所在地 | 香川県高松市屋島東町1808 |
---|---|
宗 派 | 真言宗御室派 |
札 所 | 四国八十八ヶ所 第84番 |
前後札所 | ・前 → 第83番札所・一宮寺 ・後 → 第84番札所・八栗寺 |
本 尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
真 言 | おん ばさら たらま きりく |
由 緒 | 754年、鑑真和上が朝廷からの要請を受けて奈良・東大寺へ向かっていた際、屋島沖で山頂から光が立ち上がるのを見たという。そこで、屋島北嶺に立ち寄り普賢堂を建立したのがこのお寺の始まりといいます。その後、鑑真の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立し、屋島寺と名付け初代住職となったそうです。815年、空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島を訪れ、北嶺の伽藍を現在地の南嶺に移し、 十一面千手観音像を刻み本尊として安置。その後、鎌倉時代以降に衰退してしまいますが、江戸時代に高松藩主の生駒家・松平家が再興し、現在に至るそうです。 |
HP | 南面山 千光院 屋島寺 – 四国八十八ヶ所霊場会 |
Contents
屋島寺とは?
四国八十八ヶ所の第84番札所であります屋島寺に到着。
第83番札所・一宮寺から17.5km。
徒歩3時間40分。
車で40分のところに位置しています。
屋島寺と書いてやしまじと読みます。
●屋島寺とは?
754年、律宗の開祖・鑑真和上が朝廷に招かれて奈良・東大寺へ向かう途中、屋島沖で山頂から立ちのぼる瑞光を見たという。
そんなこんなで、鑑真和上は屋島に登り、屋島北嶺にお堂を建立。
そして持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めたそうです。
それがこのお寺の始まりといいます。
その後、鑑真和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が屋島寺と称し初代住職になったそうです。
ちなみに、この地から約1km離れた地に屋島寺の前身といわれる千間堂遺跡があります。
815年、弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島を訪れたそうです。
そして北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置。
その後、山岳仏教の霊場として栄えたといいます。
947〜957年、明達律師がこの地を訪れた際、現在の本尊となる十一面千手観音坐像と四天王像を安置。
1601年、高松藩主・生駒一正が寺領25石を寄進するなど、江戸時代を通じて高松藩主から庇護され大いに繁栄したそうです。
754年、律宗の開祖・鑑真和上が朝廷に招かれて奈良・東大寺へ向かう途中、屋島沖で山頂から立ちのぼる瑞光を見たという。
そんなこんなで、鑑真和上は屋島に登り、屋島北嶺にお堂を建立。
そして持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めたそうです。
それがこのお寺の始まりといいます。
その後、鑑真和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が屋島寺と称し初代住職になったそうです。
ちなみに、この地から約1km離れた地に屋島寺の前身といわれる千間堂遺跡があります。
815年、弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島を訪れたそうです。
そして北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置。
その後、山岳仏教の霊場として栄えたといいます。
947〜957年、明達律師がこの地を訪れた際、現在の本尊となる十一面千手観音坐像と四天王像を安置。
1601年、高松藩主・生駒一正が寺領25石を寄進するなど、江戸時代を通じて高松藩主から庇護され大いに繁栄したそうです。
●屋島とは?
●屋島
・南嶺の標高 292m
・北嶺の標高 282m
・南北の幅 約5km
・東西の幅 約2km
標高292mの屋島はもともと瀬戸内海に浮かぶ島でしたが、江戸時代に埋め立てられ、現在は陸続きになっています。
平坦な頂上と絶壁がつくりだす台形の山で、屋根のような形をしていることから屋島と名付けられたんだって。
屋島には667年に築かれた古代山城の屋嶋城がありましたが廃城に。
その屋嶋城の跡地に創建されたのが屋島寺といわれています。
もともと屋島寺は、鑑真和上が北嶺に普賢堂を建立したのが始まり。
その後、弘法大師が北嶺の伽藍を現在地の南嶺に移し現在に至ります。
現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有となっています。
屋島は、古代から瀬戸内海の制海権を掌握する重要な場所だったため、平安時代末期には源平合戦の舞台にもなりました。
そんなこんなで、屋島寺や源平合戦など歴史的価値が高いことから、屋島は国の史跡および天然記念物に指定されています。
現在は屋島寺の他に、屋島神社・屋嶋城・四国村・高松平家物語歴史館・獅子の霊巌・新屋島水族館など見どころが多い人気観光スポットとなっております。
そんなこんなで、参拝開始。
東大門と仁王門
●東大門
●東大門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 八脚門
屋島寺の入口は2パターンあります。
・車遍路 → 東大門
・歩き遍路 → 仁王門
大きくて立派な門のため、この東大門が山門?と思ってしまいがちですが、こちらは読んで字のごとく東門です。
山門は別の場所にある仁王門となります。
車遍路の場合、山門である仁王門に行くには、東大門 → 境内 → 四天門 → 仁王門という正規ルートを逆走するかたちとなります。
正規の参拝順にこだわらない方は東大門から参拝を始めても構いませんが、私は参拝順にこだわるタイプなので東大門をくぐって仁王門へ。
●山門(仁王門)
●山門(仁王門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門
そんなこんなで、仁王門に到着。
東大門 → 境内 → 四天門 → 仁王門というルートで来たため、仁王門に到着するまでに境内のひと通りを目にしてしまったことがやるせないです!
