金倉寺の御朱印|四国霊場 第76番|智証大師・訶梨帝母・乃木希典というトリプルメインのお寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県善通寺市)

所在地香川県善通寺市金蔵寺町1160
宗 派天台寺門宗
寺 格別格本山
札 所四国八十八ヶ所 第76番
前後札所 ・前 → 第75番札所・善通寺
・後 → 第77番札所・道隆寺
本 尊薬師如来
真 言おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
由 緒774年、円珍(智証大師)の祖父・和気道善が創建したのが始まり。創建当初は自在王堂という名でしたが、後に道善寺と改称。ちなみにこの地は弘法大師の甥・円珍(智証大師)の誕生地という。858年、唐から帰国した円珍が道善寺を訪れ、唐の青龍寺を模して伽藍を造営。そして、薬師如来像を刻んで本尊としたそうです。928年、醍醐天皇の勅命により金倉寺に改称。その後、隆盛を極めますが、1537年の兵火で焼失。江戸時代、高松藩初代藩主・松平頼重が伽藍を再興したそうです。1898年から3年間、乃木希典が客殿を仮住まいにしていたことで知られるお寺さんです。
HP天台寺門宗別格本山 鶏足山 金倉寺

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金倉寺とは?


四国八十八ヶ所の第76番札所であります金倉寺に到着。

第75番札所・善通寺から3.5km。
徒歩45分。
車で6分のところに位置しています。

金倉寺と書いてこんぞうじと読みます。

●金倉寺とは?

774年、景行天皇の子孫・和気道善が等身の如意輪観音像を刻んで自在王堂というお堂を建立したのが始まりといいます。

その後、和気道善の子・宅成が自在王堂を官寺とし道善寺と改めたそうです。

ちなみに、和気宅成の子が円珍(智証大師)です。

円珍は弘法大師の甥でもあります。


858年、円珍が留学先の唐から帰国した後、故郷である道善寺を訪れ、唐の青龍寺を模して伽藍を造営。

そして、薬師如来像を刻んで本尊としたそうです。

その際、訶利帝母(鬼子母神)の神像を刻んで訶利帝堂も建立したそうです。

928年、醍醐天皇の勅命により、寺号を道善寺から金倉寺へ改称。

その後、金倉寺は隆盛を極め、南北約8km、東西約1kmの境内地に132の僧院を有する大寺院に発展したそうです。


しかし、1537年に兵火により焼失。

そして約100年もの間、僧が1人もいない無住のお寺になってしまったという。

その後、高松藩初代藩主・松平頼重が伽藍を再興し、現在に至るそうです。




圧倒的に真言宗のお寺が多い四国霊場ですが、この金倉寺の宗派は天台宗!

四国霊場を順打ちすると、2番目に登場する天台宗寺院です。

ちなみに四国霊場の天台宗寺院は4ヶ寺

●四国霊場の天台宗寺院
①第43番 明石寺(愛媛県)
第76番 金倉寺(香川県)
③第82番 根香寺(香川県)
④第87番 長尾寺(香川県)


なんと、このお寺は天台寺門派の宗祖円珍(智証大師)の生誕地だという!

円珍は入唐八家ならびに讃岐五大師の1人で、延暦寺第5代座主を24年間務めたお方です。


そんなこんなで、この金倉寺は天台宗寺門派・園城寺の末寺となっております。

●入唐八家とは?

入唐八家とは、日本からに渡り、日本に密教を持ち帰って布教した8人のことです。

●入唐八家
①最澄(804年入唐 805年帰国)
②空海(804年入唐 806年帰国)
③常暁(838年入唐 839年帰国)
④円行(838年入唐 839年帰国)
⑤円仁(838年入唐 847年帰国)
⑥恵運(842年入唐 847年帰国)
円珍(853年入唐 858年帰国)
⑧宗叡(862年入唐 865年帰国)


●讃岐五大師とは?

●讃岐五大師
①空海(弘法大師)
②実恵(道興大師)
③真雅(法光大師)
円珍(智証大師)
⑤聖宝(理源大師)

日本に大師号を与えられた高僧は25人おられますが、そのうち5人讃岐国(香川県)出身だという!

さらに5人のうち、空海・実恵・真雅・円珍の4人善通寺市出身という!

ちなみに、この4人は空海と同じ佐伯氏の一族です。

●善通寺市出身の大師
・空海 → 佐伯善通の子
・実恵 → 空海の1番弟子
・真雅 → 空海の実弟
円珍 → 空海の甥

讃岐五大師のうち聖宝だけは佐伯一族でなく塩飽出身です。

いやはや、25大師中4大師が善通寺市出身とは驚きです!

