功山寺の御朱印|高杉晋作が挙兵した地|明治維新発祥の地|大内氏滅亡の地|長府毛利家の菩提寺|七卿落ちゆかりの地|(山口県下関市)

所在地山口県下関市長府川端1丁目2−3
宗 派曹洞宗
札 所 ・中国三十三観音霊場 第19番
・山陽花の寺二十四か寺 第9番
・百八観音霊場 第24番
由 緒1327年に虚庵玄寂が開山したお寺といいます。創建当初は臨済宗のお寺で長福寺という寺号だったそうです。その後、1333年に後醍醐天皇の勅願寺となり、1336年には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝廷と武士から崇敬されて栄えたといいます。さらに大内氏の庇護を得て栄えますが、1557年に大内氏最後の当主・大内義長が境内で自害したことにより一時衰退したそうです。そんなこんなで、このお寺は守護大名・大内氏の終焉地であると同時に、戦国大名・毛利氏の出発地でもあるという。1602年、長府藩主・毛利秀元が金岡用兼を招聘し笑山寺として再興。その際、臨済宗から曹洞宗に改宗。さらに1650年、毛利秀元の死後、功山寺に改称したそうです。以後、長府毛利家の菩提寺として栄えたといいます。1863年、七卿落ちで京を追われた7名の公卿のうち5名が滞在。さらに1865年に高杉晋作が挙兵したお寺として知られています。
HP曹洞宗 功山寺 公式ホームページ
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総門と参道

●境内入口

曹洞宗の名刹であります功山寺に到着。
功山寺と書いてこうざんじと読みます。

ちなみに功山寺という寺号は、長府藩初代藩主・毛利秀元の戒名・智門寺功山玄誉大居士が由来です。


●境内図

●功山寺の見どころ
①国宝の仏殿。
②大内氏の滅亡地。
③長府毛利家の菩提寺。
④七卿落ちで三条実美が滞在した地。
⑤高杉晋作の功山寺挙兵。
⑥紅葉の名所

などなど、功山寺は見どころの多いお寺さんで下関市長府の人気スポットとなっております。


●総門

●総門
・室町時代中期建立
・瓦葺 切妻造 四脚門
・国の登録有形文化財

まず最初に登場するのは室町時代建立の総門

間口が4.4mもあるワイドな門になっておりました。

円形の礎石に円柱が立つ姿に禅宗様の特徴が見てとれましたが、頭貫部が舟肘木のため純粋な禅宗様ではなく、室町時代特有のシンプルな門になっていました。


扁額には海右第一峯と書かれていました。

どういう意味かはわかりませんが、何となくこの地では功山寺の右に出る寺はないという意味でしょうか?(推測)


総門前には不許葷酒入山門の石標もありました。

葷酒と書いてくんしゅと読みます。

葷酒とは匂いの強い野菜(ネギ・ニラ・ニンニクなど)とお酒を意味します。

ということで不許葷酒入山門とは、匂いの強い野菜とお酒は他人を苦しめると同時に自分の修行を妨げることになるので、清浄な寺内に持ち込むことを許しませんよ〜という意味になります。

ということで、カバンの中身をチェック。
ワンカップ入ってませんね。

よし、入ってヨシっ!


●参道

そんなこんなで、総門をくぐって参道へ。

この功山寺は守護大名・大内氏、戦国大名・毛利氏、七卿落ちの三条実美さん、高杉晋作さんなどと関わりの深いお寺さんです。

この方々は、おそらく、いや間違いなくこの参道を歩いたでしょう!

そう思うだけで、心のダンスが止まりません。
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山門

●山門

●山門
・1773年建立
・瓦葺 入母屋造
・三間三戸 二重門
・下関市指定文化財

続いて、大きな山門が登場。

この門は長府藩10代藩主・毛利匡芳さんが寄進したものといわれています。

重厚な屋根と細い脚が特徴的な門でしたよ。


ちなみに上層部には二十八部衆像が安置されてるんだって。


1864年、高杉晋作さんは長州藩に対してクーデターを起こしました。

そのときの決起場所がここ功山寺!

