所在地 | 高知県高知市春野町秋山72 |
---|---|
宗 派 | 真言宗豊山派 |
札 所 | 四国八十八ヶ所 第34番 |
前後札所 | ・前 → 第33番札所・雪蹊寺 ・後 → 第35番札所・清瀧寺 |
本 尊 | 薬師如来 |
真 言 | おん ころころ せんだりまとうぎ そわか |
由 緒 | 577年、大阪・四天王寺を建立するため百済から来日した仏師達が、帰国の途中に暴風雨に遭ったという。その際、航海の安全を祈って薬師如来を刻み、本尾山頂に安置したのがこのお寺の始まり。810~824年、空海(弘法大師)がこの地を訪れ、百済の仏師達が刻んだ薬師如来を本尊とし堂宇を建立したそうです。そして空海は唐から持ち帰った五穀の種を境内にまき、種間寺と号したという。江戸時代、土佐藩主・山内氏の加護を受けて栄えますが、明治時代に廃仏毀釈で廃寺になったそうです。その後、1880年に再興したのが現在の種間寺といいます。 |
HP | 本尾山 朱雀院 種間寺 – 四国八十八ヶ所霊場会 |
種間寺とは?
四国八十八ヶ所の第34番札所であります種間寺に到着。
第33番札所・雪蹊寺から7km。
徒歩1時間30分。
車で15分のところに位置しています。
種間寺と書いてたねまじと読みます。
●種間寺とは?
577年、大阪・四天王寺を建立するために百済から来日した仏師達が、帰国の途中に土佐沖で強烈な暴風雨に遭ってしまったという。
そんなこんなで、この地に近い秋山の港に漂着。
その際、航海の安全を祈って像高約145cmの薬師如来坐像を刻んで、本尾山の山頂に安置したのがこのお寺の始まりといいます。
810~824年、弘法大師がこの地を訪れ、百済の仏師達が刻んだ薬師如来坐像を本尊とし堂宇を建立。
そして弘法大師は、唐から持ち帰った五穀の種を境内にまいて種間寺と号し、四国八十八ヶ所の第34番札所に定めたという。
その後、947〜957年に村上天皇が藤原信家を勅使にして種間の勅額を下賜したそうです。
江戸時代、土佐藩主・山内氏からの信仰が厚く、広大な田畑や山林などが寄進されたという。
さらに堂舎の修築も行われ、大いに繁栄したそうです。
しかし、明治時代に廃仏毀釈で廃寺に。。
その後、1880年に再興され、現在に至ります。
577年、大阪・四天王寺を建立するために百済から来日した仏師達が、帰国の途中に土佐沖で強烈な暴風雨に遭ってしまったという。
そんなこんなで、この地に近い秋山の港に漂着。
その際、航海の安全を祈って像高約145cmの薬師如来坐像を刻んで、本尾山の山頂に安置したのがこのお寺の始まりといいます。
810~824年、弘法大師がこの地を訪れ、百済の仏師達が刻んだ薬師如来坐像を本尊とし堂宇を建立。
そして弘法大師は、唐から持ち帰った五穀の種を境内にまいて種間寺と号し、四国八十八ヶ所の第34番札所に定めたという。
その後、947〜957年に村上天皇が藤原信家を勅使にして種間の勅額を下賜したそうです。
江戸時代、土佐藩主・山内氏からの信仰が厚く、広大な田畑や山林などが寄進されたという。
さらに堂舎の修築も行われ、大いに繁栄したそうです。
しかし、明治時代に廃仏毀釈で廃寺に。。
その後、1880年に再興され、現在に至ります。
そんなこんなで、参拝開始。
廃仏毀釈と手水舎と鐘楼
●境内入口
まず最初に登場するのは寺号標。
どうやら、このお寺には山門はないみたいです。
高知県の四国霊場は、このように山門がないお寺と、極端に境内を縮小されたお寺が多いです。
この種間寺も山門はなく、極端に境内を縮小されたお寺の1つでした。
高知県は全国的にみて極端にお寺が少ない県として知られています。
しかし、四国遍路をしているとお寺ばっかりを巡っているので、そのことになかなか気づかないですが・・・!
なぜ、高知県はお寺が少ないのかというと、その原因は廃仏毀釈!
廃仏毀釈の強弱は県や地域によって差が大きいのですが、高知をはじめ鹿児島・水戸・松本・富山・伊勢・苗木(岐阜)・津和野(島根)などは激しい廃仏運動が展開されたといいます。
ある調べによると、全国47都道府県の寺院数は、平均1643ヶ寺といわれています。
なんと、高知県の平均は367ヶ寺!