このように讃岐から多くの高僧が輩出した背景には、瀬戸内海に面した讃岐が都文化や大陸文化などの先進文化を古くから受け入れていたからといわれています。

善通寺市が日本仏教に与えた影響は計り知れませんね!

そんなこんなで、参拝開始。
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仁王門と手水舎と鐘楼

●山門(仁王門)

●山門(仁王門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門

まず最初に登場するのは仁王門

仁王門の扁額には鶏足山と書かれておりました。

このお寺の正式名称は鶏足山 宝幢院 金倉寺
けいそくざん ほうどういん こんぞうじと読みます。

●山号 鶏足山
鶏足山という山号は、釈迦十大弟子の1人・迦葉尊者が入定した山の名前が由来です。

●寺号 金倉寺
金倉寺という寺号は、円珍(智証大師)の故郷・金倉郷が由来です。

なお、院号・宝幢院の由来は不明です。

ちなみに、金倉寺が創建されたのは善通寺の創建よりも約40年古い774年

774年は弘法大師が誕生した年です。


そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。

下半身の力強さに圧倒されたひと時でした。

特に片足を浮かせた吽形さんのポージングが印象的で、なんと言うか、めっちゃ体育会系なフォークダンス?

こんなオラついたフォークダンスは嫌だ(笑)


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

そんなこんなで、仁王門をくぐって手水舎でお清め。


●鐘楼

●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・十二脚吹き放し型

続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。

御本尊さまとお大師さまにご挨拶。

それにしても個性的な鐘楼でした。

なんと脚が12本もあるという!


しかも異常に脚が長い!

まるで昆虫のような鐘楼でしたよ。
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本堂

●本堂

●本堂
・1983年建立
・瓦葺 入母屋造

●本尊
・薬師如来

●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

続いて、本堂で参拝。

この本堂は湖東三山で知られる西明寺(滋賀)の本堂をヒントに建てられたものなんだって。

西明寺の本堂は国宝第一号の建造物として有名なお堂です。


ちなみに、こちらが西明寺の本堂です。

瓦葺と檜皮葺の違いはありますが、やや潰れたようなフォルムと屋根の広がりがな〜んとなく似ています。


堂内外陣には、小さな仏さんがズラ~と並んでいました。


御本尊は智証大師作といわれる薬師如来さん。
脇侍として日光・月光菩薩さんが安置されているそうです。

いわゆる薬師三尊像です。

残念ながら秘仏のため拝顔することはできませんでしたが、毎年正月三が日に御開帳されるそうですよ。

堂内には薬師三尊像の他に、不動明王像阿弥陀如来像も安置されているみたいです。

なんと、不動明王像も智証大師作といわれ、毎年1月1日・3日には不動明王を本尊として正月初護摩供が行われるんだって。

あと、阿弥陀如来像は慈覚大師作といわれています。
もともとは常行三昧の本尊だったそうですよ。
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祖師堂(大師堂)

●祖師堂(大師堂)

●祖師堂(大師堂)
・1651年建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 智証大師
    伝教大師
    天台大師
    弘法大師
    神変大菩薩

続いて、祖師堂(大師堂)を参拝。

もともとはこのお堂が金倉寺の本堂だったそうです。

1983年に現在の本堂が建立されたのを機にここに祖師堂として移築したんだって。


そんなことより、なんと堂内には5人の祖師像が安置されているという!

五祖師が祀られている大師堂は四国霊場唯一!

さらに、四国霊場の大師堂で、中央弘法大師祀られていない唯一のお寺さんなんだって!


●五祖師堂内
・中央 → 智証大師(天台寺門宗開祖)
・右 → 伝教大師(日本天台宗開祖)
・左 → 天台大師(天台宗開祖)
・右奥 → 弘法大師(真言宗開祖)
・左奥 → 神変大菩薩(修験道の開祖)

そうそうたる顔ぶれです!

センターは金倉寺で生まれた智証大師
智証大師の両脇には伝教大師天台大師

そして、四国霊場のメインである弘法大師1番端に座っておられるという!

天台宗のお寺さんなので当然ですが、四国霊場的視点でみると違和感ありありです。


ちなみに、弘法大師が金倉寺を訪れた際、3歳の智証大師を見て『文殊菩薩の応化なり』と驚き、智慧童児と名づけたといわれています。

そんなこんなで、智証大師は天才が認めた天才なのですね。

※応化とは?
仏や菩薩 が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。


●入山大師像(智証大師尊像)

ちなみに、境内には智証大師像がありました。

山伏の格好をした大師像は初めて拝見しましたよ!

