所在地 | 東京都台東区上野公園14−14 |
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宗 派 | 天台宗 |
由 緒 | 1644年、寛永寺を造営した慈眼大師・天海大僧正を祀る開山堂を創建。その後、寛永寺の本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移して、慈恵大師・慈眼大師を祀ったことから両大師と呼ばれるようになりました。 |
HP | 開山堂(両大師) |
Contents
輪王寺とは?
●上野公園のマップ」
上野公園・東京国立博物館の近くにある輪王寺(開山堂・両大師)に到着。
どうやらこのお寺は東京で唯一の門跡寺院らしいですよ。
●ザックリと簡単に輪王寺とは?
輪王寺は、もともと寛永寺のお堂の1つで、慈眼大師・天海を祀る開山堂でした。
その後、寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、慈恵大師・慈眼大師を祀ったことから両大師と呼ばれるようになりました。
その後、1654年に寛永寺・3代目の貫首に後水尾天皇の第3皇子・守燈法親王が就任しました。
守燈法親王は東叡山・比叡山・日光山の三山を兼務したという。
そして、守澄法親王に輪王寺宮の称号が与えられると、幕末まで皇族が関東に下向し、代々輪王寺宮を継承しました。
しかし、江戸時代末期の戊辰戦争(上野戦争)で、輪王寺宮は中絶してしまいます。
しかし、東京で唯一の門跡寺院の名が途絶えたことを惜しんだ東叡山と日光山の要請により、1883年に輪王寺というお寺が再興されました。 さらに2年後、門跡寺院としての再興も許され、東京で唯一の門跡寺院として現在にいたります。
●簡単にまとめると
・輪王寺はもともと寛永寺のお堂の1つ
・当初は開山堂だった
・開山堂なのに寛永寺と関係ない慈恵大師が祀られている
・江戸時代には輪王寺というお寺は存在しない
・輪王寺宮というのはお寺の名前ではなく守澄法親王の称号
・明治時代に輪王寺というお寺になる
・東京で唯一の門跡寺院
なんだかすんごくややこしいです(笑)
輪王寺といいながら寛永寺が管理してるというところもややこしいです。
●開山堂とは?
お寺を創建した人を祀るお堂です。
輪王寺の場合、寛永寺の創建者である慈眼大師・天海大僧正が祀られています。
●門跡寺院とは?
皇族や皇室にゆかりのある貴族が住職を務める寺院のことです。
上野公園・東京国立博物館の近くにある輪王寺(開山堂・両大師)に到着。
どうやらこのお寺は東京で唯一の門跡寺院らしいですよ。
●ザックリと簡単に輪王寺とは?
輪王寺は、もともと寛永寺のお堂の1つで、慈眼大師・天海を祀る開山堂でした。
その後、寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、慈恵大師・慈眼大師を祀ったことから両大師と呼ばれるようになりました。
その後、1654年に寛永寺・3代目の貫首に後水尾天皇の第3皇子・守燈法親王が就任しました。
守燈法親王は東叡山・比叡山・日光山の三山を兼務したという。
そして、守澄法親王に輪王寺宮の称号が与えられると、幕末まで皇族が関東に下向し、代々輪王寺宮を継承しました。
しかし、江戸時代末期の戊辰戦争(上野戦争)で、輪王寺宮は中絶してしまいます。
しかし、東京で唯一の門跡寺院の名が途絶えたことを惜しんだ東叡山と日光山の要請により、1883年に輪王寺というお寺が再興されました。 さらに2年後、門跡寺院としての再興も許され、東京で唯一の門跡寺院として現在にいたります。
●簡単にまとめると
・輪王寺はもともと寛永寺のお堂の1つ
・当初は開山堂だった
・開山堂なのに寛永寺と関係ない慈恵大師が祀られている
・江戸時代には輪王寺というお寺は存在しない
・輪王寺宮というのはお寺の名前ではなく守澄法親王の称号
・明治時代に輪王寺というお寺になる
・東京で唯一の門跡寺院
なんだかすんごくややこしいです(笑)
輪王寺といいながら寛永寺が管理してるというところもややこしいです。
●開山堂とは?
お寺を創建した人を祀るお堂です。
輪王寺の場合、寛永寺の創建者である慈眼大師・天海大僧正が祀られています。
●門跡寺院とは?