いわゆる功山寺挙兵
またの名を回天義挙といいます。

当時、このお寺には七卿落ちで京都を追われた三条実美さんなど5人の公卿が潜居していました。

晋作さんはその五卿と面会し『これより長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す』と報告し、伊藤博文などとともにこの山門を駆け抜けたといわれています。

その後の活躍はご存知の通り。
以後、明治維新に向けて時代は大きく傾きました。

そんなこんなで、功山寺挙兵の象徴的な存在でもあるこの山門は、ある意味、明治維新発祥の門と言ってもよいのではないでしょうか!

ゾクゾクするぜ〜ぃ。
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仏殿(本堂)

●仏殿(本堂)

そんなこんなで、山門をくぐると国宝仏殿ドーンと登場!

とんでもない重厚感と存在感です。


●仏殿(本堂)
・1320年建立
・檜皮葺 一重裳階付き入母屋造
・国宝

この仏殿は1320年建立。

お堂の建築様式には和様・禅宗様・大仏様がありますが、こちらの仏殿は純禅宗様で造られています。

なんと!

建立年がはっきりしている禅宗様建築では日本最古の仏殿なんだって!

ちなみに功山寺の仏殿は、鎌倉・円覚寺の舎利殿と並び仏殿建築の代表作といわれています。

そんなこんなで、国宝中の国宝
とっても貴重なお堂なのですねぇ。


●禅宗様建築の特徴
(上下部分が丸く細い柱)
礎盤(礎石と柱の間の石・木)
詰組(柱と柱の間の組物)
扇垂木(放射状の垂木)
火灯窓(火炎形・花形の窓)
台輪(頭貫にある水平材)
海老虹梁(湾曲した虹梁)
三手先(3段の斗組み)
弓欄間(弓形・波形の欄間)
四半敷(瓦・石を斜め45度に敷いた床)

などなど。

功山寺の仏殿はこれらの手法が全て盛り込まれた禅宗様建築。

禅宗様の教科書のようなお堂です!

実は私。
お堂について右も左もわからなかった頃、このお堂で禅宗様のなんたるかを学んだのでありました。


肉眼ではハッキリと確認できませんでしたが、扁額には山号であります金山という文字が書かれているそうです。

この文字は後醍醐天皇の揮毫という噂があります。


●御本尊

●本尊 千手観音菩薩坐像
・鎌倉時代末期作
・作者 雲渓
・下関市指定文化財

御本尊の千手観音さんは京の仏師・雲渓というお方が刻んだものといわれています。

ちなみに功山寺は中国三十三観音霊場ならびに百八観音霊場の札所になっています。

このお寺さんは古くから長門国の観音信仰の中心として庶民から崇拝されていたそうですよ。
境内の裏山にはお山三十三観音のミニ霊場もあるみたいです。


いやはや、素敵なお堂でした。
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長府藩主 毛利家墓所

●長府藩主 毛利家墓所

功山寺は長府毛利家の菩提寺でもあります。

そんなこんなで、境内には長府藩主・毛利家の墓所がありました。


ちなみに長府藩主・毛利家の墓所は功山寺笑山寺覚苑寺の3ヶ所にあります。

この功山寺には9代のお墓がありました。

●長府藩主 毛利家墓所(功山寺)
①初代藩主・毛利秀元
②5代藩主・毛利元矩
③9代藩主・毛利匡満
④10代藩主・毛利匡芳
⑤11代藩主・毛利元義
⑥12代藩主・毛利元運
⑦14代藩主・毛利元敏
⑧15代藩主・毛利元雄
⑨16代藩主・毛利元匡

その他、藩主の正室や側室のお墓などがありました。


笑山寺覚苑寺の墓所はこちら。

●長府藩主 毛利家墓所(笑山寺)
①2代藩主・毛利光広
②7代藩主・毛利師就


●長府藩主 毛利家墓所(覚苑寺)
①3代藩主・毛利綱元
②6代藩主・毛利匡広
③13代藩主・毛利元周


●長府の町並み

ちなみに功山寺から徒歩10分のところには、城下町・長府の町並み長府毛利邸があります。

長府は江戸時代に長府毛利藩5万石の城下町として栄えた町です。
当時は長府毛利藩の家老職御馬廻役など、藩の重役と側近が屋敷を構えていたそうですよ。


現在も古い土塀が建ち並ぶ古江小路菅家長屋門長府藩侍屋敷長屋など、当時の面影が残っています。

ちなみに長府という地名は、大化の改新の後に門国の国が置かれていたことが由来なんだって。


●長府毛利邸

長府毛利邸は、1903年に長府藩14代藩主・毛利元敏が建立した邸宅です。

敷地面積は約10000平方メートル!