そんなことより建立年は確認できませんでしたが、礎盤などに禅宗様のエッセンスがある堂々とした門でした。
獅子の蟇股も素敵でした。
そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。
仁王門同様、こちらも制作年を確認することができませんでしたが、ベテランオーラがビンビンに伝わる仁王さんでした。
肌年齢と作風からして江戸期の作品かな?
と勝手に思っています。
●参道
そんなこんなで、仁王門をくぐって再び境内へ。
午前7時前ということもあり参拝者はおらず、ピーンと張り詰めた空気が境内を支配していました。
極悪な天気のせいもあって、霧がかった景色が幻想的、いや不気味でした。
●東大門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
・三間一戸 八脚門
屋島寺の入口は2パターンあります。
・車遍路 → 東大門
・歩き遍路 → 仁王門
大きくて立派な門のため、この東大門が山門?と思ってしまいがちですが、こちらは読んで字のごとく東門です。
山門は別の場所にある仁王門となります。
車遍路の場合、山門である仁王門に行くには、東大門 → 境内 → 四天門 → 仁王門という正規ルートを逆走するかたちとなります。
正規の参拝順にこだわらない方は東大門から参拝を始めても構いませんが、私は参拝順にこだわるタイプなので東大門をくぐって仁王門へ。
●山門(仁王門)
●山門(仁王門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門
そんなこんなで、仁王門に到着。
東大門 → 境内 → 四天門 → 仁王門というルートで来たため、仁王門に到着するまでに境内のひと通りを目にしてしまったことがやるせないです!
そんなことより建立年は確認できませんでしたが、礎盤などに禅宗様のエッセンスがある堂々とした門でした。
獅子の蟇股も素敵でした。
そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。
仁王門同様、こちらも制作年を確認することができませんでしたが、ベテランオーラがビンビンに伝わる仁王さんでした。
肌年齢と作風からして江戸期の作品かな?
と勝手に思っています。
●参道
そんなこんなで、仁王門をくぐって再び境内へ。
午前7時前ということもあり参拝者はおらず、ピーンと張り詰めた空気が境内を支配していました。
極悪な天気のせいもあって、霧がかった景色が幻想的、いや不気味でした。
四天門と手水舎と鐘楼
●四天門
●四天門
・1685年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門
続いて、四天門が登場。
四国霊場で四天門に出会ったのは、第52番・太山寺、第55番・南光坊に続き3度目となります。
この門は江戸時代前期の建立。
一説によると阿波藩主・蜂須賀家が寄進したものといわれていますが、丸瓦に三つ葉葵の紋を確認することができましたので、多分、高松藩主・松平家が寄進したものだと思います。
ちなみに高松藩主・松平家は徳川御三家・水戸徳川家の分家です。
初代藩主・松平頼重さんは水戸光圀さんの兄。
第2代藩主・松平頼常さんは水戸光圀さんの子です。
この門は1685年の建立ということで、第2代藩主・松平頼常さんが寄進したものかな?
