
・1879年移築再建
・川越喜多院の本地堂を移築
・瓦葺 入母屋造
・宗派 天台宗
・寺格 天台宗・関東総本山
・本尊 薬師如来像


もともと寛永寺の根本中堂は、現在の噴水広場がある場所に建っていたそうですよ。
しかし、旧幕府軍 vs 新政府軍の戦い、いわゆる戊辰戦争(上野戦争)で旧幕府軍の彰義隊が寛永寺に立てこもったため、新政府軍によって破壊されました。

そんなこんなで、現在の根本中堂は川越・喜多院の本地堂を移築したものです。

ちなみに、かつての根本中堂は間口45m・高さ32m・奥行き42mという、相当巨大なお堂だったみたいですよ!


扁額には瑠璃殿の文字。

薬師如来さんの正式名は、薬師瑠璃光如来といいます。
ということで、瑠璃とは薬師如来さんのことです。
東方浄瑠璃世界におられるお方です。

そんなこんなでこの瑠璃殿とは、本尊・薬師如来さんがおられるお堂ですよ~という意味です。


●本尊・薬師如来像
・平安時代作
・最澄 作
・国指定重要文化財

そんなこんなで、堂内へ。
なんと本尊は、最澄作の薬師如来像で国重文なんだって!
しかし秘仏のため拝観することはできませんでした。
その代わり、厨子の前にはお前立ちがおられました。

堂内には御本尊さんの他に、日光・月光菩薩像や十二神将像や四天王像などが安置されていました。
そんなこんなで、仏像観賞。
なかなか見応えあります^^

ちなみに根本中堂は毎日開堂しているそうですよ。


木鼻は獏と獅子。
蟇股には鶴が彫刻されていました。


オリジナル瓦には寛永寺の文字。

棟には黄金に輝く三つ葉葵がありました。
徳川家の菩提寺ということで、徳川家の家紋を寺紋として使用しています。
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鐘楼と了翁禅師堂と鬼瓦

●鐘楼

●梵鐘
・1681年鋳造
・高さ 177.2cm
・口径 91.8cm

なんとこの梵鐘は、徳川幕府4代将軍・徳川家綱の1周忌に奉献された鐘なんだって。
この鐘は、もともと徳川家霊廟の鐘楼に吊るされていましたが、明治時代に寛永寺・根本中堂にお引越ししてきたそうです。


●了翁禅師堂

境内には了翁禅師堂という小さなお堂がありました。


●了翁禅師とは?
了翁禅師とは、江戸時代前期に活躍したです。

秋田県出身の了翁禅師は、貧しい農家に生まれました。
11歳のときに出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。

学業の妨げになるからと、自分のチンチンを切り落としたり、砕いた指を油布で覆って火をつけて般若心経を読むなど、相当クレイジーな荒行をしていたという!

苦痛に耐えるため、夢で薬の処方を知り、自ら調剤して治したりもしました。
その薬は錦袋円と呼ばれ、上野不忍池のほとりの店舗で販売し、3000両を蓄えるほど評判になったそうです。

これらのお金をもとに多くの書物を集め、不忍池に経堂を建てて文庫を建立。
さらには寛永寺の境内に勧学寮と文庫を建立。 それが日本で最初に一般公開された図書館といわれています。

1707年に死去。
遺骸は京都・萬福寺の塔頭・天真院に葬られました。


●旧本坊表門の鬼瓦

境内には大きな鬼瓦がありました。
どうやらこの鬼瓦は、もともと寛永寺の旧本坊表門に据えられていたものらしいです。


●寛永寺 旧本坊表門
・1624〜1644年建立
・本瓦葺 切妻造 薬医門
・国指定重要文化財

ちなみに、こちらが旧本坊表門です。
輪王寺(両大師)の近くにあります。


この門は、戊辰戦争(上野戦争)の戦火から奇跡的に残った寛永寺本坊の表門なんだって。
門をよく見てみると銃弾の痕が残っています。
銅の扉を突き破る銃弾・・・武士のプライドをかけた旧幕府軍・・・やはり近代兵器には勝てなかったみたいです。。。