平均を大きく下回る寺院数なのがわかります。
これだけで、高知県の廃仏運動がいかに激しかったかがわかります。。。
そんなこんなで、この種間寺も廃仏運動が容赦なかったみたいで、シンプルでとってもコンパクトなお寺になっていました。
以上。
いろんな記事を抜粋してまとめてみました!
廃寺率100%の絶対王者・鹿児島が群を抜いているため高知の廃寺率がかすんでしまいますが、71%はスゴい数字です。
そういった歴史を知って旅をすると、高知でお寺巡りをしていることが幸せに感じれますなぁ。
って、前置きが長い!
そんなこんなで、境内へ。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
●手水鉢①
・1914年奉納
まずは、手水舎でお清め。
手水舎には、1914年に奉納された手水鉢がありました。
どうやら、こちらは四国霊場開創1100年を記念して奉納されたもののようです。
●手水鉢②
・1677年奉納
・高さ 38cm
・直径 55cm
・高知市指定有形文化財
ちなみに、境内には高知市の有形文化財に指定されている手水鉢がありました。
噂によると、町内最古の手水鉢なんだって。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。
御本尊さまとお大師さまにご挨拶。
まず最初に登場するのは寺号標。
どうやら、このお寺には山門はないみたいです。
高知県の四国霊場は、このように山門がないお寺と、極端に境内を縮小されたお寺が多いです。
この種間寺も山門はなく、極端に境内を縮小されたお寺の1つでした。
高知県は全国的にみて極端にお寺が少ない県として知られています。
しかし、四国遍路をしているとお寺ばっかりを巡っているので、そのことになかなか気づかないですが・・・!
なぜ、高知県はお寺が少ないのかというと、その原因は廃仏毀釈!
廃仏毀釈の強弱は県や地域によって差が大きいのですが、高知をはじめ鹿児島・水戸・松本・富山・伊勢・苗木(岐阜)・津和野(島根)などは激しい廃仏運動が展開されたといいます。
ある調べによると、全国47都道府県の寺院数は、平均1643ヶ寺といわれています。
なんと、高知県の平均は367ヶ寺!
平均を大きく下回る寺院数なのがわかります。
これだけで、高知県の廃仏運動がいかに激しかったかがわかります。。。
そんなこんなで、この種間寺も廃仏運動が容赦なかったみたいで、シンプルでとってもコンパクトなお寺になっていました。
●ザックリと簡単に廃仏毀釈とは?
廃仏毀釈とは、1868年に明治新政府によって発令された神仏分離令に端を発します。
神仏分離令は、それまで共存状態であった寺院と神社を明確に区別するための政策です。
しかし、新政府は神仏分離令を発したわけで、廃仏毀釈を命じた訳ではありませんでした。
ですが、神仏分離令を拡大解釈して、寺院を破壊する者が現れたのでした。
廃仏毀釈では、建造物だけが失われただけではなく、日本人の宗教観・習俗・文化も壊していきました。
例えば、京都・五山の送り火や、地蔵盆、盆踊りなどの仏教行事を一時期禁止に。
日本三大祭として知られる京都・八坂神社の祇園祭が形態を変えたように、仏教色の強いお祭りは神社色に変えて再スタートを切ることに。
さまざまな仏事が神事に転換させられることを余儀なくされ、このような事例が全国の寺社で見られるようになりました。
最初に暴動が起きたのは1868年。
比叡山延暦寺が支配していた日吉大社でした。
それまで比叡山の僧侶に虐げられていた神官が、仏像・仏具・経典などを焼き払ったことを機に、廃仏毀釈の波は全国に広がっていきました。
とくに薩摩藩では、1066ヶ寺あった寺院がひとつ残らず壊されました。
また、2964人いた僧侶はすべて還俗(一般人に戻ること)させられました。
当時、薩摩藩は西洋化を急いでおり、とくに軍備を拡充するために大量の金属が必要でした。
そこで合理的に金属を徴収するために、梵鐘や仏具などが次々と没収され、それらを大砲などの武器の鋳造に当てていたという。
そして大量の天保通宝を偽造して大インフレを引き起こすことに。
幕末、薩摩藩が雄藩として存在感を示していった背景には、多大なる寺院の犠牲があったのでありました。
高知の廃仏毀釈運動はどうだったのでしょう。
土佐一宮・土佐神社では、鐘楼が廃棄され、表門の仁王像は安芸郡東寺に移動。
土佐神社と善楽寺・神宮寺は分離。
山内家が土佐に入部して始まった法華経千部経転読法会が廃止。
寺院から寺領を没収し『僧徒還俗を欲する者好に任すべし』と、僧侶の還俗を勧誘したそうです。
などなど、様々な運動が起こり、寺領を失った寺院は没落するしかなかったといいます。
また、山内家は高知城内に祖宗を祀る山内神社を創建し仏教式のお祭りを全て廃止したそうです。
藩は当初10ヶ寺ほどを残し、残りは全て廃寺にする予定だったそうですが、抗議のため焼身自殺を図る者や僧侶たちの抵抗もあり、思うように廃寺が進まなかったそうです。
しかし、当時615ヶ寺あった寺院のうち、439ヶ寺が廃寺に追い込まれたという。
その廃寺率はなんと71%!