と勝手に思っています。
●四天王像
・持国天像(写真左上)
・増長天像(写真右上)
・広目天像(写真左下)
・多聞天像(写真右下)
そんなこんなで、四天王さんにご挨拶。
いつも四天王の判別に苦労する私ですが、こちらの四天王さんは持物がベタでしたのですぐ判別できました。
・持国天像 → 剣
・増長天像 → 戟
・広目天像 → 巻物
・多聞天像 → 宝塔
これは東大寺・戒壇院の四天王さんと全く同じ持物なので、1番ポピュラーな四天王像となります。
ちなみに、四天王像の持物には特に決まりがないので、戟を持ったお方が2つあったりするとお手上げです。
そのときは方角で推測するしかありません。
って、何だか試験勉強をしているみたいだ。
いや、麻雀がしたくなってきた。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
続いて、手水舎でお清め。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
●梵鐘
・1223年鋳造
・総高 102cm
・口径 64cm
・厚さ 6cm
・国指定重要文化財
続いて、鐘楼へ。
梵鐘は鎌倉時代に鋳造された国重文。
なんと、香川県で2番目に古い梵鐘なんだって。
ちなみに、香川県で1番古い梵鐘は讃岐国分寺。
讃岐国分寺の梵鐘は奈良時代鋳造で四国最古の梵鐘として知られています。
どうやらこの梵鐘は別名・平家供養の鐘と呼ばれているみたいです。
平家滅亡のきっかけとなった屋島の戦い。
その後、壇ノ浦の戦いで滅亡しちゃいました。
そんな平家に想いを馳せながら鐘をひと撞き・・・と言いたいところですが、鐘を撞くことはできませんでした。
●四天門
・1685年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間一戸 八脚門
続いて、四天門が登場。
四国霊場で四天門に出会ったのは、第52番・太山寺、第55番・南光坊に続き3度目となります。
この門は江戸時代前期の建立。
一説によると阿波藩主・蜂須賀家が寄進したものといわれていますが、丸瓦に三つ葉葵の紋を確認することができましたので、多分、高松藩主・松平家が寄進したものだと思います。
ちなみに高松藩主・松平家は徳川御三家・水戸徳川家の分家です。
初代藩主・松平頼重さんは水戸光圀さんの兄。
第2代藩主・松平頼常さんは水戸光圀さんの子です。
この門は1685年の建立ということで、第2代藩主・松平頼常さんが寄進したものかな?
と勝手に思っています。
●四天王像
・持国天像(写真左上)
・増長天像(写真右上)
・広目天像(写真左下)
・多聞天像(写真右下)
そんなこんなで、四天王さんにご挨拶。
いつも四天王の判別に苦労する私ですが、こちらの四天王さんは持物がベタでしたのですぐ判別できました。
・持国天像 → 剣
・増長天像 → 戟
・広目天像 → 巻物
・多聞天像 → 宝塔
これは東大寺・戒壇院の四天王さんと全く同じ持物なので、1番ポピュラーな四天王像となります。
ちなみに、四天王像の持物には特に決まりがないので、戟を持ったお方が2つあったりするとお手上げです。
そのときは方角で推測するしかありません。
覚え方は地蔵買うた(じぞうこうた)。
・じ → 持国天(東)
・ぞう → 増長天(南)
・こう → 広目天(西)
・た → 多聞天(北)
東西南北じゃないんか〜ぃとお思いでしょうが、仏教では中国由来の東南西北(トウナンシャーペイ)がポピュラーとなっております。
ということで、トウナンシャーペイ地蔵買うたで覚えると簡単です。
・じ → 持国天(東)
・ぞう → 増長天(南)
・こう → 広目天(西)
・た → 多聞天(北)
東西南北じゃないんか〜ぃとお思いでしょうが、仏教では中国由来の東南西北(トウナンシャーペイ)がポピュラーとなっております。
ということで、トウナンシャーペイ地蔵買うたで覚えると簡単です。
って、何だか試験勉強をしているみたいだ。
いや、麻雀がしたくなってきた。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造
続いて、手水舎でお清め。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
●梵鐘
・1223年鋳造
・総高 102cm
・口径 64cm
・厚さ 6cm
・国指定重要文化財
続いて、鐘楼へ。
梵鐘は鎌倉時代に鋳造された国重文。
なんと、香川県で2番目に古い梵鐘なんだって。
ちなみに、香川県で1番古い梵鐘は讃岐国分寺。
讃岐国分寺の梵鐘は奈良時代鋳造で四国最古の梵鐘として知られています。