ちなみに、明治時代は帝国博物館(現・東京国立博物館)の正門として使われたそうですよ。
そして、1937年に現在地に移築されたんだって。


●書院
根本中堂裏の書院には、徳川慶喜が戊辰戦争のときに謹慎していた大慈院(葵の間)があるそうです。
しかし非公開のため拝観できませんでした。
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徳川家霊廟

●徳川家霊廟 勅使門


●勅使門
・1709年建立
・銅板葺 向唐門
・国指定重要文化財

そんなこんなで参拝後、寛永寺から徒歩10分のところにある徳川家霊廟に行ってきました。

この霊廟には、4代・家綱、6代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定が葬られています。

廟内は非公開のため拝見することはできませんでした。
ということで、勅使門のみを観賞して帰りました。
それにしても、豪華な門だなぁ。


~画像は徳川家霊廟の説明板より~

ちなみに廟内には、家定の妻・篤姫のお墓もあるそうです。
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上野公園のお寺と神社





その他、上野公園には、開山堂(両大師)・清水観音堂・不忍池弁天堂・五重塔・パゴダ薬師堂・上野大仏・上野東照宮・五條天神社・花園稲荷神社などがありました。

南光坊天海とは?

●ザックリと簡単に南光坊天海とは?

天海とは、徳川家康・秀忠・家光と徳川3代にわたって徳川将軍家を支えた天台宗の僧です。

僧でありながら徳川家康の側近として影響力を持っていました。
相当な大物だったにも関わらず、周囲や弟子たちに自分の出自について語ることはなかったといいます。
そのため、天海の前半生は謎が多いそうです。

あと、天海 = 明智光秀説で有名なお方です。

●主な功績
・江戸の町づくりに陰陽道の思想を取り入れた。
・徳川将軍家の菩提寺・寛永寺を建立した。
・徳川家康の死後、家康に東照大権現の神号を決定した。
・日光東照宮を建立した。
・木製の活字を使って一切経を印刷して出版した。


●天海僧正毛髪塔

ちなみに、上野公園内にある清水観音堂の裏には、天海の毛髪を納めた宝塔がありました。


●天海の年表
1536年現在の会津美里町に生まれる。
幼名は兵太郎。
父は舟木景光。
母は蘆名氏の娘。
1546年龍興寺で出家。
隋風と名乗り3年間修行をする。
1549年各地へ遊学。
天台宗や法相宗の名刹や足利学校などで学ぶ。
1553年天台宗の総本山、比叡山に入山し天台教学を学ぶ。
1556年比叡山を下山。
大津・三井寺や、奈良・興福寺などで学ぶ。
1560年栃木の足利学校で4年間にわたり、儒学・漢学・易学・国学・経済学・天文学・医学・兵学を学ぶ。
1571年再び、比叡山入山を試みるが、織田信長の比叡山焼き打ちにより果たせず。
学僧・衆徒とともに武田信玄の元に身を寄せる。
1573年会津に帰国。約10年間滞在。
1577年蘆名氏の要請を受けて、善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。
会津若松の黒川稲荷堂の別当を務める。
1589年蘆名氏が磨上原の合戦で伊達政宗に破れ、蘆名盛重とともに白川に逃れる。
1590年川越の無量寿寺・北院に移り、天海と改名する。
この年、徳川家康と初対面
1596年無量寿寺・北院の住職・豪海が亡くなり、天海は無量寿寺・北院の第27世住職になる。
1603年江戸幕府が開幕。
この年、徳川家康に登用される。
1607年徳川家康の依頼で比叡山探題奉行となり、比叡山延暦寺を再興。
1609年比叡山・東塔の南光坊に住む。
天台宗の権僧正になる
1616年徳川家康の病気見舞いのため、駿府を訪れる。家康は、天海・金地院崇伝・本田正純の3人に遺言する。その後、徳川家康は死去。天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に家康を埋葬する。天台宗の大僧正となる。
1617年朝廷より家康に東照大権現の神号を賜わる。家康の遺骸を久能山から日光山に改葬。
1620年徳川秀忠が、日光山・久能山・喜多院寺領の朱印を大僧正に任せる。
1623年上野に寛永寺の造営を始める
1625年東叡山寛永寺を創建
寛永寺を徳川将軍家の菩提寺とする。
1628年東照宮を建立。
1643年108歳で死去。
徳川家康と同じく日光に埋葬される。
1648年朝廷より慈眼大師の諡号を賜わる。



●南光坊天海 = 明智光秀!?