廃寺になる際、仏像などは他の場所に避難させたり、地中に埋めるなどして守られたそうです。
そして、売り払われた仏像も数多くあったといいます。
ちなみに、何で高知県は廃仏毀釈運動が激しかったのか・・・実のところ、はっきりとした理由は判明してないようです。
土佐独自の学問・南学が儒教と垂加神道の色合いが濃いからという説や、幕末の土佐は神道色の強い政治だったからという説や、土佐の村々には数多の神々がいるという、土佐特有の宗教感があったからという説や・・・などなど。
廃仏毀釈とは、1868年に明治新政府によって発令された神仏分離令に端を発します。
神仏分離令は、それまで共存状態であった寺院と神社を明確に区別するための政策です。
しかし、新政府は神仏分離令を発したわけで、廃仏毀釈を命じた訳ではありませんでした。
ですが、神仏分離令を拡大解釈して、寺院を破壊する者が現れたのでした。
廃仏毀釈では、建造物だけが失われただけではなく、日本人の宗教観・習俗・文化も壊していきました。
例えば、京都・五山の送り火や、地蔵盆、盆踊りなどの仏教行事を一時期禁止に。
日本三大祭として知られる京都・八坂神社の祇園祭が形態を変えたように、仏教色の強いお祭りは神社色に変えて再スタートを切ることに。
さまざまな仏事が神事に転換させられることを余儀なくされ、このような事例が全国の寺社で見られるようになりました。
最初に暴動が起きたのは1868年。
比叡山延暦寺が支配していた日吉大社でした。
それまで比叡山の僧侶に虐げられていた神官が、仏像・仏具・経典などを焼き払ったことを機に、廃仏毀釈の波は全国に広がっていきました。
とくに薩摩藩では、1066ヶ寺あった寺院がひとつ残らず壊されました。
また、2964人いた僧侶はすべて還俗(一般人に戻ること)させられました。
当時、薩摩藩は西洋化を急いでおり、とくに軍備を拡充するために大量の金属が必要でした。
そこで合理的に金属を徴収するために、梵鐘や仏具などが次々と没収され、それらを大砲などの武器の鋳造に当てていたという。
そして大量の天保通宝を偽造して大インフレを引き起こすことに。
幕末、薩摩藩が雄藩として存在感を示していった背景には、多大なる寺院の犠牲があったのでありました。
高知の廃仏毀釈運動はどうだったのでしょう。
土佐一宮・土佐神社では、鐘楼が廃棄され、表門の仁王像は安芸郡東寺に移動。
土佐神社と善楽寺・神宮寺は分離。
山内家が土佐に入部して始まった法華経千部経転読法会が廃止。
寺院から寺領を没収し『僧徒還俗を欲する者好に任すべし』と、僧侶の還俗を勧誘したそうです。
などなど、様々な運動が起こり、寺領を失った寺院は没落するしかなかったといいます。
また、山内家は高知城内に祖宗を祀る山内神社を創建し仏教式のお祭りを全て廃止したそうです。
藩は当初10ヶ寺ほどを残し、残りは全て廃寺にする予定だったそうですが、抗議のため焼身自殺を図る者や僧侶たちの抵抗もあり、思うように廃寺が進まなかったそうです。
しかし、当時615ヶ寺あった寺院のうち、439ヶ寺が廃寺に追い込まれたという。
その廃寺率はなんと71%!