どうやら智証大師は役小角をリスペクトしていたらしく、845年に役小角が登った大峯山葛城山熊野三山を巡礼し、修験道の発展に貢献したみたいです。

もしかしたら、この像はその時の姿を表現したものなのかな?

ちなみに、祖師堂内に神変大菩薩(役小角)が祀られています。
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訶梨帝堂と観音堂と三重塔跡

●訶梨帝堂

●訶梨帝堂
・拝殿 1881年建立
・奥殿 1716年建立
・瓦葺 軒唐破風付き入母屋造
・本尊 訶梨帝母尊(鬼子母神)

続いて、訶梨帝堂を参拝。
訶梨帝堂と書いてかりていどうと読みます。

御本尊は訶梨帝母さま。
訶梨帝母とは鬼子母神のことです。

訶梨帝母と書いてかりていも、鬼子母神と書いてきしもじんと読みます。


なんと、このお寺は日本で初めて訶梨帝母が出現した地なんだって!

智証大師の生誕地しかり、日本最初の訶梨帝母の出現地しかり、何気にとんでもないお寺さんです!

●智証大師と訶梨帝母
818年、智証大師が5歳のときのお話。

智証大師が境内で遊んでいると、突然目の前に訶利帝母さまが現れたという!

そして『あなたが将来仏道に入るなら、私はあなたを守護しましょう』と告げたそうです。

そんなこんなで、出現した訶利帝母さまのお姿を刻んで安置したのが訶利帝堂の始まりといわれています。

ちなみに訶利帝母の出現については、この話が日本最古の記録であるため、金倉寺は日本最初出現訶利帝母と呼ばれ、子供と母親の守り神として信仰を集めています。


●訶梨帝母(鬼子母神)とは?

訶梨帝母には500人子供がいました。

訶梨帝母は500人の子を育てるだけの栄養をつけるため、毎日人間の子供食べていたそうです。

そのため人間から恐れられていました。

ある日、その噂を聞いたお釈迦さまは、訶梨帝母をこらしめるために彼女が最も愛していた末子を隠しました。

末子が行方不明になったことを知った訶梨帝母は半狂乱となって世界中を7日間探し回りました。

しかし発見するには至らず・・・。

そんなこんなで、助けを求めてお釈迦さまにすがることにしました。

そこでお釈迦さまは『あなたは500人の子を持ちながら1人の子を失っただけで狂ったように悲しんでいる。あなたに子を喰われた親の苦しみを考えたことはあるのか?』と、子を失った母親の辛さを教えました。

そんなこんなで、改心した訶梨帝母は三宝に帰依することにしました。

すると、お釈迦さまは隠していた未子を訶梨帝母に戻しました。

その際、『子供を望む人には授け、苦しんでいる人々を救う』という約束を交わしました。

そのため訶梨帝母(鬼子母神)には、子授け・安産の御利益があるといわれ、子供・母親の守り神として信仰を集めています。

ちなみに、地元ではおかるてんさんと呼ばれ親しまれているそうですよ。

残念ながら、本尊の訶利帝母像は秘仏のため拝顔できませんでしたが、毎年5月第2土曜・日曜に御開帳されるそうです。


●観音堂

●観音堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・本尊 十一面観音菩薩

続いて、観音堂を参拝。

本尊は智証大師作の十一面観音さん。

こちらも秘仏のため拝顔することができませんでした。


●三重塔跡

境内には三重塔真柱礎址がありました。

どうやら、かつて金倉寺には三重塔が存在していたみたいですね。

説明板がなかったので詳しいことはわかりませんが、江戸時代に記された寂本四国遍礼記讃岐国名勝図会に三重塔が描かれてないので、もしかしたら1537年の兵火で焼失してしまったのかも?(推測)

その他、境内には大聖歓喜天堂・弁財天・天満宮・忠魂社がありました。

乃木希典像と乃木将軍妻返し松

●護国院殿像(乃木希典像)

そんなこんなで参拝後、境内をプラプラと散策していたら護国院殿像という銅像に遭遇しました。

護国院殿・・・知らないなぁ。。

と思い素通り・・・。

帰宅後に調べてみたら、なんと!

護国院殿とは乃木希典さんのことでした!

このお寺が乃木将軍ゆかりの地というのは事前に知ってましたが、まさかね・・・


せめて顔が似ていれば立ち止まっていたかも知れない。

でもこの顔じゃ乃木さんとは思わない!(笑)

和服なんか着られた日にゃもうお手上げです!