皇族や皇室にゆかりのある貴族が住職を務める寺院のことです。
山門と水盤と銅燈籠
●境内入口
そんなこんなで、参拝開始。
慈恵大師・良源と慈眼大師・天海が祀られてるということで、境内入口には両大師と書かれた立札がありました。
江戸文字もしくは寄席文字の書体が東京らしくて素敵です^^
このキーホルダー欲しいなぁ(笑)
●山門
●山門
・建立年不明
・瓦葺 薬医門
そんなことより、屋根瓦を見ると・・・二引き両の紋!?!?
ということは、足利氏と関係のあるお寺なのかなぁ???
うぅ~ん・・・寛永寺は徳川家の菩提寺なのに・・・。
どう見ても二引き両が違和感アリアリで気になって仕方ないです(笑)
ということで調べてみると、この紋は天海が使用していた紋なんだって。
これで納得^^
山門の左には東叡山寛永寺 開山堂。
そして右には厄除け両大師と書かれていました。
そんなこんなで、山門をくぐると参道に突入。
●参道
参道脇には古そうな水盤と、これまた古そうな銅燈籠が立ち並んでいました。
●参道の水盤
水盤には二引き両と法輪の紋がありました。
先ほどの山門で、二引き両は天海が使用していた紋ということを学んだのですが、法輪はどんな意味があるんだろう・・・???
寺紋かなぁ・・・???
そんなこんなで、再び調べてみることに。
どうやら、法輪も天海が使用していた紋とのこと!
ということで、天海は二引き両と法輪の2種類の紋を使用していたんですね。
そういえば、先ほど参拝した不忍池弁天堂の本堂にも法輪が描かれていたなぁ!
なんだか、いろいろと繋がってきたので楽しくなってきたぞ~(笑)
●銅燈籠
●銅燈籠
・江戸時代初期建立
・国の旧重要美術品
そんなこんなで、参道脇の水盤に別れを告げて、銅燈籠を鑑賞してみることに。
この銅燈籠は、もともと大猷院殿廟(家光のお墓)にあったものなんだって。
燈籠をよく見てみると三つ葉葵とニ引き両の紋が刻まれていました。
三つ葉葵 → 徳川
ニ引き両 → 天海
燈籠を見るだけで、この輪王寺がもともと寛永寺のお堂だったということがわかりますね!
その他、天女と龍と獅子と蓮弁が刻まれていました。
いやはや、素敵な燈籠でした。
そんなこんなで、参拝開始。
慈恵大師・良源と慈眼大師・天海が祀られてるということで、境内入口には両大師と書かれた立札がありました。
江戸文字もしくは寄席文字の書体が東京らしくて素敵です^^
このキーホルダー欲しいなぁ(笑)
●山門
●山門
・建立年不明
・瓦葺 薬医門
そんなことより、屋根瓦を見ると・・・二引き両の紋!?!?
ということは、足利氏と関係のあるお寺なのかなぁ???
うぅ~ん・・・寛永寺は徳川家の菩提寺なのに・・・。
どう見ても二引き両が違和感アリアリで気になって仕方ないです(笑)
ということで調べてみると、この紋は天海が使用していた紋なんだって。
これで納得^^
山門の左には東叡山寛永寺 開山堂。
そして右には厄除け両大師と書かれていました。
そんなこんなで、山門をくぐると参道に突入。
●参道
参道脇には古そうな水盤と、これまた古そうな銅燈籠が立ち並んでいました。
●参道の水盤
水盤には二引き両と法輪の紋がありました。
先ほどの山門で、二引き両は天海が使用していた紋ということを学んだのですが、法輪はどんな意味があるんだろう・・・???
寺紋かなぁ・・・???
そんなこんなで、再び調べてみることに。
どうやら、法輪も天海が使用していた紋とのこと!
ということで、天海は二引き両と法輪の2種類の紋を使用していたんですね。
そういえば、先ほど参拝した不忍池弁天堂の本堂にも法輪が描かれていたなぁ!
