太山寺の御朱印|四国霊場 第52番|国宝!真言密教最大級の本堂。真野長者伝説とひきさき地蔵伝説|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(愛媛県松山市)

所在地愛媛県松山市太山寺町1730
宗 派真言宗智山派
札 所 ・四国八十八ヶ所 第52番
・伊予十三仏霊場 第3番
前後札所 ・前 → 第51番札所・石手寺
・後 → 第53番札所・圓明寺
本 尊十一面観世音菩薩
真 言おん まか きゃろにきゃ そわか
由 緒587年、豊後国・臼杵の真野長者が航海中に高浜の沖で嵐に遭遇。そこで真野長者は日頃から信仰している観音菩薩に祈願したところ、山頂から光が差して嵐が止んだという。その後、光の差した場所に行ってみると十一面観音を祀ったお堂があったという。このことに真野長者は感謝し、そこに寺院を建立するため、豊後国で木組を整え、1夜で寺院を建立。それがこのお寺の始まりという。739年、聖武天皇の勅願で行基が十一面観音像を彫刻。その後、749~758年には66坊が建ち並び、七堂伽藍が整備され隆盛を極めたそうです。 824~834年、空海(弘法大師)が護摩供養を修し法相宗から真言宗に改宗。その後、一時荒廃しますが、1305年、伊予国守護・河野氏が本堂を再建。さらに江戸時代には松山城主・加藤氏の庇護を受けて繁栄したそうです。
HP瀧雲山 護持院 太山寺 – 四国八十八ヶ所霊場会

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太山寺とは?


四国八十八ヶ所の第52番札所であります太山寺に到着。

第51番札所・石手寺から11km。
徒歩2時間10分。
車で20分のところに位置しています。

太山寺と書いてたいさんじと読みます。

●太山寺とは?

587年、豊後国・臼杵の真野長者が商いのために船で大阪に向かっている際、松山市高浜あたりの沖で大暴風雨に遭遇してしまったという。

そこで真野長者は日頃から信仰している観音菩薩に航海の無事を祈願。

すると、山頂から一筋のが差し込み、海を照らしたという!
そして嵐が止み、無事に着岸できたそうです。

その後、真野長者は光が差した場所に行ってみることに。

すると、そこには約5.5cmの十一面観音を祀る小さなお堂があったという。(現・奥の院)

このことに感謝した真野長者は、報恩のために臼杵に戻り、多くの工匠を集めて本堂を建てるための材料づくりにとりかかったそうです。

そして完成した木組みを船に乗せ、再び伊予国の高浜へ。

高浜の港に着いた真野長者は、夜を徹して材料を組み上げ、1夜にして本堂を建立したという!

このことから、一夜建立の御堂と呼ばれるようになったそうです。

これがこのお寺の始まりといいます。


その後、739年に聖武天皇の勅願を受けた行基が十一面観音像を刻み、胎内に真野長者が発見した小さな観音像を納めて本尊にしたという。

749年には、聖武天皇の娘・孝謙天皇が十一面観音像を奉納。
そして七堂伽藍を整えたそうです。

当時は、現在地より少し離れた寺谷という地に本堂があり、749~758年には広大な寺域に七堂伽藍と66坊を有する大寺院に発展して隆盛を極めたそうです。


824~834年に弘法大師が訪れ、護摩供養を修し法相宗から真言宗に改宗。

そして、四国八十八ヶ所の第52番札所に定めたそうです。


その後、後冷泉天皇をはじめ、後三条天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇が十一面観音像を奉納。

しかし、一時荒廃してしまうことに。。

そんなこんなで、1305年に伊予国守護・河野氏が本堂を再建。

さらに江戸時代には松山城主・加藤氏の庇護を受けて繁栄し、現在に至るそうです。
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一の門と参道

なにぶん飽き性なもんで・・・。

車遍路に飽きた私はレンタサイクル遍路に変身。

本日は、さらなる刺激を求めて歩き遍路電車遍路をすることにしました。

思えば、菅笠から始まった遍路も気が付けば般若心経ハットになり、今日は般若心経バンダナ。

飽き性の私は刺激を与え続けないとモチベーションを維持できない(笑)