廃寺になる際、仏像などは他の場所に避難させたり、地中に埋めるなどして守られたそうです。
そして、売り払われた仏像も数多くあったといいます。
ちなみに、何で高知県は廃仏毀釈運動が激しかったのか・・・実のところ、はっきりとした理由は判明してないようです。
土佐独自の学問・南学が儒教と垂加神道の色合いが濃いからという説や、幕末の土佐は神道色の強い政治だったからという説や、土佐の村々には数多の神々がいるという、土佐特有の宗教感があったからという説や・・・などなど。
以上。
いろんな記事を抜粋してまとめてみました!
廃寺率100%の絶対王者・鹿児島が群を抜いているため高知の廃寺率がかすんでしまいますが、71%はスゴい数字です。
そういった歴史を知って旅をすると、高知でお寺巡りをしていることが幸せに感じれますなぁ。
って、前置きが長い!
そんなこんなで、境内へ。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
●手水鉢①
・1914年奉納
まずは、手水舎でお清め。
手水舎には、1914年に奉納された手水鉢がありました。
どうやら、こちらは四国霊場開創1100年を記念して奉納されたもののようです。
●手水鉢②
・1677年奉納
・高さ 38cm
・直径 55cm
・高知市指定有形文化財
ちなみに、境内には高知市の有形文化財に指定されている手水鉢がありました。
噂によると、町内最古の手水鉢なんだって。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。
御本尊さまとお大師さまにご挨拶。
本堂と大師堂
●本堂
●本堂
・昭和時代再建
・銅板葺 入母屋造
・鉄筋コンクリート造
●本尊
・薬師如来
●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
そして、本堂で参拝。
本堂はモダンなRC造。
もともとあったお堂は1970年の台風10号(土佐湾台風)で損壊してしまったみたいです。
そんなこんなで、その後に再建されたのが現在の本堂なんだって。
●本尊 薬師如来坐像
・平安時代後期作
・像高 140.3cm
・国指定重要文化財
本尊は平安時代後期作で国重文の薬師さん。
このお寺は、明治時代の廃仏毀釈で廃寺になっていますので、おそらくこの御本尊さまは廃寺中、どこかに避難していたのでしょう(推測)
残念ながら秘仏のため拝顔することはできませんでしたが、噂によると毎年3月8日に御開帳されているそうですよ。
ちなみに、このお寺には御本尊さまの他にもう1体薬師如来さんがおられるみたいです。
あと、堂内には脇侍の日光・月光菩薩像と不動明王像と大黒天像が安置されていました。
こちらの仏像さんは、拝顔することができましたよ。
●大師堂
●大師堂
・昭和時代再建
・銅板葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
どうやら、こちらも本堂同様、1970年の台風後に再建されたもののようです。
それにしても、小さなお堂のわりに大きな木鼻だなぁ。
しかもこんなにも低い位置に!
木鼻が近っ!
WAOっ!
●本堂
・昭和時代再建
・銅板葺 入母屋造
・鉄筋コンクリート造
●本尊
・薬師如来
●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
そして、本堂で参拝。
本堂はモダンなRC造。
もともとあったお堂は1970年の台風10号(土佐湾台風)で損壊してしまったみたいです。
そんなこんなで、その後に再建されたのが現在の本堂なんだって。
●本尊 薬師如来坐像
・平安時代後期作
・像高 140.3cm
・国指定重要文化財
本尊は平安時代後期作で国重文の薬師さん。
このお寺は、明治時代の廃仏毀釈で廃寺になっていますので、おそらくこの御本尊さまは廃寺中、どこかに避難していたのでしょう(推測)
残念ながら秘仏のため拝顔することはできませんでしたが、噂によると毎年3月8日に御開帳されているそうですよ。
ちなみに、このお寺には御本尊さまの他にもう1体薬師如来さんがおられるみたいです。
あと、堂内には脇侍の日光・月光菩薩像と不動明王像と大黒天像が安置されていました。
こちらの仏像さんは、拝顔することができましたよ。
●薬師如来立像
・平安時代後期作
・像高 32.3cm
・一木造
・高知市指定有形文化財
●大黒天像(さわり大黒)
・2008年作
・総高 約150cm
・像高 約100cm
・欅材 寄木造
・平安時代後期作
・像高 32.3cm
・一木造
・高知市指定有形文化財
●大黒天像(さわり大黒)
・2008年作
・総高 約150cm
・像高 約100cm
・欅材 寄木造
●大師堂
●大師堂
・昭和時代再建
・銅板葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
どうやら、こちらも本堂同様、1970年の台風後に再建されたもののようです。
それにしても、小さなお堂のわりに大きな木鼻だなぁ。
しかもこんなにも低い位置に!