なんだか、いろいろと繋がってきたので楽しくなってきたぞ~(笑)
●銅燈籠
●銅燈籠
・江戸時代初期建立
・国の旧重要美術品
そんなこんなで、参道脇の水盤に別れを告げて、銅燈籠を鑑賞してみることに。
この銅燈籠は、もともと大猷院殿廟(家光のお墓)にあったものなんだって。
燈籠をよく見てみると三つ葉葵とニ引き両の紋が刻まれていました。
三つ葉葵 → 徳川
ニ引き両 → 天海
燈籠を見るだけで、この輪王寺がもともと寛永寺のお堂だったということがわかりますね!
その他、天女と龍と獅子と蓮弁が刻まれていました。
いやはや、素敵な燈籠でした。
手水舎と鐘楼
●手水舎
●手水舎
・江戸時代建立(?)
・銅板葺 切妻造
手水舎には青銅製の水盤がありました。
これがなかなか気合いの入った作りになっているんです。
水盤の四隅を獅子が支えて、側面には鶴の取っ手(?)が付いているという。
しかも鶴にはネックレスが(笑)
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 八脚の切妻造
もともとこの鐘楼には1651年鋳造の梵鐘が吊るされていたそうですが、現在は阿弥陀堂内に置かれています。
●梵鐘
・1651年鋳造
・総高 145.2cm
・口径 84.8cm
・国の旧重要美術品
ちなみにこちらが阿弥陀堂に置かれている梵鐘です。
この梵鐘は、1651年に長谷川家吉(舎吉)が鋳造し、大猷院殿廟前の鐘楼に懸けられていたと考えられています。
大猷院殿廟は1720年の火災で焼失。。。
その後、この地にお引越ししてきたみたいですよ。
ちなみに長谷川家吉は、江戸時代前期に活躍した江戸の鋳物師です。
長谷川家吉が造った梵鐘は関東を中心に6例あり、それらは1644〜1652年のわずかな期間に集中しているそうです。
●手水舎
・江戸時代建立(?)
・銅板葺 切妻造
手水舎には青銅製の水盤がありました。
これがなかなか気合いの入った作りになっているんです。
水盤の四隅を獅子が支えて、側面には鶴の取っ手(?)が付いているという。
しかも鶴にはネックレスが(笑)
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 八脚の切妻造
もともとこの鐘楼には1651年鋳造の梵鐘が吊るされていたそうですが、現在は阿弥陀堂内に置かれています。
●梵鐘
・1651年鋳造
・総高 145.2cm
・口径 84.8cm
・国の旧重要美術品
ちなみにこちらが阿弥陀堂に置かれている梵鐘です。
この梵鐘は、1651年に長谷川家吉(舎吉)が鋳造し、大猷院殿廟前の鐘楼に懸けられていたと考えられています。
大猷院殿廟は1720年の火災で焼失。。。
その後、この地にお引越ししてきたみたいですよ。
ちなみに長谷川家吉は、江戸時代前期に活躍した江戸の鋳物師です。
長谷川家吉が造った梵鐘は関東を中心に6例あり、それらは1644〜1652年のわずかな期間に集中しているそうです。
本堂と阿弥陀堂
●本堂
●本堂
・1993年再建
・瓦葺 入母屋造
本堂は戊辰戦争・関東大震災・東京大空襲を乗り切ったにも関わらず、1989年の火災で焼失してしまったという・・・
もったいない(/ _ ; )
ということで、現在のお堂は1993年に再建されたものです。
そんなこんなで、堂内へ。
堂内には本尊の阿弥陀如来像。
そして、慈眼大師坐像と元三大師画像が安置されていました。
ちなみに堂内は撮影禁止でした。
●本尊・阿弥陀如来像
・平安時代作
・東京都指定文化財
●慈眼大師坐像
・東京都指定有形文化財
●元三大師画像
・室町時代初期作
・台東区指定有形文化財
●阿弥陀堂
●阿弥陀堂
・建立年不明
・瓦葺 漆喰壁 宝形造
・左 → 地蔵菩薩立像
・中 → 阿弥陀如来坐像
・右 → 虚空蔵菩薩坐像
堂内には3体の仏像さんがおられました。
本尊が阿弥陀さんなので脇侍は聖観音と勢至菩薩といういつものメンバーなんだろうなぁ〜と思ったら、地蔵さんと虚空蔵さんでした!
このパターンの三尊像って珍しいですね!
●法華塔と地蔵堂
●法華塔(写真左)
・建立年不明(1828年建立?)