それだけ88という数は長くて遠い道のりということだね。


そんなこんなで、ザックリとこんな感じの予定を立ててみました。

●本日の予定
松山観光港
↓(徒歩 4.5km)
太山寺
↓(徒歩 2.6km)
圓明寺
↓(徒歩 250m)
伊予和気駅
↓(電車 40km)
今治駅
↓(徒歩 3.5km)
延命寺
↓(徒歩 3.7km)
南光坊
↓(徒歩 700m)
今治駅

徒歩 15.3km
電車 40km

完璧っ!

よっしゃ、今日も張り切って行きましょう!


●一の門

●一の門
・1955年建立
・瓦葺 屋根付き冠木門

そんなこんなで、松山観光港から約4.5km、一の門に到着。

もうすでに足ダル〜ぅ(笑)

そんなことより、このお寺には3つの門があるらしく、それぞれ一の門・二の門・三の門と名付けられてるみたいです。

一の門は総門的な役割でしょうか。
冠木門に切妻屋根を付けた簡素な門でした。


●参道

そんなこんなで一の門をくぐると、民家が立ち並ぶ生活道路を兼ねた参道に突入。

ちなみに、一の門から本堂までは800mもあるという!

最盛期は、広大な寺域に七堂伽藍と66坊を有する大寺院だったということもあり境内はとっても広いです。
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二の門

●二の門(仁王門)

●二の門(仁王門)
・1305年再建
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門
・国指定重要文化財

そんなこんなで、二の門に到着。

こちらの門は両サイドに仁王さんが安置されてますので仁王門となります。


それにしても素敵な門です。

それもそのはず、この門は鎌倉時代後期建立の国重文!

古建築フェチにはたまんない一品だね!
ダル〜い足どりが一瞬で軽やかになりました。


ちなみにこの門は、私がいつも持ち歩いているガイドブックの表紙になっている門です。

やっとここまで来れたか〜

と、小さな喜びに包まれていたひと時でした。


扁額には太山寺・・・じゃなく山寺!

はて・・・(-“-;) ??

ちなみに、このお寺の正式名称は龍雲山 護持院 太山寺といいます。


木鼻は禅宗様。

丸柱と礎石の間には礎盤が置かれていました。
これは禅宗様の特徴です。

組物は疎組にした二手先。
こちらは和様の特徴となっております。

ということで、この門は禅宗様と和様の折衷様建築となっておりました。


というか、もともとこの門は楼門だったそうですよ!

それを1485年の大修理で、単層に改築したんだって。

そのため、組物の先に楼門時代の腰組が残っているという!

これは面白いですねぇ。


そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。

仁王さんは力強さのないスマートなお姿でした。


金剛杵はダイヤモンドのように硬く、あらゆるものを打ち砕くといわれていますが、阿形さんの三鈷杵割れているというね!

ダメじゃんっ。
逆に打ち砕かれてるじゃん。

不良品じゃん(笑)


その他、門には慈眼視衆生・福聚海無量と書かれておりました。

これは観音経の最後の方に出てくる言葉で『観音さんはいつも優しく思いやりの眼をもって皆さんを見守ってますよ。だから観音さんの心をもって生きれば、海のごとく量り知れない福が集まるよ』という意味です。

というか
早よ門をくぐれぃ!(笑)

これは今日もクドいページになりそうだ・・・。
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ひきさき地蔵と手水舎

●参道


そんなこんなで、観音さんの心を胸に受けて二の門をくぐると、再び長い参道に突入。

本堂までまだまだです。


●ひきさき地蔵

参道途中には小さな地蔵堂がありました。

オン カカカ ビサンマエイ ソワカ・・・

って、えっ!?



ルージュ!

どういうこと!?

何で口紅を塗っているのかはわかんないけど、このお地蔵さんには悲しい物語があるみたいです。

●ひきさき地蔵伝説

その昔、太山寺の茶屋に美しい娘がいたそうな。

ある日、娘に恋した古三津の相撲取りと和気浜の力自慢の2人が娘を取り合うことになったという。

そして、2人が娘の両腕を引っ張り合った結果、娘は引き裂かれて死んでしまったという!