ということで、銅像の写真はWikipediaから頂いたものです。


●なぜ乃木将軍が!?
1898年、善通寺市に新しくできた第11師団初代師団長が乃木将軍です。

乃木将軍は、このお寺の客殿を宿舎として約3年間滞在していたといわれています。

そのため、客殿には乃木希典愛用の軍帽・碁盤・ランプ・グラスなどの遺品が保管されているんだって。

ちなみに乃木将軍の遺品は円珍・乃木まつりのときに公開されるそうです。

●乃木将軍の部屋・遺品公開
・日時 9月第1土曜日
・時間 13:00〜16:00
・料金 200円

●乃木将軍と金倉寺

1898年、乃木将軍は善通寺第11師団長に就任しました。

乃木将軍の宿舎は、金倉寺を含め3ヶ所の候補があったそうです。

残り2つの候補がどこなのかはわかりませんが、乃木将軍は善通寺第11師団丸亀歩兵第12連隊の両方を任されていたため、善通寺市と丸亀市の中間あたりにある金倉寺を宿舎にしたのではないのか・・・と(想像)

お寺の言い伝えでは、乃木将軍は朝日を拝みながら出勤し、夕日を背にして金倉寺に帰ってきたといわれています。

朝日(東) → 丸亀歩兵第12連隊
夕日(西) → 善通寺第11師団

つまり、朝は丸亀の12連隊へ出勤。
その後、善通寺の第11師団へ出勤。
そして、金倉寺に帰ってきたということのようです。

乃木将軍は金倉寺に帰ってきても、常に軍服で過ごし、来客にも軍服で応じていたそうです。

また、お遍路さんの対応もしていたらしく、乃木将軍自ら納経に応じることもあったんだって!(羨ましいっ)

当時、金倉寺の食事は精進料理でした。
そんなこんなで、お寺の方が別で用意した料理をお出ししようと申し出ますが、乃木将軍は自ら望んでお寺の僧と同じ食事をされたそうです。


●乃木将軍妻返し松

その他、境内には乃木将軍妻返し松がありました。

これは乃木将軍と妻・静子夫人の物語を現代に伝える松といわれています。

●乃木将軍妻返し松とは?

1898年の大晦日。

突然、静子夫人が金倉寺を訪ねてきたという。

小僧『奥様が東京からお見えになりました』

乃木『・・・』

小僧『奥様が東京からお見えになりましたっ!!!!!(大声)』

乃木『別に会う必要はないでしょう』

乃木将軍は静子夫人に会おうとしませんでした。

困った小僧は住職に相談することに。
そして、住職は静子夫人と面会しました。

住職『私が将軍を説得いたしますので、本日の所はお引きとり願えるでしょうか』

そんなこんなで、静子夫人は旅館に戻ることにしました。

そしてお寺を後にする際、本堂脇にある松の下で、もの思いにふけて佇んでいたそうです。

そして、夫の意をくんで帰っていきました。

これが乃木将軍妻返しの松の由来です。

静子夫人が訪ねてきた理由は・・・

乃木将軍が会わなかった理由は・・・

・・・残念ながら謎です。

もしかしたら、部下たちは妻に会えずに頑張っているのに、自分だけ妻に会うことはできない・・・的なことなのかな。

ザ・軍人だね!

●乃木希典(のぎ まれすけ)とは?

ザックリと簡単に乃木希典とは幕末から明治時代に活躍した軍人です。

長州藩出身の武士で、第二次長州征伐・西南戦争・日清戦争・日露戦争で活躍しました。

日露戦争後は、遺族たちや生き残った兵士たちの支援を続けます。

その後、学習院の院長として昭和天皇の教育係を任されました。

しかし明治天皇崩御した際に殉死したという。


乃木さんが殉死した理由には諸説あるそうです。

●説①
西南戦争の際、乃木さんは政府軍として第14連隊を率いていました。

薩摩軍との戦いの際、連隊旗を持っていた河原林少尉が討たれ、薩摩軍に連隊旗を奪われるという前代未聞の事件を起こしてしまったという。

ちなみにこの連隊旗は明治天皇から授かったもので、官軍であることを示すもの。
つまり政府軍にとって非常に重要なものでした。

特に明治天皇を崇拝していた乃木さんにとっては明治天皇の分身といってもいいものでした。

そんな大失態を起こした乃木さんは、総指揮官の山県有朋さんに自らの処分を求めました。

しかし山県さんは連隊旗を奪われたのは乃木さんの責任ではないとして処分しませんでした。

この対応に納得がいかなかったのか、乃木さんはその後何度か自殺を図ります。

もしかしたら乃木さんの殉死は、この事件の責任を果たしたかったのかも?