境内には青銅製の宝塔がありました。
これは一体なんだろう・・・???
と思い、観察してみると八角台座に法華塔と刻まれていました。
ということで、この塔には法華経が納められているということなんですね。
どこかに建立年の手がかりになるものがないかなぁ~と探してみましたが、わかりませんでした。
ネットの情報によると文政11年建立という噂も。
●地蔵堂(写真右)
・建立年不明
・銅板葺 妻入りの切妻造
堂内には2体のお地蔵さんが安置されていました。
ということでお地蔵さんの真言・オンカカカビ サンマエイソワカ×3を唱えて帰りました。
●本堂
・1993年再建
・瓦葺 入母屋造
本堂は戊辰戦争・関東大震災・東京大空襲を乗り切ったにも関わらず、1989年の火災で焼失してしまったという・・・
もったいない(/ _ ; )
ということで、現在のお堂は1993年に再建されたものです。
そんなこんなで、堂内へ。
堂内には本尊の阿弥陀如来像。
そして、慈眼大師坐像と元三大師画像が安置されていました。
ちなみに堂内は撮影禁止でした。
●本尊・阿弥陀如来像
・平安時代作
・東京都指定文化財
●慈眼大師坐像
・東京都指定有形文化財
●元三大師画像
・室町時代初期作
・台東区指定有形文化財
●阿弥陀堂
●阿弥陀堂
・建立年不明
・瓦葺 漆喰壁 宝形造
・左 → 地蔵菩薩立像
・中 → 阿弥陀如来坐像
・右 → 虚空蔵菩薩坐像
堂内には3体の仏像さんがおられました。
本尊が阿弥陀さんなので脇侍は聖観音と勢至菩薩といういつものメンバーなんだろうなぁ〜と思ったら、地蔵さんと虚空蔵さんでした!
このパターンの三尊像って珍しいですね!
●法華塔と地蔵堂
●法華塔(写真左)
・建立年不明(1828年建立?)
境内には青銅製の宝塔がありました。
これは一体なんだろう・・・???
と思い、観察してみると八角台座に法華塔と刻まれていました。
ということで、この塔には法華経が納められているということなんですね。
どこかに建立年の手がかりになるものがないかなぁ~と探してみましたが、わかりませんでした。
ネットの情報によると文政11年建立という噂も。
●地蔵堂(写真右)
・建立年不明
・銅板葺 妻入りの切妻造
堂内には2体のお地蔵さんが安置されていました。
ということでお地蔵さんの真言・オンカカカビ サンマエイソワカ×3を唱えて帰りました。
慈眼大師・天海とは?
●ザックリと簡単に慈眼大師・天海とは?
天海とは、徳川家康・秀忠・家光と徳川3代にわたって徳川将軍家を支えた天台宗の僧です。
僧でありながら徳川家康の側近として影響力を持っていました。
相当な大物だったにも関わらず、周囲や弟子たちに自分の出自について語ることはなかったといいます。
そのため、天海の前半生は謎が多いそうです。
あと、天海 = 明智光秀説で有名なお方です。
●主な功績
・江戸の町づくりに陰陽道の思想を取り入れた。
・徳川将軍家の菩提寺・寛永寺を建立した。
・徳川家康の死後、家康に東照大権現の神号を決定した。
・日光東照宮を建立した。
・木製の活字を使って一切経を印刷して出版した。
●天海僧正毛髪塔
ちなみに、上野公園内にある清水観音堂の裏には、天海の毛髪を納めた宝塔がありました。
●天海の年表
●南光坊天海 = 明智光秀!?