ちなみに現存する毛利邸は、防府市・毛利宗家の本邸とこの邸宅のみなんだって。


毛利邸には明治天皇ご宿泊の間がありました。
どうやら1902年に明治天皇が1泊したそうです。

その他、毛利邸内では書院庭園・枯山水庭園・池泉回遊式庭園を拝観することができました。

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大内義長の墓所

●大内義長の墓所

山口といえば毛利氏と大内氏!

この功山寺は大内氏最後の当主・大内義長さんが自害したお寺としても知られております。

すなわち功山寺は大内氏滅亡の地だという!

●大内義長とは?
大内氏は西国一の勢力を誇った守護大名・戦国大名

現・山口市は第9代当主・大内弘世さんが京都を模してつくった町でした。

やがて北山文化・東山文化を融合させた大内文化が花開き、山口は西の京と呼ばれるほどにまで繁栄しました。

第16代当主・大内義隆さんの時代には、周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前の7ヶ国を勢力下に置いて全盛期を迎えます。

功山寺で自害した大内義長さんは大内氏17代当主。

大内義隆の次の当主ということで、てっきり義隆さんの子と思いきや、豊後国の戦国大名・大友義鑑の次男だという!

ちなみに義長さんの兄は大友宗麟です。


戦国時代、大氏と大氏は対立する関係でしたが、1538年に和睦。

その後、大友氏の義長さんは大内義隆の養子となることが内定しました。

しかし大内義隆に誕生してしまったために義長さんの養子縁組解消してしまいました。

しかし大内義隆は重臣・陶晴賢の謀反により自害!

そして1551年、陶晴賢は義長さんを大内氏の新当主として迎えました。

その後1555年、陶晴賢は毛利元就との戦い(厳島の戦い)で敗死
そして大内氏は急速に衰退していくことになりました。

勢いが止まらない毛利軍は、1557年に山口へ侵攻。

義長さんは防戦しますが、居城の高嶺城を放棄して且山城へ敗走。

しかし且山城はすぐに毛利軍に包囲され落城してしまいました。

そして義長さんは毛利軍に追われて功山寺に逃れました。

しかしこれまで・・・義長さんは客殿内で自害しました。

享年26歳。

●辞世の句
誘ふとて 何か恨みん 時きては
嵐のほかに 花もこそ散れ

(自分の人生の終わりにおいて何も恨まず、嵐が来なくてもいずれ花は散る)

こうして栄華を極めた名門・大内氏は滅亡しました。

法堂・地蔵堂・鐘楼・経蔵など

●法堂

●法堂
・1788年建立
・瓦葺 寄棟造

庫裡で拝観受付をすると、法堂の内部・書院・庭園を拝観することができます。 


●地蔵堂

●地蔵堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造

●本尊 地蔵菩薩半跏像
・平安時代作
・像高 135cm
・山口県指定文化財

堂内には県重文の地蔵菩薩半伽像が安置されておりました。

このお地蔵さんは別名・延命地蔵菩薩と呼ばれているそうです。


●鐘楼

●鐘楼
・1695年建立
・瓦葺 入母屋造

袴腰のような袴腰じゃないような、やたらと箱型の鐘楼でした。

ちなみに鐘を撞くことはできませんでした。


●経蔵(輪蔵)

●経蔵
・1799年建立
・瓦葺 妻入り切妻向拝付き宝形造
・土蔵造
・下関市指定文化財

経蔵は長府藩11代藩主・毛利元義さんが初代藩主・毛利秀元さんの150回忌の供養として建立したものだそうです。


経蔵内には輪蔵がありました。

なんと、この輪蔵には約1600冊もの経本が納められてるそうですよ。


●井戸(功山寺名水)

境内にはモダンな井戸もありました。

なんと、こちらは大内義長・三条実美などの公卿や高杉晋作をはじめ幕末の志士などが愛飲した井戸だという。

説明板によると、今もこの名水は絶えることなく湧き出ていて、歴史の証人として、また生命の水として、多くの参拝者に飲まれている・・・的なことが書いてありました。

ということで、飲んでもいいのかな?