そんなこんなで、娘の魂を鎮めるために、村人が地蔵をつくって祀ったそうです。

それがこのお地蔵さんなんだって。

完。

なんとムゴたらしい・・・((((;゚Д゚))))

ちなみにこのお地蔵さんは、もともとは古三津和気浜が望めるにおられたそうですよ。

それを後の時代に現在地へ移したんだって。

ルージュについては謎ですが、もしかしたら娘さんに対しての供養なのかも知れませんね!

ネットの情報によると、誰かがイタズラに塗ったのが始まりという説もあります。


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

そんなこんなで、手水舎でお清め。
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三の門

●三の門(四天門)

●三の門(四天門)
・1683年再建
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 楼門造

そして、三の門に到着。

この門には四天王さんが安置されてますので四天門となります。

二天門はよく出会いますが、四天門とは珍しいですね。

もちろん四天門は四国霊場で初登場となります!


二の門に続き、三の門も禅宗様と和様の折衷様建築

落ちついた印象を受ける二の門に対し、三の門は三手先の組物が躍動していて男らしさを感じる門となっておりました。

ちなみに江戸時代中期に建立された門ですが、文化財の指定は受けてないみたいです。



扁額には山号の龍雲山

蟇股も素敵でした。

あと、何故か草鞋が挟まっていました。



そんなこんなで、四天王さんにご挨拶。

四天王さんは損傷が激しく、とても痛々しい姿となっておりました。

持物も欠損しているため、見た目でそれぞれの名前を判断することはできませんでした!

ということで、四天王さんが安置されている方位で名前を推定してみました。



●持国天像(写真左上)
東方の守護神です。

●増長天像(写真右上)
南方の守護神です。

●多門天像(写真左下)
北方の守護神です。

●広目天像(写真右下)
西方の守護神です。

鐘楼

●鐘楼

●鐘楼
・1655年再建
・瓦葺 入母屋造 袴腰

続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。

鐘楼は江戸時代前期に建立されたものでした。

三の門同様、こちらも文化財の指定は受けてないみたいです。


●梵鐘
・1383年鋳造
・高さ 116cm
・直径 61cm
・愛媛県指定文化財

鐘楼には室町時代に鋳造された梵鐘が吊るされていました。


もともとこの鐘は松山市の伊台にある西法寺にあったものなんだって。
それがいつの時代からか太山寺に移されたみたいですよ。


そんなことより、鐘楼内の壁には地獄絵図が描かれているという!

鐘楼に地獄絵図とは珍しいですねぇ。


しかし何だろう・・・やましい心があるからか、閻魔さまに怒られている気分になりましたよ!

いきなり鐘が落ちてきたりしないよね?

落ちてきた鐘の中に閉じ込められて・・・


ごめんなさい いえるかな?のCMみたいになっちゃうんじゃないかと・・・そんなことを想像したら怖くなっちゃったので足早に鐘楼を出ました。

そんなことより、第48番・西林寺から急に地獄絵図に出会う頻度が高くなってきました。

愛媛は地獄信仰が盛んな地なのでしょうか?

本堂と大師堂

●本堂

●本堂
・1305年再建
・瓦葺 入母屋造
・国宝

●本尊
・十一面観世音菩薩

●真言
・おん まか きゃろにきゃ そわか

続いて、国宝本堂を参拝!

第51番札所・石手寺に続いて国宝2連発です!

国宝好きの私にとって石手寺からの太山寺は、ある種、四国霊場のピークなのかも知れません!

どうにもこうにも、心のダンスが止まりません!