●説②
日露戦争の際、ロシア軍がたてこもる難攻不落の旅順要塞を攻撃します。

旅順要塞はどんな強敵でも3年は陥落しないといわれたロシアが誇る防衛基地。

しかし乃木さん率いる日本軍はわずか半年で旅順要塞を陥落させました。

しかしその代償は大きく、日本軍は5万人もの戦死者を出してしまったという。
戦死者の中には乃木さんの息子もいました。

乃木さんは多くの若者の命を犠牲にしてしまったことにより、自責の念にかられてしまいます。

帰国後、乃木さんは明治天皇に多大な犠牲者を出してしまった罪を償いたいと伝え、自決を求めました。

しかし明治天皇はその申し出を了承しませんでした。

そして明治天皇は『どうしても死にたいのなら私が世を去ってからにしなさい』と告げました。

もしかしたら乃木さんの殉死は、この明治天皇の言葉に従ったものかも?


1912年、明治天皇が崩御。

明治天皇の大喪の礼(葬儀)が行われた夜、乃木さんは妻・静子さんとともに自刃しました。

享年62歳。


ちなみにこの写真は大喪の礼当日の写真です。
この日の午後、乃木さん夫婦は自刃しました。

乃木さんの死に日本中が悲しみ、葬儀には10万人以上が参列。

世界中でその死が報じられ、世界葬という表現がされたほどでした。

その後、絶大な人気を誇った乃木さんは神格化され、軍神として乃木神社に祀られることになりました。

ちなみに、乃木坂という名は乃木さんの殉死を悼んで付けられた地域名です。


●乃木神社

金倉寺から約4.5km離れた地には陸上自衛隊第14旅団善通寺駐屯地があります。

現在、陸上自衛隊がある場所は、もともと乃木将軍が師団長を務めた陸軍第11師団が駐屯していた地です。

陸上自衛隊から徒歩5分のところには、乃木将軍夫妻を祀る乃木神社があります。

善通寺市といえば弘法大師!
というイメージがありますが、実は軍都の性格を持つ町だったりもするんですねぇ。
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金箔大黒天・七福神・ぐち聞きわらべ

●金箔大黒天

本堂前には黄金に輝く大黒天さんがおられました。

ゴールドの正体は、なんと金箔!


おみくじに金箔が付いていて、大黒天さんに金箔を貼って金運アップの御利益を祈願しちゃお〜的なもののようです。

という寺号にピッタリのアイデアですね!


ちなみに、ちゃんと説明書きを読んでからやらないと上手く貼ることができないかもです。


●七福神

妙にロックテイストなお遍路さんがいるなぁ〜と思ったら、こちらは毘沙門天さんでした。

このように、境内には七福神の石像が点在してますので、七福神探しをするのも楽しいかもです。


●ぐち聞きわらべ

あと、ぐち聞きわらべというお方もおられました。

その名の通り、愚痴を聞いてくれる童さんです。

そんなこんなで、ありったけの愚痴を発射してきました。

ある程度、長く生きてるとわかるんです。

多分この顔・・・

聞き流してるときの顔www


そんなこんなで、参拝終了。

第77番・道隆寺へ続く。

次の札所
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所在地香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3−30宗 派真言宗醍醐派寺 格大本山札 所四国八十八ヶ所 第77番前後札所・前 → 第76番札所・金倉寺・後 → 第78番札所・郷照寺本...

御朱印情報

●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・七ヶ所まいりの御朱印(弁財天)

●御朱印の受付場所
・納経所

●御朱印の受付時間
・7:00~17:00

●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・七ヶ所まいり(弁財天)300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2011年6月11日 参拝
・2024年3月 最終更新
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参拝情報とアクセス

●拝観料
・無料

●宿坊
・なし

●前後札所
・第75番札所・善通寺へ3.5km
 徒歩45分
 車で6分

・第77番札所・道隆寺へ4.5km
 徒歩50分
 車で10分

●最寄りの駅
・JR金蔵寺駅から徒歩7分

・JR金蔵寺駅から車で2分

●最寄りのバス停
・市民バス 空海号
 金倉寺前 バス停から徒歩6分

・琴参バス
 金蔵寺西口 バス停から徒歩10分

●最寄りのIC
・高松自動車道
 善通寺ICから車で3分

●駐車場
・有料の専用駐車場あり(50台)

●駐車料金
・普通車 200円

●駐車時間の閉門時間
・17:00

金倉寺の地図

 

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