●桜門

●桜門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 四脚門

こちらは通用門でしょうか?

簡素ながら味のある門でした。


ちなみに功山寺は紅葉スポットとして人気のお寺さんです。

七卿落ちと七卿潜居の間

●七卿潜居の間

功山寺は幕末の政変で都落ちした七卿のうち5人の公卿が潜居したお寺としても知られています。

そんなこんなで、書院では三条実美をはじめ5人の公卿が滞在した部屋を拝観することができます。

●尊王攘夷と公武合体とは?

●尊王
・天皇を尊敬し天皇中心の国家を目指す思想

●攘夷
外国人を日本から追い出せという主張

すなわち尊王攘夷とは、天皇を守り外国人を追っ払おうというスローガンです。

●公武合体派
・天皇と幕府が協力して政治をする


●七卿落ちとは?

江戸時代末期、外国船、いわゆる黒船がたびたび日本の近海に現れ、江戸幕府に対して開国を要求してきました。

そんな外国船を脅威と感じた志士たちは外敵を排除するために立ち上がります。
いわゆる攘夷です。

しかし徳川幕府は外国の要求をのんで開国しちゃいました。
そして攘夷派の志士たちは弱腰政策をする幕府を非難するようになりました。

そんなこんなで、下級武士を中心に尊王攘夷運動が起こりました。

尊王攘夷を掲げた志士たちの中心にいたのが長州藩士です。

そして武士だけではなく朝廷内にも尊王攘夷派がいました。
その中心にいたのが三条実美です。


1862年、薩摩藩主・島津久光が幕府の政治を改革して公武合体運動をすすめました。(文久の改革)

当然、この改革により長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係が悪化

長州藩薩摩藩対立が深まることになりました。

一方、朝廷内でも尊王攘夷派と公武合体派の対立が起きていました。

そんなこんなで、公武合体派の岩倉具視は尊王攘夷派の三条実美にはまり、政治の世界から追いだされちゃいました。

その後も長州藩は京都で勢力をのばし、過激な活動で尊王攘夷を推し進めました。

イケイケの長州藩は、自分達の力で外国を追い払おうとして英・仏・蘭・米の連合艦隊と戦争したりもしました。(下関戦争)

しかし武力では外国に勝てない・・・

そのことを思い知った長州藩は三条実美らの根回しで孝明天皇神武天皇のお墓などに参拝させる計画を画策しました(大和行幸の詔)

これはどういうことかというと、孝明天皇が初代天皇・神武天皇のお墓を参拝して攘夷を祈願することで、幕府も攘夷を行うしかないという状況に追い込もうとしたわけです。

しかし孝明天皇は過激なことばかりする長州藩と関わりたくありませんでした。

一生懸命頑張っているのに、気がつけば孤立してしまった長州藩・・・。


しかし長州藩の暴走は止まりません。

そこで動き出したのが薩摩藩会津藩

1863年、薩摩藩と会津藩は御所の門を封鎖し、厳重な警備の中、大和行幸の延期三条実美らの処遇についての話し合いを行いました(八月十八日の政変)

そのことを知った三条実美と長州藩は慌てて御所に駆け付け堺町門に集結。

しかし、時すでに遅し・・・。

門を守っていた薩摩藩・会津藩とにらみ合いになりますが、さすがの長州藩も御所に向けて砲撃することはできず・・・長州藩は退去することになりました。

これが八月十八日の政変です。

ちなみに八月十八日の政変によって大和行幸は延期され、三条実美などの公卿たち15人は外出禁止・面会禁止などの命令が下されました。

長州藩にも京都からの退去命令が下りました。

その後、外出禁止の命令に背いて15人の公卿のうち三条実美をはじめ7人は長州藩と一緒に長州へ逃れました。

これが七卿落ちです!

