船島神社(巌流島)の御朱印|宮本武蔵 vs 佐々木小次郎の巌流島に鎮座|御朱印は彦島八幡宮で|(山口県下関市)

所在地山口県下関市大字彦島字船島648番地
祭 神地神大神・龍神大神
由 緒創建年不詳。船島(巌流島)の守護神といわれています。2003年に彦島八幡宮が祭禮を復活させ、現在に至ります。
HPしものせき物語 – 巌流島│下関市公式観光サイト 楽しも!
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唐戸桟橋と関門連絡船

●唐戸桟橋

宮本武蔵 vs 佐々木小次郎でお馴染みの巌流島に行ってきました。

巌流島へのアクセスは2パターンあります。

唐戸桟橋から巌流島へ(本州)
門司港桟橋から巌流島へ(九州)

本日は下関市を観光しているので、唐戸桟橋から巌流島へ向かいました。


●関門連絡船・フロンティア号

そんなこんなで、桟橋で船の到着を待っていると骸骨マークをたなびかせた海賊船のような船がやってきました!

ギャグかと思いましたよ(笑)

ちなみにこの船の名はフロンティア号
チャレンジという会社が運航している船です。


フロンティア号は、古くから親しまれている王道の連絡船・関門汽船に果敢に戦いを挑みましたが敗北。
2015年8月に運航を休止してしまいました。

チャレンジ失敗!

関門汽船 vs チャレンジ・・・運航会社同士でも巌流島の戦いがあったのですね!

ということで現在、巌流島へのアクセスは関門汽船のみとなっております。


そんなこんなで乗船。

在りし日のフロンティア号の勇姿をご覧ください。


船からは下関のシンボル・海峡ゆめタワーや、本州と九州を結ぶ関門橋を望むことができました。


そうこうしていると巌流島に到着。

乗船時間は約10分。
あっという間の船旅でした。

巌流島に上陸したのは今回で2度目となります。
前回訪れたのは大河ドラマ・武蔵 MUSASHIが放送されていた時だから・・・実に11年ぶり!

11年前に訪れた時と何にも変わってない巌流島に、意味もなくちょっと安心したひと時でした。
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巌流島とは?

●巌流島とは?

巌流島は関門海峡に浮かぶ周囲約1.6kmの小島です。

標高は最高地点でも海抜10mに満たないという。

かつては豊前小倉藩の領地でしたが、現在は山口県下関市に属しています。


明治時代中期にはコレラ患者の医療施設があったといわれています。

太平洋戦争中は軍用地となったため一般人は立入禁止に。
そのためこの時期の島の写真は1枚も残ってないそうです。

戦後、漁民を中心に住民が増え、最盛期には30世帯が暮していたそうですが、再び人口が減少し1973年に無人島になったという。


以後、島の大半を三菱重工業が所有していましたが、NHK大河ドラマ・武蔵MUSASHIに合わせて一部の土地を下関市譲渡

そんなこんなで、2003年に下関市が公園として整備。
それにともない定期船を運航して観光化しました。

それが現在の巌流島です。


ちなみに巌流島という名で知られていますが、正式名称は船島といいます。
その名の通り、のような形をしているため船島と名付けられたんだって。

巌流島という名称は、巌流島の戦いで敗れた佐々木小次郎巌流と称していたことが由来といわれています。

しかし巌流島の由来には諸説あり、岩流岸流岸柳岩龍などにちなんで名付けられたともいわれています。


古地図と現在の写真を比べると島の形が変わっていることがわかります。

これは度重なる埋め立て工事によるものといわれています。

大正時代、航行する船舶の増加と大型化のため、岩礁を爆破。
その後、三菱重工業が埋め立て工事を行ったそうです。

それにより島の面積が6倍に広がったといわれています。

さらに日本軍の要塞地になったこともあり、このような形になったそうです。

埋め立てたことにより、より船っぽくなってますね。


武蔵 vs 小次郎の決闘地。
ワクワクしますねぇ!

ということで、巌流島のハイライトであります武蔵・小次郎像へ!

と見せかけて、まずは船島神社を参拝!
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船島神社

●鳥居

そんなこんなで、巌流島の桟橋から徒歩1分のところに鎮座する船島神社に到着。

船島神社は、下関市の彦島に鎮座する彦島八幡宮の末社で、巌流島唯一の神社となります。


鳥居の扁額には島神社と書いてありますが、この神社を管理している彦島八幡宮の公式ホームページに島神社と書いてありましたので、もしかしたら正式名称は船島神社なのかも知れませんね。