天海を有名にしたのが、南光坊天海 = 明智光秀説。歴史好きの人は誰もが知っている有名な説です。

死んだはずの光秀は実は生きていて、徳川家康の側近として江戸幕府を裏で支えていたんじゃないかとか・・・ワクワクしますね。

説の根拠
①徳川家康を祀る日光東照宮に、光秀の家紋である桔梗紋が多く見られる。

②日光に天海が名付けた明智平と呼ばれる地がある。

③徳川忠の秀と徳川家の光は、光秀の名から。徳川家の綱は光秀の父・明智光から。徳川家の継は光秀の祖父・明智光に由来するとか。

④比叡山に光秀の名で寄進された石灯籠が残っている。光秀が亡くなったのは1582年。石灯籠が寄進されたのは1615年。

⑤光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍・徳川家光の乳母になり、天海に会った時に『お久しぶりです』と声をかけたと記された書物がある。

⑥童謡・かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が、光秀 = 天海を示すという説。

⑦天海が亡くなった際、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海の出身地といわれる会津の龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。

⑧喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存。ちなみに光秀は鉄砲の名手。

⑨家康と天海が初めて対面した時、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することは前例のないことなので、側近の者達も『一体、これはどうしたことであろう』と目を見張ったという書物がある。

⑩比叡山の叡山文庫には、俗名が光秀という僧の記録がある。


などなど、たくさんの天海 = 光秀説があります。
逆に異を唱える説もたくさんあります(笑)

本能寺の変の裏で、実は光秀と家康は手を組んでおり、光秀は死んだと見せかけて天海と名前を変えて、家康と天下取りをした・・・私は浪漫派なので、天海 = 光秀を推したいです。こうやって何が真実なのかわからないままワクワクするのが楽しいです。

御朱印情報

●御朱印情報

●御朱印の受付場所
・根本中堂内もしくは庫裏(寺務所)

●御朱印の受付時間
・9:00〜17:00

●御朱印の料金
・300円

ちなみに、寛永寺・根本中堂の限定御朱印は確認できませんでした。


●オリジナル御朱印帳

●三つ葉葵の紋(紺・薄緑)
・16cm × 11cm
・1000円


●浮世絵(期間限定)
・18cm × 12cm
・1500円

上野公園で頂ける御朱印

上野公園では7寺社が存在し、通常の御朱印9つを頂くことができます。
期間限定・特別御朱印や月替わりの御朱印を含めると、もっとたくさんの御朱印を頂くことができるという。 さらにオリジナル御朱印帳もあったりします。

そんなこんなで、上野公園で頂ける御朱印をまとめてみました。
上野公園で頂ける御朱印とオリジナル御朱印帳のまとめ
上野公園の御朱印マップどっからどこまでが上野公園なのかわからないけど、とにかく巨大な公園。そんな上野公園では7寺社が存在し、通常の御朱印9つを頂くことができます。期間限定・特別御朱印や月替わりの御朱印を...

拝観情報とアクセス

~~~拝観情報~~~

●開門時間
・9:00〜17:00

●本堂の拝観
・10:00〜16:00
・無料
・無休


~~~アクセス~~~

●電車
・JR山手線・京浜東北線
 鶯谷駅南口から徒歩5分

・JR山手線・東京メトロ
 上野駅から徒歩15分

●バス
・東西めぐりん
 寛永寺バス停から徒歩すぐ

●駐車場
・専用駐車場はありません

寛永寺・根本中堂の地図

 

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