この七卿は長州に落ち延びて復活の機会を狙おうとしていたのかも知れません。


そんなこんなで、雨のなか京都を脱出する長州藩士と7人の公卿。

しかし、公卿は全員ひ弱だったため京都を出るまで歩き続けられなかったという・・・。

とはいえ、何だかんだ兵庫まで辿り着き、20艘以上の大船団で長州を目指しました。

その途中、7人の公卿のうち5人功山寺に入り、しばらくの間滞在しました。

その際、三条実美をはじめ5人の公卿は高杉晋作と面会し功山寺挙兵に立ち会いました。

そんなこんなで、八月十八日の政変失脚した公卿が長州へ落ち延びたことを七卿落ちといいます。


●七卿落ちのメンバー
①三条実美
②三条西季知
③四条隆謌
④東久世通禧
⑤壬生基修
⑥錦小路頼徳
⑦澤宣嘉

功山寺挙兵と高杉晋作回天義挙像

●高杉晋作回天義挙像

●高杉晋作回天義挙像
・1965年建立
・1972年移設

功山寺は高杉晋作挙兵したお寺としても知られています。

そんなこんなで、境内には高杉晋作回天義挙像がありました。

もともとこの像はみもすそ川別館にあったそうですが、1972年に現在地に移設したそうです。

晋作さんの挙兵から108年目の1972年12月15日にこの地で除幕式が行われたんだって。

ちなみに12月15日は赤穂浪士の討ち入りと同じ日です。
これは偶然でしょうか?

●功山寺挙兵(回天義挙)とは?

1863年の八月十八日の政変で京都を追放された長州藩。

さらに1864年、前年に起こった下関戦争の報復として来襲した英・仏・蘭・米の連合艦隊に長州藩は惨敗してしまいました。

高杉晋作はこれまでの武士中心の軍隊では外国には勝てないということを痛感し、新しい新鋭軍隊の必要性を感じました。

それまでの軍隊は武士によって編成されていましたが、高杉晋作は尊王攘夷の志があれば身分を問わず誰でも入隊できる軍隊をつくりました。

奇兵隊の誕生です!


ちなみに奇兵隊の構成員は

武士  → 約50%
農民  → 約40%
その他 → 約10%

だったそうです。


その後、京都で禁門の変に敗れ、長州藩は朝敵とされました。

さらに禁門の変を起こした長州藩を処分するため、江戸幕府による第一次長州征討まで行われることとなりました。

完全に孤立してしまった長州藩・・・

そして長州藩の内部では保守派の椋梨藤太らが台頭し、藩政の主導権を握るようになりました。

保守派は禁門の変の責任者らを処罰。
そしてひたすら謝罪し、長州藩は幕府に従うことになりました。

このままでは長州藩は滅亡してしまう・・・

そう考えた高杉晋作は、保守化した長州藩を倒して藩政の主導権を奪い返すクーデターを起こすことにしました。

そんなこんなで、高杉晋作は攘夷派の志士などに決起を呼びかけるも、無謀な計画に賛同する者はほとんどいませんでした。。

このとき奇兵隊の実権を握っていた山縣有朋ですら消極的なスタンスで、逆に高杉晋作を論する始末。。


結局、高杉晋作に賛同して集まったのは、親友の伊藤博文率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人だけでした。

高杉晋作はたった80人で長州藩と戦おうとしたのでした!


そんなこんなで、高杉晋作と80人は出陣式を兼ねて功山寺に集結!

これが功山寺挙兵!
またの名を回天義挙といいます!


この時、功山寺には七卿落ちで京都から逃れた三条実美ら5人の公卿が滞在していました。

そんなこんなで、高杉晋作はその5人と面会

そして高杉晋作が挙兵することを告げると、三条実美は冷酒を注ぎました。
高杉晋作は盃の酒を飲み干し

これより長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す

と挨拶して立ち上がりました。

そして、高杉晋作は力士隊と遊撃隊を率いて出陣!