どうやらこの梵鐘は別名・平家供養の鐘と呼ばれているみたいです。
平家滅亡のきっかけとなった屋島の戦い。
その後、壇ノ浦の戦いで滅亡しちゃいました。
そんな平家に想いを馳せながら鐘をひと撞き・・・と言いたいところですが、鐘を撞くことはできませんでした。
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本堂と本尊
●本堂
●本堂
・1618年再建
・1959年改修
・瓦葺 入母屋造
・国指定重要文化財
●本尊
・十一面千手観世音菩薩
●真言
・おん ばさら たらま きりく
続いて、本堂を参拝。
見るからに古そうなこのお堂は、鎌倉時代建立の前身堂の部材を用いて江戸時代前期に建立されたものだという。
もっと詳しく言うと、1618年に再建されたときは桃山様式のお堂だったそうです。
しかし1689年や1716年などに大規模な改修工事が行われたようで、そのときに江戸様式のお堂に改築されたんだって。
しかし1957年の解体修理の際、各所に鎌倉時代の特徴がある古材や手法が発見されたことにより、鎌倉様式のお堂として改築。
それが現在のお堂なんだって。
正面の中央3間は両折両開桟唐戸。
正面両端の1間は連子窓。
側面は両開桟唐戸と引違板戸と連子窓という多彩な技を披露。
軒廻りは二重繁垂木。
斗栱は和様出組三ッ斗。
中備には蓑束が立っていました。
江戸時代と昭和時代の改修でどっからどこまでが鎌倉時代の古材なのかがわかんなくなっていますが、派手な彫刻などに桃山の風を感じることができました。
ちなみにネットの情報によると、堂内は前2間が外陣で後3間が内陣。
内陣の両サイドには脇陣があるそうです。
内陣の中央には唐様の須弥壇があって、そこに唐様の厨子が安置されているそうです。
●本尊
●本尊 十一面千手観世音菩薩坐像
・平安時代中期作
・像高 94.3cm
・榧材 一木造
・国指定重要文化財
本尊は千手観音さん。
なんと、光背に弘法大師御作之本尊也 弘仁元年(810年)二月彼岸中日という墨書き銘があるという!
ということで弘法大師作!
と言いたいところですが、実際の制作年代は平安時代中期といわれています。
由緒にも、堂々と947〜957年に明達律師が安置したと書かれています。
ということで、お大師さまが生きた時代と合いませんが、そこはツッコまずに楽しみましょう。
そんなことより現在、御本尊さまは宝物館に安置されています。
それがこちら、はいドン!
宝物館では間近で御本尊さまを拝顔することができました!
頭と体の主要部分はカヤの一木造。
光背は二重円相光。
脇手は左右19本ずつ。
保存状態がよく、像の大部分が当初のものなんだって!
●本堂
・1618年再建
・1959年改修
・瓦葺 入母屋造
・国指定重要文化財
●本尊
・十一面千手観世音菩薩
●真言
・おん ばさら たらま きりく
続いて、本堂を参拝。
見るからに古そうなこのお堂は、鎌倉時代建立の前身堂の部材を用いて江戸時代前期に建立されたものだという。
もっと詳しく言うと、1618年に再建されたときは桃山様式のお堂だったそうです。
しかし1689年や1716年などに大規模な改修工事が行われたようで、そのときに江戸様式のお堂に改築されたんだって。
しかし1957年の解体修理の際、各所に鎌倉時代の特徴がある古材や手法が発見されたことにより、鎌倉様式のお堂として改築。
それが現在のお堂なんだって。
正面の中央3間は両折両開桟唐戸。
正面両端の1間は連子窓。
側面は両開桟唐戸と引違板戸と連子窓という多彩な技を披露。
軒廻りは二重繁垂木。
斗栱は和様出組三ッ斗。
中備には蓑束が立っていました。
江戸時代と昭和時代の改修でどっからどこまでが鎌倉時代の古材なのかがわかんなくなっていますが、派手な彫刻などに桃山の風を感じることができました。
ちなみにネットの情報によると、堂内は前2間が外陣で後3間が内陣。
内陣の両サイドには脇陣があるそうです。
内陣の中央には唐様の須弥壇があって、そこに唐様の厨子が安置されているそうです。
●本尊
●本尊 十一面千手観世音菩薩坐像
・平安時代中期作
・像高 94.3cm
・榧材 一木造
・国指定重要文化財
本尊は千手観音さん。
なんと、光背に弘法大師御作之本尊也 弘仁元年(810年)二月彼岸中日という墨書き銘があるという!
ということで弘法大師作!
と言いたいところですが、実際の制作年代は平安時代中期といわれています。
由緒にも、堂々と947〜957年に明達律師が安置したと書かれています。
ということで、お大師さまが生きた時代と合いませんが、そこはツッコまずに楽しみましょう。
そんなことより現在、御本尊さまは宝物館に安置されています。
それがこちら、はいドン!