天海を有名にしたのが、南光坊天海 = 明智光秀説。歴史好きの人は誰もが知っている有名な説です。
死んだはずの光秀は実は生きていて、徳川家康の側近として江戸幕府を裏で支えていたんじゃないかとか・・・ワクワクしますね。
説の根拠
①徳川家康を祀る日光東照宮に、光秀の家紋である桔梗紋が多く見られる。
②日光に天海が名付けた明智平と呼ばれる地がある。
③徳川秀忠の秀と徳川家光の光は、光秀の名から。徳川家綱の綱は光秀の父・明智光綱から。徳川家継の継は光秀の祖父・明智光継に由来するとか。
④比叡山に光秀の名で寄進された石灯籠が残っている。光秀が亡くなったのは1582年。石灯籠が寄進されたのは1615年。
⑤光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍・徳川家光の乳母になり、天海に会った時に『お久しぶりです』と声をかけたと記された書物がある。
⑥童謡・かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が、光秀 = 天海を示すという説。
⑦天海が亡くなった際、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海の出身地といわれる会津の龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。
⑧喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存。ちなみに光秀は鉄砲の名手。
⑨家康と天海が初めて対面した時、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することは前例のないことなので、側近の者達も『一体、これはどうしたことであろう』と目を見張ったという書物がある。
⑩比叡山の叡山文庫には、俗名が光秀という僧の記録がある。
などなど、たくさんの天海 = 光秀説があります。
逆に異を唱える説もたくさんあります(笑)
本能寺の変の裏で、実は光秀と家康は手を組んでおり、光秀は死んだと見せかけて天海と名前を変えて、家康と天下取りをした・・・私は浪漫派なので、天海 = 光秀を推したいです。こうやって何が真実なのかわからないままワクワクするのが楽しいです。
天海とは、徳川家康・秀忠・家光と徳川3代にわたって徳川将軍家を支えた天台宗の僧です。
僧でありながら徳川家康の側近として影響力を持っていました。
相当な大物だったにも関わらず、周囲や弟子たちに自分の出自について語ることはなかったといいます。
そのため、天海の前半生は謎が多いそうです。
あと、天海 = 明智光秀説で有名なお方です。
●主な功績
・江戸の町づくりに陰陽道の思想を取り入れた。
・徳川将軍家の菩提寺・寛永寺を建立した。
・徳川家康の死後、家康に東照大権現の神号を決定した。
・日光東照宮を建立した。
・木製の活字を使って一切経を印刷して出版した。
●天海僧正毛髪塔
ちなみに、上野公園内にある清水観音堂の裏には、天海の毛髪を納めた宝塔がありました。
●天海の年表
1536年 | 現在の会津美里町に生まれる。 幼名は兵太郎。 父は舟木景光。 母は蘆名氏の娘。 |
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1546年 | 龍興寺で出家。 隋風と名乗り3年間修行をする。 |
1549年 | 各地へ遊学。 天台宗や法相宗の名刹や足利学校などで学ぶ。 |
1553年 | 天台宗の総本山、比叡山に入山し天台教学を学ぶ。 |
1556年 | 比叡山を下山。 大津・三井寺や、奈良・興福寺などで学ぶ。 |
1560年 | 栃木の足利学校で4年間にわたり、儒学・漢学・易学・国学・経済学・天文学・医学・兵学を学ぶ。 |
1571年 | 再び、比叡山入山を試みるが、織田信長の比叡山焼き打ちにより果たせず。 学僧・衆徒とともに武田信玄の元に身を寄せる。 |
1573年 | 会津に帰国。約10年間滞在。 |
1577年 | 蘆名氏の要請を受けて、善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。 会津若松の黒川稲荷堂の別当を務める。 |
1589年 | 蘆名氏が磨上原の合戦で伊達政宗に破れ、蘆名盛重とともに白川に逃れる。 |
1590年 | 川越の無量寿寺・北院に移り、天海と改名する。 この年、徳川家康と初対面。 |
1596年 | 無量寿寺・北院の住職・豪海が亡くなり、天海は無量寿寺・北院の第27世住職になる。 |
1603年 | 江戸幕府が開幕。 この年、徳川家康に登用される。 |
1607年 | 徳川家康の依頼で比叡山探題奉行となり、比叡山延暦寺を再興。 |
1609年 | 比叡山・東塔の南光坊に住む。 天台宗の権僧正になる |
1616年 | 徳川家康の病気見舞いのため、駿府を訪れる。家康は、天海・金地院崇伝・本田正純の3人に遺言する。その後、徳川家康は死去。天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に家康を埋葬する。天台宗の大僧正となる。 |
1617年 | 朝廷より家康に東照大権現の神号を賜わる。家康の遺骸を久能山から日光山に改葬。 |
1620年 | 徳川秀忠が、日光山・久能山・喜多院寺領の朱印を大僧正に任せる。 |
1623年 | 上野に寛永寺の造営を始める。 |
1625年 | 東叡山寛永寺を創建。 寛永寺を徳川将軍家の菩提寺とする。 |
1628年 | 東照宮を建立。 |
1643年 | 108歳で死去。 徳川家康と同じく日光に埋葬される。 |
1648年 | 朝廷より慈眼大師の諡号を賜わる。 |
●南光坊天海 = 明智光秀!?