船島神社についていろいろと調べてみましたが、創建年などの由緒は不明で、わかったのは巌流島の守護神ということくらいでした。


●社と御神体

鳥居をくぐると、お粗末なが登場。

社の中には2体の御神体が鎮座していました。

・左 → 地神大神
・右 → 龍神大神

地神は土地を守護する神さま。
龍神はなどを守護する神さま。


関門海峡は潮の流れが急で、標高10mにも満たない平らな島なので、雨風、さらには波をさえぎるものはありません。

きっと幾度となく災害に遭ってきたことでしょう(想像)

ということで、かつての住民は土地の神海の神をお祀りして島の安全を祈っていたのかも知れませんね。

ちなみに10年前に参拝したときは御朱印がありませんでしたが、現在は彦島八幡宮御朱印を頂くことができます。

彦島八幡宮の御朱印|仲哀天皇ゆかりの地|ペトログラフ・泳ぐ岩・不思議な庭石|通常・限定御朱印がたくさんあります!(山口県下関市)
所在地山口県下関市彦島迫町5丁目12−9祭 神仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇由 緒1159年、彦島開拓の祖・河野通次が自ら祭主となり、宇佐神宮より御分霊を勧請したのが始まりといいます。この神社は灘...
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宮本武蔵・佐々木小次郎像

●宮本武蔵・佐々木小次郎像

●宮本武蔵・佐々木小次郎像
・宮本武蔵像 2003年建立
・佐々木小次郎像 2002年建立

そんなこんなで、巌流島のメインスポットであります武蔵・小次郎像へ到着。

二刀流 vs 燕返し

迫力のある銅像ですねぇ!


決闘の日、武蔵さんは2時間遅刻して巌流島に到着したといわれています。

その伝説を意識してか、この像も武蔵像が1年遅れで建立されているという!

これは面白いですねぇ〜。

●宮本武蔵とは?

宮本武蔵さんは江戸時代に活躍した剣術家・兵法家・芸術家で二天一流(二刀流)の創設者です。

生誕年は1582年と1584年の説があり定かではありません。
出身地も岡山説と兵庫説がありますが定かではありません。


武蔵さんは13歳のときに初めての決闘に勝利。
その後、29歳までに60回以上の決闘を行い、全ての戦いで勝利したといわれています。

古文書によると、1600年の関ヶ原の戦いで父・新免無二斎は東軍の黒田家に仕官していたと記されているそうです。
このことから、武蔵さんは父とともに東軍として戦った可能性が高いといわれています。

しかし西軍として戦ったという説もあったりします。

1614年の大坂の陣では、徳川軍・水野勝成の客将として参戦したそうです。

1637〜1638年の島原の乱にも参戦しているそうです。

どうやら武蔵さんは個人戦はもとより、団体戦でもその強さを発揮していたみたいですね。


1643年、武蔵さんは熊本の金峰山にある霊巌洞で五輪書の執筆を始めたそうです。

五輪書とは地・水・火・風・空の5巻で構成された書物で、武蔵さんが会得した兵法の技術やきびしい心構えなどが記されています。

その記述は細かく、剣の使い方の姿勢、目のつけ方、構え、敵との間合いなどが書かれています。

ちなみに五輪書というタイトルは、密教の五輪(五大)からとっているそうです。

●地の巻
・自らの流を二天一流と名付けたこと
・これまでの生涯
・兵法のあらまし

まっすぐな道を地面に書くということから地の巻とされています。

●水の巻
・二天一流での心の持ち方
・太刀の持ち方や構えなど

水を手本とする剣さばき・体さばきにちなんで水の巻とされています。

●火の巻
・戦いについて
・個人戦も団体戦も同じ

戦いのことを火の勢いに見立てて火の巻とされています。

●風の巻
・他の流派について
・他流派の批評

それぞれの家風のことを風に例えて風の巻とされています。

●空の巻
・兵法の本質

あるものがあると知りつつ、そのあるにとらわれないということから空の巻とされています。

そんなこんなで、五輪書の執筆を始めて2年。
1645年に五輪書が完成しました。

しかし、それから間もなくの1645年6月13日に千葉城(熊本)の屋敷でお亡くなりになりました。

享年62歳。


現在、武蔵さんの極意が記された五輪書はスポーツ界ビジネス界で愛読者が多いそうです。

なんと五輪書は海外でも知られているらしく、The Book of Five Ringsというタイトルで愛読されているそうですよ。

時代を超えてワールドワイドに活躍する武蔵さん・・・スゴいなぁ。

●佐々木小次郎とは?

~画像は山口県岩国市の錦帯橋にて~

佐々木小次郎さんは江戸時代に活躍した剣術家で岩流の創始者です。

生誕年は1558年〜1592年の間といわれ、正確な年は定かではありません。
出身地も福井説や福岡説などがあり定かではありません。

名前も文献によってばらつきがあり、岩流小次郎巌流小次郎巌流小次良などさまざま。
佐々木と呼ばれるようになったのは没後といわれています。

小次郎さんは、安芸国の毛利氏に仕官した後、武者修行のため諸国を渡り歩き、燕返しという必殺技を考案。

そして岩流と呼ばれる剣術流派を創始したといわれています。

その後、小倉藩の剣術師範として活躍したそうです。

1612年、巌流島で宮本武蔵と戦って敗北
そして巌流島でお亡くなりになりました。

死亡年齢は不明です。

名前・生誕年・出身地など、とにかく不明な点が多い人物として知られています。
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巌流島の戦いとは?