木鼻が近っ!
WAOっ!
子育観音と奥の院
●子育観音
そんなこんなで、境内を散策。
・・・再び、鐘楼???
と思ったら、お堂の中には銅製の観音さんがおられました。
どうやら、こちらは子育観音さんのようです。
この種間寺は安産祈願で知られるお寺さんなんだって。
それはそうと、子育観音さんの周りには、たくさんの柄杓が奉納されていました。
よく見ると、柄杓には底がない!
これは、どういうことだぃ???
どうやら、この柄杓には
底がない柄杓 → 通りがよい → 安産
という意味があるんだって!
面白いなぁ〜と思ったけど、なぜ柄杓なのか・・・謎です。
その他、境内には光明殿と石鎚神社(祠)と四国八十八ヶ所のミニ霊場とたくさんの石仏さんがおられました。
●奥の院
あと、種間寺から約4km。
車で10分くらいのところに奥の院があります。
ということで、この地から種間寺の歴史がスタートしたということなんですね!
そんなこんなで、参拝終了。
第35番札所・清瀧寺へ続く。
そんなこんなで、境内を散策。
・・・再び、鐘楼???
と思ったら、お堂の中には銅製の観音さんがおられました。
どうやら、こちらは子育観音さんのようです。
この種間寺は安産祈願で知られるお寺さんなんだって。
それはそうと、子育観音さんの周りには、たくさんの柄杓が奉納されていました。
よく見ると、柄杓には底がない!
これは、どういうことだぃ???
どうやら、この柄杓には
底がない柄杓 → 通りがよい → 安産
という意味があるんだって!
面白いなぁ〜と思ったけど、なぜ柄杓なのか・・・謎です。
その他、境内には光明殿と石鎚神社(祠)と四国八十八ヶ所のミニ霊場とたくさんの石仏さんがおられました。
●奥の院
あと、種間寺から約4km。
車で10分くらいのところに奥の院があります。
●種間寺の起源
577年、大阪・四天王寺を建立するため百済から来日した仏師達が、帰国の途中に暴風雨に遭ったという。
その際、航海の安全を祈って薬師如来を刻み、本尾山の山頂に安置したのが種間寺の始まり。
577年、大阪・四天王寺を建立するため百済から来日した仏師達が、帰国の途中に暴風雨に遭ったという。
その際、航海の安全を祈って薬師如来を刻み、本尾山の山頂に安置したのが種間寺の始まり。
ということで、この地から種間寺の歴史がスタートしたということなんですね!
そんなこんなで、参拝終了。
第35番札所・清瀧寺へ続く。
御朱印情報
●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・奥の院 瑠璃光仏の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・奥の院 瑠璃光仏 300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2010年4月10日 参拝
・2024年3月 最終更新
・四国八十八ヶ所の御朱印
・奥の院 瑠璃光仏の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・奥の院 瑠璃光仏 300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2010年4月10日 参拝
・2024年3月 最終更新
清瀧寺の御朱印|四国霊場 第35番|極細の車遍路ころがし!戒壇巡りも細かった|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(高知県土佐市)
所在地高知県土佐市高岡町丁568−1宗 派真言宗豊山派札 所四国八十八ヶ所 第35番前後札所・前 → 第34番札所・種間寺・後 → 第36番札所・青龍寺本 尊薬師如来真 言お...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・7:00~17:00
●拝観料
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第33番札所・雪蹊寺へ7km
徒歩1時間30分
車で15分
・第35番札所・清瀧寺へ12km
徒歩2時間
車で25分
●最寄りの駅
・JR朝倉駅から徒歩1時間40分
・JR朝倉駅から車で20分
●最寄りのバス停
・とさでん交通
春野庁舎前 バス停から徒歩15分
●最寄りのIC
・高知自動車道
土佐ICから車で20分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(70台)
駐車場にはトイレがあります。
・7:00~17:00
●拝観料
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第33番札所・雪蹊寺へ7km
徒歩1時間30分
車で15分
・第35番札所・清瀧寺へ12km
徒歩2時間
車で25分
●最寄りの駅
・JR朝倉駅から徒歩1時間40分
・JR朝倉駅から車で20分
●最寄りのバス停
・とさでん交通
春野庁舎前 バス停から徒歩15分
●最寄りのIC
・高知自動車道
土佐ICから車で20分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(70台)
駐車場にはトイレがあります。