所在地 | 山口県下関市彦島迫町5丁目12−9 |
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祭 神 | 仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇 |
由 緒 | 1159年、彦島開拓の祖・河野通次が自ら祭主となり、宇佐神宮より御分霊を勧請したのが始まりといいます。この神社は灘八幡と呼ばれ、造船・漁業関係者からの崇敬が厚く、沖合を通過する船は必ず帆を半分下ろして札をしたといわれています。また安産の神としても知られ、別名・子安八幡と崇められているそうです。 |
HP | 彦島八幡宮 |
Contents
彦島八幡宮とは?
●境内入口彦島の総鎮守であります彦島八幡宮に到着。
本州最南西端にある彦島は、かつて関門海峡に浮かぶ島だったそうですが、1937年に埋め立てられ、現在は本州とほぼ陸続きになっています。
彦島といえばフグで有名な南風泊市場があるのでのどかな漁業町というイメージがありましたが、三菱造船や三井化学などの大きな工場が多かったので工業地帯といった印象を受けたひと時でした。
そんなことより、地元の方は彦島のことをヒコットランドと呼んでいるそうです。
冗談かなぁ〜と思って、山口出身の会社の同僚に聞いてみたら本当だった(笑)
そんなこんなで、参拝開始。
●鳥居
●鳥居
・1940年建立
・明神鳥居
まず最初に登場するのは大きな鳥居。
彦島の総鎮守というだけあって抜群の風格でした。
どうやらこの鳥居は紀元二千六百年の記念行事として建立されたもののようです。
ちなみに紀元二千六百年は西暦1940年です。
引島(彦島)といえば日本書紀に記載される島なので、古代から伝わる神社なのかなぁ〜と勝手に思っていましたが、神社の由緒によると創建は鎌倉時代だという。
●彦島八幡宮とは?
1156年、保元の乱に敗れた河野通次さんが彦島を訪れたそうです。
そして1157年に海中を照らす光り輝くものを発見したといいます。
そんなこんなで、通次さんは光る物体を引き揚げてみることに。
するとそれは八幡尊像と刻まれた鏡だったという。
その縁で、通次さんは自ら祭主となり、宇佐神宮(大分)から八幡神を勧請して祭祀したといわれています。
それがこの神社の始まりといいます。
ちなみに河野通次さんは、伊予水軍の祖であり越智高縄城主・河野通清さんの末裔といわれています。
また通次さんは彦島を開拓した人ともいわれています。
この神社は灘八幡と呼ばれ、造船・漁業関係者からの崇敬が厚く、沖合を通過する船は必ず帆を半分下ろして札をしたといわれています。
また、安産の神として別名・子安八幡と崇められているそうです。
その後、彦島十二苗祖と呼ばれる植田治郎・岡野将監・百合野民部・和田義信・登根金吾・富田刑部が彦島に定住したそうです。
1160年、通次さんは甲胄を着て弓を取り、郎党と家人に榊を持たせ武運長久と一族の繁栄を祈ったといいます。
そして大いに舞い踊り『我等が守り本尊 サァ揚らせ給う』と大声で唱えたそうです。
それが例大祭・サイ上リ神事の始まりといわれています。
ちなみにサイ上リ神事は下関市の無形民俗文化財に指定されています。
その後、1350年に八幡大神の神託により現在地へ遷座。
それが現在の彦島八幡宮といわれています。
1958年、境内から縄文時代の土器・石器・住居跡など約3000点が出土したという。
そのため、境内一帯は宮の原遺跡と呼ばれています。
1156年、保元の乱に敗れた河野通次さんが彦島を訪れたそうです。
そして1157年に海中を照らす光り輝くものを発見したといいます。
そんなこんなで、通次さんは光る物体を引き揚げてみることに。
するとそれは八幡尊像と刻まれた鏡だったという。
その縁で、通次さんは自ら祭主となり、宇佐神宮(大分)から八幡神を勧請して祭祀したといわれています。
それがこの神社の始まりといいます。
ちなみに河野通次さんは、伊予水軍の祖であり越智高縄城主・河野通清さんの末裔といわれています。
また通次さんは彦島を開拓した人ともいわれています。
この神社は灘八幡と呼ばれ、造船・漁業関係者からの崇敬が厚く、沖合を通過する船は必ず帆を半分下ろして札をしたといわれています。
また、安産の神として別名・子安八幡と崇められているそうです。
その後、彦島十二苗祖と呼ばれる植田治郎・岡野将監・百合野民部・和田義信・登根金吾・富田刑部が彦島に定住したそうです。
1160年、通次さんは甲胄を着て弓を取り、郎党と家人に榊を持たせ武運長久と一族の繁栄を祈ったといいます。
そして大いに舞い踊り『我等が守り本尊 サァ揚らせ給う』と大声で唱えたそうです。