●巌流島の戦いとは?

佐々木小次郎は剣術の流派・岩流を創設し、小倉藩の剣術指南役を務めていました。

そんな彼のもとに、二天一流を創設した宮本武蔵新たな剣術指南役として雇われます。

お互い剣術指南役で、さらに腕が立つ剣術家ということもあり、弟子たちの間でどちらが強いかを決める口論が勃発しました。

この弟子たちの争いを止めさせるため、武蔵と小次郎は巌流島で戦うことになりました。

そして小倉藩士立会のもと、決闘の日時が決定。
決闘日は1612年4月13日となりました。

決闘の当日。

先に巌流島に到着した小次郎。
しかし、武蔵は決闘の時間になっても姿を現しません。

実は武蔵。
わざと遅刻をすることで小次郎に対して精神的なゆさぶりをかけたのでした。

イラ立つ小次郎・・・

そして2時間後武蔵が姿を現しました!


『遅いぞ武蔵、臆したか!』と叫びながら、小次郎は物干し竿と呼ばれた長い刀を抜き、鞘を投げ捨てます。

武蔵は即座に『小次郎、破れたり!勝つ者がなぜ鞘を捨てるか!』と叫び、舟のオールを削った木刀を振りかざし、わずか一撃で小次郎を絶命させました。

完。

ちなみに、佐々木小次郎は刃渡り約1mもある備前長光を使用。

宮本武蔵は船の漕ぎ手からもらったオールで作った約90cm約50cm木刀を使用。

武蔵が刀を使わず木刀を使用していた理由は、人を殺すことを嫌っていたからといわれています。

武蔵はその他の決闘でも木刀を使用しています。


~画像は京都市左京区の一乗寺下り松にて~

宮本武蔵は13歳のとき、新当流の有馬喜兵衛に勝利して以来、

天下の兵法者・吉岡一門
宝蔵院流槍術の奥蔵院日栄
鎖鎌の使い手・宍戸某
柳生新陰流の大瀬戸隼人辻風左馬助
岩流の佐々木小次郎

などなど、数々の決闘で勝利
天下無双の剣豪として知られています。

戦績はなんと生涯無敗!
60戦以上戦って無敗とは・・・もしかしたら当時、地球上で1番強かった若者だったかも知れませんね!

しかし一説によると神道夢想流開祖・夢想権之助負けたことがあるとか・・・!?

あれれ???

なんか臭いますねぇ。
なんだかきな臭いぞ。

ということで調べてみると、モリモリに出てきました、黒エピソードが!

宮本武蔵・巌流島の戦いの真実!?

●宮本武蔵・巌流島の戦いの真実!?

~画像は福岡県北九州市の小倉城にて~

●エピソード①
巌流島の戦いの際、武蔵は20代の若者でしたが、小次郎は70歳近いヨボヨボの老人だった。


●エピソード②
1対1で闘う約束をしていましたが、武蔵は数人の弟子をひそかに島に渡らせ、物陰から決闘の様子を注視させていた。


●エピソード③
武蔵の一撃で絶命した小次郎・・・といわれていますが、武蔵は仕留めきれず小次郎は気を失って倒れていただけだった。
そして息を吹き返して立ち上がろうとしたところを、隠れていた武蔵の弟子たちが袋叩きにして撲殺した。


●エピソード④
武蔵は小次郎の弟子からの報復を恐れて門司城に逃亡
沼田延元に助けてもらい、無事逃げることができた。


●エピソード⑤
そもそも小次郎は無名の剣士だった。


●エピソード⑥
武蔵は遅刻しておらず、むしろ時間前行動をしていた。


●エピソード⑦
決闘の後、地元の人々が船島にお墓を建て小次郎の菩提を弔った。
そのことから船島が巌流島と呼ばれるようになった。


などなど、巌流島の戦いには通説と異なるエピソードがたくさんありました。



実は皆が知る巌流島の戦いは、吉川英治さんの小説・宮本武蔵が広まったものといわれています。

武蔵が決闘に遅刻してきたという話も吉川英治さんの創作なんだとか!

後年、吉川英治さん自身が『作家の創作と史実がごちゃごちゃにされることへの危機感がある』と語っているほど、世の人々にフィクションが真実であるかのように広まってしまったようです。

・・・

・・・・・

なんだかなぁ〜・・・って感じですね(笑)
知らない方が良かった的な!