現在の本堂は真野長者が建立したお堂から数えて3代目

1305年に伊予国守護・河野氏が再建したお堂といわれています。

桁行は7間(16.38m)
梁間は9間(20.91m)

なんとこちら、真言密教の本堂では最大規模のお堂なんだって。



柱は全て円柱。
正面は全て蔀戸。

出組は一手先で和様
虹梁の形状など、細部に大仏様(天竺様)の手法が取り入れられていました。

そんなこんなで、和様を基本としつつ唐様と大仏様(天竺様)を取り入れた表現力の高い折衷様建築となっておりました。


それにしても、蟇股と小壁の組み合わせが美しかったです。

これぞ鎌倉美!

ってな感じのお堂でした。


残念ながら堂内に入ることはできませんでしたが、ネットの情報によると堂内は外陣と内陣に分かれているみたいです。

堂内手前の参詣者が立ち入る部分は板敷き

外陣は畳敷きで、内陣はなんと土間になってるんだって!

土間の内陣は比叡山延暦寺の根本中堂で拝見したことがありますが、真言密教のお堂ではお初です!

一体全体、堂内はどうなってるのだろう。
入ってみたい・・・。


御本尊は十一面観音さん。

このお寺は歴代天皇からの信仰が厚く、後冷泉天皇をはじめ、後三条天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇・近衛天皇という6代の天皇が十一面観音像を奉納したんだって!

ということで、堂内には本尊を含む7体の十一面観音さんが安置されているという!

しかし!

6代の天皇が奉納したといわれていますが、6体とも作風が同じということで、実際は各像の制作年はほぼ同時期の作といわれています・・・むむむ(-“-;) ??

そんなこんなで、その7体は全て平安時代後期作。
像高は150cm前後。
7体すべて国重文に指定されています。

しかし、残念ながら秘仏のため拝顔することはできませんでした。


●本尊 十一面観音立像
・平安時代後期作
・像高 155.4cm
・国指定重要文化財

本堂宮殿の中央に安置。

寺伝では聖武天皇が奉納したとされていますが、実際は平安時代後期作とのことです。


●十一面観音立像 6体
・平安時代後期作
・一木造
・像高 ①147.3cm
    ②152.4cm
    ③144.5cm
    ④143.8cm
    ⑤156.3cm
    ⑥150.7cm
・材質 2体はヒノキ材
    4体はカツラ材
・国指定重要文化財

この6体は本堂宮殿の左右に3体ずつ安置されているそうです。

ちなみに、堂内には7体の観音さんの他に、二十八部衆像や阿弥陀如来像などたくさんの仏像さんが安置されているみたいです。


そんなこんなで、ネットの情報を頼りに堂内の様子を書いてみました。

最奥には真野長者像や行基像など、お寺の創建に関わった太山寺ファミリーもおられるという。

いやはや、想像するだけで心がブレイクダンスしちゃいます!

※二十八部衆の2体は失われたそうです。


●絹本著色弘法大師像(写真左)
・鎌倉時代中期以前作
・縦 113cm
・横 118cm
・愛媛県指定文化財

●木製納札 3点(写真右)
・室町時代作(1点)
・江戸時代作(2点)
・松山市指定有形民俗文化財

●算額
・1852年作
・松山市指定有形民俗文化財

その他、堂内には県重文の絹本著色弘法大師像や、市重文の木製納札や、山崎昌竜の門人・花山金次郎さんが奉納した算学もあるそうですよ。

これはもう、堂内は宝物館状態ですね! 想像するだけで心がダンス甲子園です。


●大師堂

●大師堂
・1884年再建
・拝所 瓦葺 妻入切妻造
・大師堂 瓦葺 入母屋造
・本尊 弘法大師

続いて、大師堂を参拝。


と思ったら、大師堂は工事中のためお大師さまは本堂に仮安置されてるのだとかっ!

ということで、再び本堂に戻ってお経を唱えてきました。

南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・

長者堂と聖徳太子堂

●長者堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造
・本尊 真野長者

見事に見逃して帰りましたが、本堂の左横に一夜建立の御堂(初代本堂)を建立した真野長者を祀る長者堂があるそうです。


どこかに偶然写ってないかな?

と思って探したら、ギリ写ってた!(笑)

これは嬉しい!

●真野長者とは?