宝物館では間近で御本尊さまを拝顔することができました!
頭と体の主要部分はカヤの一木造。
光背は二重円相光。
脇手は左右19本ずつ。
保存状態がよく、像の大部分が当初のものなんだって!
大師堂と三体堂と千体堂
●大師堂
●大師堂
・建立年不明
・銅板葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
御本尊はもちろんお大師さま。
このお寺にはいくつかの弘法大師伝説が残っています。
その内の1つが獅子の霊巌伝説。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
●三体堂
●三体堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・本尊 阿弥陀如来
釈迦如来
鑑真和上
続いて、三体堂を参拝。
このお寺は、754年に鑑真和上が普賢堂を建立したのが始まりといわれています。
そんなこんなで、堂内には屋島寺を開創した鑑真さんが祀られていました。
簡単にいえば、開山堂のようなお堂となります。
ちなみに四国霊場で鑑真さんが開基したお寺は、この屋島寺が唯一となります。
鑑真さんといえば、唐から日本に渡る際に、幾度となく暴風や難破に見舞われ、失明しつつも日本に辿り着いたお方として知られています。
そして、日本で律宗を開き、戒律制度の整備に大きく貢献した名僧です。
鑑真さんについてはこちらに書いていますので、興味がある方は是非。
●千体堂
●千体堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造
・本尊 千手観世音菩薩
続いて、千体堂を参拝。
読んで字のごとく、堂内にはおぞましい数の千体仏が安置されていました。
堂内に入ることはできませんでしたが、御本尊と千体仏はガラス戸越しから拝顔することができました。
●大師堂
・建立年不明
・銅板葺 宝形造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
御本尊はもちろんお大師さま。
このお寺にはいくつかの弘法大師伝説が残っています。
その内の1つが獅子の霊巌伝説。
●獅子の霊巌伝説
815年、弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島を訪れたという。
そして北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置したそうです。
さらに1日で伽藍を完成させようとしたそうですが、完成前に日が沈みかけてしまったという。
そこで弘法大師は岩に祈りを捧げ、沈みゆく夕日を手で振り仰いだところ、再び天高く日が昇ったんだって!
そんなこんなで、1日で伽藍を完成させることができたそうです。
ちなみに弘法大師が祈った岩は獅子が吠えている姿に見えることから獅子の霊巌と呼ばれ、現在は絶好のビュースポットになっています。
815年、弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島を訪れたという。
そして北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置したそうです。
さらに1日で伽藍を完成させようとしたそうですが、完成前に日が沈みかけてしまったという。
そこで弘法大師は岩に祈りを捧げ、沈みゆく夕日を手で振り仰いだところ、再び天高く日が昇ったんだって!
そんなこんなで、1日で伽藍を完成させることができたそうです。
ちなみに弘法大師が祈った岩は獅子が吠えている姿に見えることから獅子の霊巌と呼ばれ、現在は絶好のビュースポットになっています。
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
●三体堂
●三体堂
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・本尊 阿弥陀如来
釈迦如来
鑑真和上
続いて、三体堂を参拝。
このお寺は、754年に鑑真和上が普賢堂を建立したのが始まりといわれています。
そんなこんなで、堂内には屋島寺を開創した鑑真さんが祀られていました。
簡単にいえば、開山堂のようなお堂となります。
ちなみに四国霊場で鑑真さんが開基したお寺は、この屋島寺が唯一となります。
鑑真さんといえば、唐から日本に渡る際に、幾度となく暴風や難破に見舞われ、失明しつつも日本に辿り着いたお方として知られています。
そして、日本で律宗を開き、戒律制度の整備に大きく貢献した名僧です。
鑑真さんについてはこちらに書いていますので、興味がある方は是非。
●千体堂
●千体堂
・建立年不明
・瓦葺 宝形造
・本尊 千手観世音菩薩
続いて、千体堂を参拝。
読んで字のごとく、堂内にはおぞましい数の千体仏が安置されていました。
堂内に入ることはできませんでしたが、御本尊と千体仏はガラス戸越しから拝顔することができました。
蓑山大明神(屋島太三郎狸)
●蓑山大明神(屋島太三郎狸)
続いて、本堂横に鎮座する蓑山大明神を参拝。
鳥居前では巨大なタヌキ像がドドーンとお出迎えしてくれました!