もしかしたら、島の名前が勝者ではなく敗者に由来しているのは、武蔵さんが卑怯な手を使ったから・・・!?

例え、小次郎さんがヨボヨボのお爺ちゃんだったとしても、無名の剣士だったとしても、集団リンチにあったとしても、内容はともあれこの島で武蔵と小次郎と呼ばれる人が戦ったという歴史があったのは間違いなさそうです。

巌流島の関連人物


巌流島といえば武蔵・小次郎のイメージが強いですが、それ以外にも様々な人物がエピソードを残しております。


●坂本龍馬とお龍

1867年、坂本龍馬と妻・お龍が下関の豪商・伊藤邸に世帯を構えた際、夜中にこっそりと巌流島に渡り花火をして遊んだというエピソードが伝わっています。

これは後年、お龍が語ったことで知られることになりましたが、具体的に島のどの辺りだったのかは分かっていません。


●吉田松陰

1849年に吉田松陰が巌流島に上陸。

そして佐々木小次郎のお墓参りをしたといわれています。


●豊臣秀吉

かつて巌流島のすぐ隣には岩礁があり、航行の難所として恐れられていたといわれています。

豊臣秀吉も名護屋城(佐賀)から大坂への帰路の途中、その岩礁に乗り上げて転覆

そして毛利水軍によって助けられたといわれています。

しかし、船長の明石与次兵衛はお亡くなりになりました。

そのことから、江戸時代、この辺りのことを与次兵衛ヶ瀬と呼んでいたそうです。


●羽生善治と広瀬章人

~画像はWikipediaより~

2018年、下関で将棋の竜王戦が行われた際、対戦の前日に羽生竜王広瀬8段が訪れています。


●アントニオ猪木とマサ斎藤

そして忘れてはいけないのがこれ!

アントニオ猪木 vs マサ斎藤の巌流島の戦い!

時間無制限、ノールール。
無観客試合。

1987年10月4日。
夜明けとともに試合開始のはずが、アントニオさんは14時31分に。
武蔵を意識してからか、マサさんは16時に島に上陸。

両者、遅刻し過ぎ(笑)

16時30分に試合が開始されますが、アントニオさんはまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、30分後にマサさんに向かって歩み寄っていったという。

お互い、武蔵になろうとしてる感が面白かったです。

ちなみに試合時間は2時間5分14秒!
日本プロレス史上最長の試合時間の結果、アントニオさんが勝ちました。


●馳浩とタイガージェットシン

あと1991年に行われた馳浩 vs タイガージェットシンの巌流島の戦い!

武蔵を意識してからか、なかなかテントから出てこないジェットシンも面白かったです。

そんなこんなで、吉川英治さんが創作した遅刻作戦は、現代でもエンターテイメント性抜群です!


実は私、大のプロレス好き。

これは高校生のときの私です。
三沢さんと小橋さんの間に挟まれてガッチガチに固まってます。

これ、本物の三冠ベルトですよ!(自慢)
ヤバない???

って、どうでもいい話でスミマセン!

追伸
マサ斉藤さんのご冥福をお祈りいたします。


いやはや、素敵な島でした。

御朱印情報


●御朱印の種類
・船島神社の御朱印

●御朱印の受付場所
・彦島八幡宮(社務所)

●御朱印の受付時間
・8:00~17:00

●御朱印の料金
・500円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし


・2012年7月15日 参拝
・2022年3月 更新

参拝情報とアクセス


●船島神社の開門時間
・定期船の運行時間内

●船島神社の拝観料
・無料

●船島神社(巌流島)の最寄りの駅
・JR下関駅から唐戸ターミナル桟橋へ
 車で10分
 徒歩30分

●船島神社(巌流島)の最寄りのバス停
・JR下関駅から唐戸ターミナル桟橋へ
 唐戸 バス停で下車

●船島神社(巌流島)の最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから唐戸ターミナル桟橋へ
 車で10分

●駐車場(唐戸桟橋)
・唐戸市場・海響館・カモンワーフ前の有料駐車場を利用

●駐車場(門司港桟橋)
・海峡ドラマシップ・海峡プラザ付近の有料駐車場を利用

※唐戸桟橋・門司港桟橋ともに専用の駐車場はありません。


●巌流島連絡船

巌流島へのアクセスは2パターンあります。

唐戸桟橋(本州)から巌流島へ
門司港桟橋(九州)から巌流島へ

唐戸発・門司港発ともに料金は大人900円・小人450円(往復)です。

乗船時間は約10分。

門司港発より唐戸発の方が圧倒的に便数が多いです。

※新型コロナウィルス感染症の影響により便数が減っています。
平日は全面運航休止になってたりしますので、公式ホームページでご確認お願いします。

巌流島連絡船の公式ホームページはこちら
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船島神社(巌流島)の地図

 

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