天海を有名にしたのが、南光坊天海 = 明智光秀説。歴史好きの人は誰もが知っている有名な説です。
死んだはずの光秀は実は生きていて、徳川家康の側近として江戸幕府を裏で支えていたんじゃないかとか・・・ワクワクしますね。
説の根拠
①徳川家康を祀る日光東照宮に、光秀の家紋である桔梗紋が多く見られる。
②日光に天海が名付けた明智平と呼ばれる地がある。
③徳川秀忠の秀と徳川家光の光は、光秀の名から。徳川家綱の綱は光秀の父・明智光綱から。徳川家継の継は光秀の祖父・明智光継に由来するとか。
④比叡山に光秀の名で寄進された石灯籠が残っている。光秀が亡くなったのは1582年。石灯籠が寄進されたのは1615年。
⑤光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍・徳川家光の乳母になり、天海に会った時に『お久しぶりです』と声をかけたと記された書物がある。
⑥童謡・かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が、光秀 = 天海を示すという説。
⑦天海が亡くなった際、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海の出身地といわれる会津の龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。
⑧喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存。ちなみに光秀は鉄砲の名手。
⑨家康と天海が初めて対面した時、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することは前例のないことなので、側近の者達も『一体、これはどうしたことであろう』と目を見張ったという書物がある。
⑩比叡山の叡山文庫には、俗名が光秀という僧の記録がある。
などなど、たくさんの天海 = 光秀説があります。
逆に異を唱える説もたくさんあります(笑)
本能寺の変の裏で、実は光秀と家康は手を組んでおり、光秀は死んだと見せかけて天海と名前を変えて、家康と天下取りをした・・・私は浪漫派なので、天海 = 光秀を推したいです。こうやって何が真実なのかわからないままワクワクするのが楽しいです。
慈恵大師・良源とは?
●ザックリと簡単に慈恵大師・良源とは?
良源とは、平安時代に活躍した天台宗の僧です。
比叡山延暦寺を再興したことにより、延暦寺中興の祖といわれています。
天台宗のトップである18代目・天台座主も務めました。
亡くなった日が1月3日(元三)なので、通称・元三大師という名で知られています。
また、角大師・豆大師・厄除け大師など、様々な厄災除けの護符で有名なお方です。
さらに、おみくじの創始者としても有名なお方です。
●角大師
お寺巡りをしておられる方なら、きっと1度は目にしたことがあると思われる、この護符。
実は、この護符は良源さんのお姿なんです。
良源さんって、こんな怖い人なの???
よ、妖怪じゃん!
って思われる方もいるかも知れませんが、この姿には理由があるのです。
理由はこちら
↓
良源が疫病にかかった際、良源の前に疫鬼が現れたという。
しかし、良源は鬼のような姿になっていたので、ビビった疫鬼は退散しました。
そんなこんなで、その時の姿を描いたのが角大師のお姿ということなんです。
触覚のような角と骨皮ボディー・・・相当なインパクトのある護符です。
目がグッリグリで可愛い・・・でもその可愛さが逆にこわい(笑)
玄関などにこの護符を貼れば、厄除け間違いなしですね!
厄どころか人も逃げちゃいそうです(笑)
●豆大師
お次は豆大師の護符です。
角大師同様、こちらの豆大師の護符もよく見かけますね!
実はこちらも良源さんのお姿なんです。
良源さんって分身の術が使えたの???
答えは・・・使えたのです!
角大師同様、この姿にも理由があるのです。
理由はこちら
↓
良源は如意輪観音の化身といわれています。
観音さんは33の姿に変身して、あらゆる人々を救うといわれています。
そんなこんなで、33の姿に変身した良源さんが皆様をお守りしますよ~という姿がこの豆大師なんです。
護符には豆粒のような33体の良源さんが描かれています。
災難除けに御利益があるそうですよ。
それにしても、なんだか夢に出てきそうです・・・こちらもインパクトのある護符ですね!