功山寺の山門をくぐり抜け、奉行所を制圧すると、あっと言う間に下関を占領しました。

さらに部隊から精鋭18名を選出して決死隊を編成。

そして三田尻で軍艦3隻を奪取。

この快進撃により山縣有朋率いる奇兵隊が高杉晋作の軍に加わりました。

そして1865年、大田・絵堂の戦いで長州藩に勝利しクーデターは成功しました。

その後、長州藩は第二次長州征討(四境戦争)で幕府軍に勝利し、時代は明治に向けて一気に傾いていくことになりました。

もし功山寺挙兵が失敗していたら、明治維新は遅れ、下手すりゃ外国の植民地になっていたかも知れませんね!

そんなこんなで、この功山寺は明治維新発祥の地といわれています。


ちなみに高杉晋作はこの挙兵を死に場所と決めていたようで、友人の大庭伝七に遺書のような手紙を送っていました。

僕は赤間関の鬼となり、討ち死に致す決意でおります。
ゆえ、別書の通りまことにご面倒でしょうが碑をお建てください。

死してなお天満宮の如く赤間関の鎮主となり
長州を守り通す志。

死して忠義の鬼となる。愉快愉快。

・・・本当に死ぬ気でいたのでしょうね。

このように高杉晋作が決死の覚悟で挙兵したのには松下村塾の師・吉田松陰の教えがあったからといわれています。

生きている限り大きな仕事が出来ると思うなら、いつまでも生きよ。

死ぬほどの価値のある場面と思うなら、いつでも死ぬべし。

高杉晋作とは?

●高杉晋作とは?

高杉晋作とは、幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍したお方です。

身分制度にとらわれない軍隊・奇兵隊を結成し、長州藩のリーダーとして江戸幕府と戦った革命児です。

辞世の句は面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり

高杉晋作のもとで働いていた伊藤博文が動けば雷電の如く 発すれば風雨の如しと語ったほど、とてつもない行動力の持ち主だったみたいです。


●高杉晋作の年表
1839年(0歳)長門国の長州藩士・高杉小忠太の子として誕生。
1852年(13歳) 長州藩の藩校・明倫館に入学。
1857年(18歳) 吉田松陰の松下村塾に通う。
1859年(20歳) 吉田松陰の刑死を知る。
1860年(21歳) 山口町奉行・井上平右衛門の次女・雅子と結婚
1862年(23歳)幕府使節随行員として上海へ留学。
友人・久坂玄瑞らとともに江戸・品川御殿山に建設中だったイギリス公使館の焼き討ちを行う。
1863年(24歳)下関戦争に参加。
長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、アメリカ・フランスと衝突。
晋作は敗北した長州藩の代表として外国との交渉を担当。

奇兵隊を結成する。
本拠は阿弥陀寺(現・赤間神宮)。

禁門の変が勃発。
長州藩は京都を追放される。
1864年(25歳) 下関戦争の敗戦処理として英・仏・蘭・米のとの講和談判をまとめる。
晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、領土の租借は頑なに受け入れなかった。

第一次長州征伐が勃発。
長州藩は幕府軍に降参するが、晋作はこれに反対し功山寺挙兵

晋作は幕府に従う長州藩が許せなかった。
1865年(26歳) 功山寺での挙兵が成功し、長州藩は幕府と戦うことになる。
1866年(27歳)第二次長州征伐が勃発。
晋作もこの戦いに参加し幕府軍に勝利する。
1867年(27歳) 肺結核で死去

享年27歳。
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御朱印情報


●御朱印の種類
・中国三十三観音霊場の御朱印
・山陽花の寺二十四か寺の御朱印
・百八観音霊場の御朱印

●御朱印の受付場所
・庫裏(納経所)

●御朱印の受付時間
・9:00~17:00

●御朱印の料金
・各300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳

●サイズ
・16cm × 11cm 

●料金
・1500円

・2009年1月31日 参拝
・2022年3月 更新

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参拝情報とアクセス

●開門時間
・不明

●拝観料
・境内無料

●書院見学
・大学生以上 300円
・中・高生  100円
・小学生以下 無料

●最寄りの駅
・JR長府駅から徒歩45分
・JR長府駅から車で10分

●最寄りのバス停
・サンデン交通
 JR長府駅から下関駅行きに乗車
 城下町長府 バス停で下車 徒歩10分
 (乗車時間10分)

●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから車で15分

●駐車場
・無料の専用駐車場あり(10台)

功山寺の地図

 

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