結構なインパクトなので、ある意味、屋島寺のシンボル的な存在になっております。
この屋島太三郎狸は佐渡の団三郎狸と淡路の芝右衛門狸とともに日本三名狸と呼ばれてるんだって。
さらに四国狸の総大将なんだって。
四国にはたくさんの狸伝説がありますが、そのボスがこの太三郎狸さんなんですね!
ちなみに屋島太三郎狸は、ジブリ映画・平成狸合戦ぽんぽこの太三朗禿狸のモデルになった狸です。
この太三郎狸さんには様々な伝説が残っていてることで知られています。
ちなみに狸の習性は一夫一婦制ということで、祭神の蓑山大明神は夫婦円満・家庭円満・縁結びの神として信仰されているそうですよ。
続いて、本堂横に鎮座する蓑山大明神を参拝。
鳥居前では巨大なタヌキ像がドドーンとお出迎えしてくれました!
結構なインパクトなので、ある意味、屋島寺のシンボル的な存在になっております。
この屋島太三郎狸は佐渡の団三郎狸と淡路の芝右衛門狸とともに日本三名狸と呼ばれてるんだって。
さらに四国狸の総大将なんだって。
四国にはたくさんの狸伝説がありますが、そのボスがこの太三郎狸さんなんですね!
ちなみに屋島太三郎狸は、ジブリ映画・平成狸合戦ぽんぽこの太三朗禿狸のモデルになった狸です。
この太三郎狸さんには様々な伝説が残っていてることで知られています。
●屋島太三郎狸伝説
●伝説①
盲目の鑑真さんを道案内した。
●伝説②
霧深い山中で道に迷った弘法大師を老人に化けたタヌキが案内した。
●伝説③
その昔、あるタヌキが矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられたという。
その恩義から平家の守護を誓ったそうです。
そのタヌキの子孫が太三郎狸といわれています。
太三郎狸は平家が滅亡した後に屋島に住みつき、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺の住職に知らせたといわれています。
そうした経緯から太三郎狸は屋島寺の守護神になったそうです。
●伝説④
屋島寺の住職が代替わりする際、住職の夢枕で源義経の八艘飛びや弓流しなど、源平合戦の模様を実演したといわれています。
●伝説⑤
屋島寺の本尊・十一面千手観音の御用狸として善行を積んだことから、蓑山大明神として祀られることになったといわれています。
●伝説⑥
日清戦争・日露戦争で太三郎狸は多くの子分たちとともに満州へ出征して、得意の変化術で日本軍に勝利をもたらしたといわれています。
●伝説①
盲目の鑑真さんを道案内した。
●伝説②
霧深い山中で道に迷った弘法大師を老人に化けたタヌキが案内した。
●伝説③
その昔、あるタヌキが矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられたという。
その恩義から平家の守護を誓ったそうです。
そのタヌキの子孫が太三郎狸といわれています。
太三郎狸は平家が滅亡した後に屋島に住みつき、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺の住職に知らせたといわれています。
そうした経緯から太三郎狸は屋島寺の守護神になったそうです。
●伝説④
屋島寺の住職が代替わりする際、住職の夢枕で源義経の八艘飛びや弓流しなど、源平合戦の模様を実演したといわれています。
●伝説⑤
屋島寺の本尊・十一面千手観音の御用狸として善行を積んだことから、蓑山大明神として祀られることになったといわれています。
●伝説⑥
日清戦争・日露戦争で太三郎狸は多くの子分たちとともに満州へ出征して、得意の変化術で日本軍に勝利をもたらしたといわれています。
ちなみに狸の習性は一夫一婦制ということで、祭神の蓑山大明神は夫婦円満・家庭円満・縁結びの神として信仰されているそうですよ。
一宮神社の御朱印~クスノキに囲まれた古社~(愛媛県新居浜市)
所在地愛媛県新居浜市一宮町1丁目3−1祭 神●主祭神・大山積神・大雷神・高龗神●配祀神・健御名方神由 緒創建年は不詳ですが、古くよりこの地には大山積神が祀られていたといいます。709年、大三島...