飛鳥時代、豊後国臼杵炭焼き小五郎と呼ばれる若者がいたそうな。

そのころ都には顔全体に黒いアザがある玉津姫という姫がいたそうです。

玉津姫はアザのため結婚することができず、姫と家族は嘆いていました。

そんなある日、老翁から大和国の大神神社で祈ることを勧められたという。

そして、玉津姫は大神神社で祈り倒すことに。

するとある晩、枕元に三輪明神が現れ『あなたのとなる人は豊後国の炭焼き小五郎です』というお告げを受けたという。

そんなこんなで、玉津姫はお告げに従い旅に出ることにしました。

長い旅の途中、侍女達は病に倒れ、さらに人にさらわれ、ついに姫は1人きりになってしまいますが、命からがら崩れかかった藁葺小屋の前にたどり着いたそうです。

小屋には全身墨で汚れた男が住んでいました。
その男は小五郎でした。

そんなこんなで、玉津姫はここに来た事情を話し、小五郎と玉津姫は夫婦になりました。

疲れ切った玉津姫は空腹で今にも倒れそう・・・。

小五郎はそんな姫のために、姫から預かった砂金を片手に里へ下りていきました。

その途中、オシドリを発見!
小五郎はそのオシドリを晩御飯にしようと思い、砂金が入ったを投げつけました。

しかし袋は谷の底に落ちてしまったという。
さらにオシドリも逃してしまいました。

手ぶらで帰った小五郎を見て嘆く玉津姫・・・。

しかし、小五郎は『あの光る石なら谷にゴロゴロしている』といい、姫を連れて谷へ行きました。

小五郎の言う通り谷は砂金であふれかえっていました。

そしてその淵の水で手や足を洗うと、姫のアザは消え、小五郎も美男子に生まれ変わったという!

そして大金持ちになった小五郎は黄金など様々な貢物を天皇に献上し、やがて欽明天皇から長者の号を賜り、真野長者と呼ばれるようになりました。


その後、真野長者は太山寺(愛媛)や般若寺(山口)など多くの寺院を建立。

そして97歳でお亡くなりになりました。

ちなみに真野長者と玉津姫の子は、用明天皇の后になる予定だった般若姫です。


●聖徳太子堂

●聖徳太子堂
・1971年再建
・銅板葺 八角円堂
・本尊 聖徳太子

境内には聖徳太子堂もありました。

由緒によると、聖徳太子が伊予国に来た際、太山寺と縁を結んだといわれています。

そのことから、堂内には奈良・法隆寺の夢殿にある太子像と同じ像が安置されてるんだって!

お堂の形も奈良・法隆寺の夢殿と似てる!

というか、この地に聖徳太子が来たのかー!
何だかわかんないけどワクワクしちゃいますね。

ちなみに般若姫と結婚する予定だった用明天皇聖徳太子の父です。

真野長者 → 般若姫 → 用明天皇 → 聖徳太子
・・・繋がってますね!

これは偶然でしょうか?

はたまた真野長者ゆかりのお寺ということで、太山寺と縁を結んだのでしょうか?

何だか歴史浪漫があってワクワクしますね。


その他、境内には護摩堂・稲荷堂・厄除大師堂などがありました。


そんなこんなで、参拝終了。

第53番・圓明寺へ続く。

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御朱印情報

●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・奥の院 経ヶ森の御朱印

●御朱印の受付場所
・納経所

●御朱印の受付時間
・7:00~17:00

●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・奥の院 経ヶ森 300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2011年2月26日 参拝
・2024年3月 最終更新
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参拝情報とアクセス

●拝観料
・無料

●宿坊
・なし

●前後札所
・第51番札所・石手寺へ11km
 徒歩2時間10分
 車で20分

・第53番札所・圓明寺へ2.6km
 徒歩30分
 車で10分

●最寄りの駅
・JR伊予和気駅から徒歩35分

・JR伊予和気駅から車で10分

●最寄りのバス停
・伊予鉄バス
 太山寺 バス停で下車 徒歩すぐ

●最寄りのIC
・松山自動車道
 松山ICから車で45分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(50台)

太山寺の地図

 

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