ちなみにこの輪王寺では、角大師の護符を手に入れることができます。
疫病退散!
まさにコロナ禍にもってこいの護符ですね。
良源とは、平安時代に活躍した天台宗の僧です。
比叡山延暦寺を再興したことにより、延暦寺中興の祖といわれています。
天台宗のトップである18代目・天台座主も務めました。
亡くなった日が1月3日(元三)なので、通称・元三大師という名で知られています。
また、角大師・豆大師・厄除け大師など、様々な厄災除けの護符で有名なお方です。
さらに、おみくじの創始者としても有名なお方です。
●角大師
お寺巡りをしておられる方なら、きっと1度は目にしたことがあると思われる、この護符。
実は、この護符は良源さんのお姿なんです。
良源さんって、こんな怖い人なの???
よ、妖怪じゃん!
って思われる方もいるかも知れませんが、この姿には理由があるのです。
理由はこちら
↓
良源が疫病にかかった際、良源の前に疫鬼が現れたという。
しかし、良源は鬼のような姿になっていたので、ビビった疫鬼は退散しました。
そんなこんなで、その時の姿を描いたのが角大師のお姿ということなんです。
触覚のような角と骨皮ボディー・・・相当なインパクトのある護符です。
目がグッリグリで可愛い・・・でもその可愛さが逆にこわい(笑)
玄関などにこの護符を貼れば、厄除け間違いなしですね!
厄どころか人も逃げちゃいそうです(笑)
●豆大師
お次は豆大師の護符です。
角大師同様、こちらの豆大師の護符もよく見かけますね!
実はこちらも良源さんのお姿なんです。
良源さんって分身の術が使えたの???
答えは・・・使えたのです!
角大師同様、この姿にも理由があるのです。
理由はこちら
↓
良源は如意輪観音の化身といわれています。
観音さんは33の姿に変身して、あらゆる人々を救うといわれています。
そんなこんなで、33の姿に変身した良源さんが皆様をお守りしますよ~という姿がこの豆大師なんです。
護符には豆粒のような33体の良源さんが描かれています。
災難除けに御利益があるそうですよ。
それにしても、なんだか夢に出てきそうです・・・こちらもインパクトのある護符ですね!
ちなみにこの輪王寺では、角大師の護符を手に入れることができます。
疫病退散!
まさにコロナ禍にもってこいの護符ですね。
御朱印情報
●御朱印情報
御朱印は本堂内で頂きました。
●御朱印の受付時間
・8:00~16:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・確認できませんでした
(2020年11月現在)
御朱印は本堂内で頂きました。
●御朱印の受付時間
・8:00~16:00
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・確認できませんでした
(2020年11月現在)
上野公園で頂ける御朱印
上野公園では7寺社が存在し、通常の御朱印9つを頂くことができます。
期間限定・特別御朱印や月替わりの御朱印を含めると、もっとたくさんの御朱印を頂くことができるという。 さらにオリジナル御朱印帳もあったりします。
そんなこんなで、上野公園で頂ける御朱印をまとめてみました。
期間限定・特別御朱印や月替わりの御朱印を含めると、もっとたくさんの御朱印を頂くことができるという。 さらにオリジナル御朱印帳もあったりします。
そんなこんなで、上野公園で頂ける御朱印をまとめてみました。
上野公園で頂ける御朱印とオリジナル御朱印帳のまとめ
上野公園の御朱印マップどっからどこまでが上野公園なのかわからないけど、とにかく巨大な公園。そんな上野公園では7寺社が存在し、通常の御朱印9つを頂くことができます。期間限定・特別御朱印や月替わりの御朱印を...
拝観情報とアクセス
●開門時間
・8:00~16:00
(2020年11月現在)
●拝観料
・無料
●アクセス
・JR上野駅・公園口から徒歩10分
・JR鶯谷駅・南口から徒歩約10分
・京成線・京成上野駅から徒歩約15分
・東西めぐりんバス・東京国立博物館から徒歩約3分
・8:00~16:00
(2020年11月現在)
●拝観料
・無料
●アクセス
・JR上野駅・公園口から徒歩10分
・JR鶯谷駅・南口から徒歩約10分
・京成線・京成上野駅から徒歩約15分
・東西めぐりんバス・東京国立博物館から徒歩約3分