宝物館
●宝物館
そんなこんなで参拝後、宝物館を拝観してきました。
とにかく濃厚なラインナップで、拝観中はずっと脳汁が垂れ流し状態でした。
●その他の見どころ
●源平屋嶋合戦八百年祭供養碑
・1985年建立
このレリーフと五輪塔は源平合戦・屋島の戦いの戦没者を供養するために建立されたもののようです。
その他、境内には本坊や、たくさんの石仏さんがありました。
ちなみに、本坊には雪の庭という庭園があります。
雪の庭は宝物館内からガラス越しに拝観することができましたよ。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
そんなこんなで参拝後、宝物館を拝観してきました。
●宝物館の見どころ
・本尊の千手観音さん(国重文)
・鑑真が彫った薬師如来さん
・那須与一の子孫が寄進した源氏の白旗
・弁慶が勝利の餅をついた源平の勝臼
・屋島合戦屏風
・源平盛衰記絵巻物
・徳川家康所持の太刀などなど
・本尊の千手観音さん(国重文)
・鑑真が彫った薬師如来さん
・那須与一の子孫が寄進した源氏の白旗
・弁慶が勝利の餅をついた源平の勝臼
・屋島合戦屏風
・源平盛衰記絵巻物
・徳川家康所持の太刀などなど
とにかく濃厚なラインナップで、拝観中はずっと脳汁が垂れ流し状態でした。
●その他の見どころ
●源平屋嶋合戦八百年祭供養碑
・1985年建立
このレリーフと五輪塔は源平合戦・屋島の戦いの戦没者を供養するために建立されたもののようです。
その他、境内には本坊や、たくさんの石仏さんがありました。
ちなみに、本坊には雪の庭という庭園があります。
雪の庭は宝物館内からガラス越しに拝観することができましたよ。
いやはや、素敵なお寺さんでした。
源平合戦 屋島の戦いとは?
●源平合戦 屋島の戦いとは?
平安時代末期、一の谷の戦いで敗れた平家は、屋島に拠点を置き再起を図りました。
そして瀬戸内海の水軍を掌握して、源氏を迎え撃つことに。
屋島からは瀬戸内海を行き来する船の様子が手にとるようにわかるため、屋島は瀬戸内海を制圧する上でめちゃくちゃ重要な拠点でした。
そのため、源氏にとっては平家を滅亡させるために屋島を奪取することは必要不可欠でした。
そして、決戦当日。
平家は海からの攻撃に備えて陣を構えていましたが、源義経率いる源氏軍は陸から攻めてきたという!
海からの攻撃を想定していた平家軍は不意を突かれ、兵を海上へ後退させることに。
そんなこんなで、屋島の戦いは源氏の勝利に終わりました。
平家はこの戦いに敗れたことで残された拠点は山口県の彦島だけになり、さらに瀬戸内海の制海権をほぼ失ってしまいました。
そんなこんなで、壊滅状態の平家軍は壇ノ浦に逃れます。
しかし、想像していたよりも源氏軍の兵力が少ないことが分かり、平家は海上から弓矢で攻撃をし始めました。
両軍激しく撃ち合いますが、次第に膠着状態に。
そこで平家は小舟に設置した扇の的を弓で射落としてみろと挑発しました。
ここで那須与一の有名なエピソードが生まれます。
当初は畠山重忠が射手に選ばれますが辞退。
そして畠山重忠は那須与一の兄・為隆を推薦しました。
しかし、那須為隆も傷を負っているため辞退。
そして弟の那須与一を推薦しました。
源義経は那須与一を呼び寄せ『あの扇を射落とせ』と命じますが、与一は何度も辞退します。
しかし、与一の辞退は認められず意を決して馬にまたがり海中へ進みました。
弓を構える那須与一。
与一は平家・源氏の両軍が見守る中、扇に向けて矢を放ちました。
矢は見事に扇に的中!
扇は空に舞い海に散り落ちました。
これには平家も源氏も、敵味方関係なく感動したといわれています。
ちなみに、近年の研究では那須与一から扇までの距離は約70mあったと推測されています。
海上で揺れる扇を射抜くことができたのは、相当な腕が必要だったといわれています。
そんなこんなで、参拝終了。
第85番・八栗寺へ続く。
平安時代末期、一の谷の戦いで敗れた平家は、屋島に拠点を置き再起を図りました。
そして瀬戸内海の水軍を掌握して、源氏を迎え撃つことに。
屋島からは瀬戸内海を行き来する船の様子が手にとるようにわかるため、屋島は瀬戸内海を制圧する上でめちゃくちゃ重要な拠点でした。
そのため、源氏にとっては平家を滅亡させるために屋島を奪取することは必要不可欠でした。
そして、決戦当日。
平家は海からの攻撃に備えて陣を構えていましたが、源義経率いる源氏軍は陸から攻めてきたという!
海からの攻撃を想定していた平家軍は不意を突かれ、兵を海上へ後退させることに。
そんなこんなで、屋島の戦いは源氏の勝利に終わりました。
平家はこの戦いに敗れたことで残された拠点は山口県の彦島だけになり、さらに瀬戸内海の制海権をほぼ失ってしまいました。
そんなこんなで、壊滅状態の平家軍は壇ノ浦に逃れます。
しかし、想像していたよりも源氏軍の兵力が少ないことが分かり、平家は海上から弓矢で攻撃をし始めました。
両軍激しく撃ち合いますが、次第に膠着状態に。
そこで平家は小舟に設置した扇の的を弓で射落としてみろと挑発しました。
ここで那須与一の有名なエピソードが生まれます。
当初は畠山重忠が射手に選ばれますが辞退。
そして畠山重忠は那須与一の兄・為隆を推薦しました。
しかし、那須為隆も傷を負っているため辞退。
そして弟の那須与一を推薦しました。
源義経は那須与一を呼び寄せ『あの扇を射落とせ』と命じますが、与一は何度も辞退します。
しかし、与一の辞退は認められず意を決して馬にまたがり海中へ進みました。
弓を構える那須与一。
与一は平家・源氏の両軍が見守る中、扇に向けて矢を放ちました。
矢は見事に扇に的中!
扇は空に舞い海に散り落ちました。
これには平家も源氏も、敵味方関係なく感動したといわれています。
ちなみに、近年の研究では那須与一から扇までの距離は約70mあったと推測されています。
海上で揺れる扇を射抜くことができたのは、相当な腕が必要だったといわれています。
そんなこんなで、参拝終了。
第85番・八栗寺へ続く。
次の札所
八栗寺の御朱印|四国霊場 第85番|五剣山にある八栗の聖天さん|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県高松市)
所在地香川県高松市牟礼町牟礼3416宗 派真言宗大覚寺派札 所四国八十八ヶ所 第85番前後札所・前 → 第84番札所・屋島寺・後 → 第86番札所・志度寺本 尊聖観世音菩薩真 ...
御朱印情報
●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・賜弘法大師号1100年記念 大師納経
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年6月19日 参拝
・2024年3月 最終更新
・四国八十八ヶ所の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・500円
●期間限定・特別御朱印
・賜弘法大師号1100年記念 大師納経
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2011年6月19日 参拝
・2024年3月 最終更新
八栗寺の御朱印|四国霊場 第85番|五剣山にある八栗の聖天さん|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(香川県高松市)
所在地香川県高松市牟礼町牟礼3416宗 派真言宗大覚寺派札 所四国八十八ヶ所 第85番前後札所・前 → 第84番札所・屋島寺・後 → 第86番札所・志度寺本 尊聖観世音菩薩真 ...
参拝情報とアクセス
●拝観料
・境内無料
●宝物館
●宿坊
・なし
●前後札所
・第83番札所・一宮寺へ17.5km
徒歩3時間40分
車で40分
・第85番札所・八栗寺へ11km
徒歩2時間10分
車で20分
●最寄りの駅
・琴電 屋島駅から徒歩1時間10分
・琴電 屋島駅から車で10分
・JR屋島から徒歩1時間20分
・JR屋島から車で15分
●最寄りのバス停
・ことでんバス
JR屋島駅または琴電 屋島駅から
四国村・屋島山上行きシャトルバスに乗車
屋島山上で下車
シャトルバスの料金は100円です。
●最寄りのIC
・高松自動車道
高松中央ICから約20分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり(400台)
●駐車料金
・普通自動車 300円
・二輪車 200円
・バス 1200円
・境内無料
●宝物館
時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
定休日 | 不定休 |
拝観料 | 大人 500円 中学生以下 300円 |
・なし
●前後札所
・第83番札所・一宮寺へ17.5km
徒歩3時間40分
車で40分
・第85番札所・八栗寺へ11km
徒歩2時間10分
車で20分
●最寄りの駅
・琴電 屋島駅から徒歩1時間10分
・琴電 屋島駅から車で10分
・JR屋島から徒歩1時間20分
・JR屋島から車で15分
●最寄りのバス停
・ことでんバス
JR屋島駅または琴電 屋島駅から
四国村・屋島山上行きシャトルバスに乗車
屋島山上で下車
シャトルバスの料金は100円です。
●最寄りのIC
・高松自動車道
高松中央ICから約20分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり(400台)
●駐車料金
・普通自動車 300円
・二輪車 200円
・バス 1200円