それが例大祭・サイ上リ神事の始まりといわれています。
ちなみにサイ上リ神事は下関市の無形民俗文化財に指定されています。
その後、1350年に八幡大神の神託により現在地へ遷座。
それが現在の彦島八幡宮といわれています。
1958年、境内から縄文時代の土器・石器・住居跡など約3000点が出土したという。
そのため、境内一帯は宮の原遺跡と呼ばれています。
楼門と花手水と狛犬
●楼門(随身門)
●楼門(随身門)
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造 楼門造
そんなこんなで、鳥居をくぐって参道を抜けるとスリムな楼門が登場。
門の両サイドには随身像が祀られていましたので、こちらの門は随身門となります。
●手水鉢(花手水)
●手水鉢
・1923年奉納
随身門の前には素敵な花手水がありました。
どうやらこの手水鉢は、1923年に県社に昇格したことを記念して奉納されたもののようです。
鉢いっぱいにお花が敷き詰められていて、まるでお花畑のようですね。
オジサンの中に潜む乙女心がクチュクチュと刺激されたひと時でしたよ。
●神水
ちなみに手水舎の後ろには神水もありました。
●狛犬
●狛犬
・1923年奉納
続いて、狛犬ちゃんにご挨拶。
前歯がネズミみたいで可愛かったけど、猛獣のような牙があるので見た目以上に獰猛な犬種かも知れません!
そんなことより、先ほどの手水鉢同様、この狛犬ちゃんも1923年の奉納でしたので、もしかしたらこちらも県社昇格を記念して奉納されたものかも知れませんね。
●楼門(随身門)
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造 楼門造
そんなこんなで、鳥居をくぐって参道を抜けるとスリムな楼門が登場。
門の両サイドには随身像が祀られていましたので、こちらの門は随身門となります。
●手水鉢(花手水)
●手水鉢
・1923年奉納
随身門の前には素敵な花手水がありました。
どうやらこの手水鉢は、1923年に県社に昇格したことを記念して奉納されたもののようです。
鉢いっぱいにお花が敷き詰められていて、まるでお花畑のようですね。
オジサンの中に潜む乙女心がクチュクチュと刺激されたひと時でしたよ。
●神水
ちなみに手水舎の後ろには神水もありました。
●狛犬
●狛犬
・1923年奉納
続いて、狛犬ちゃんにご挨拶。
前歯がネズミみたいで可愛かったけど、猛獣のような牙があるので見た目以上に獰猛な犬種かも知れません!
そんなことより、先ほどの手水鉢同様、この狛犬ちゃんも1923年の奉納でしたので、もしかしたらこちらも県社昇格を記念して奉納されたものかも知れませんね。
拝殿と本殿
●拝殿
●拝殿
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
拝殿には光格殿と書かれた扁額が掲げられていました。
どうやらこの拝殿は光格殿という異名を持つ社殿のようです。
社殿の建立年を確認することはできませんでしたが、境内に御神殿の移動と幣殿・社務所の増改築を記念した石碑がありましたので、おそらく現在の社殿は1998年に移築・増改築されたものと思われます。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
八幡宮ということで御祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇。
実は彦島(引島)は日本書紀に記載されている地なのですよ!
そしてここは仲哀天皇と神功皇后が訪れた地だったりします!
何気にとんでもない神社なんですねぇ。
●拝殿
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
拝殿には光格殿と書かれた扁額が掲げられていました。
どうやらこの拝殿は光格殿という異名を持つ社殿のようです。
社殿の建立年を確認することはできませんでしたが、境内に御神殿の移動と幣殿・社務所の増改築を記念した石碑がありましたので、おそらく現在の社殿は1998年に移築・増改築されたものと思われます。
●本殿
●本殿
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
八幡宮ということで御祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇。
実は彦島(引島)は日本書紀に記載されている地なのですよ!
そしてここは仲哀天皇と神功皇后が訪れた地だったりします!
何気にとんでもない神社なんですねぇ。
仲哀天皇と引島(彦島)
●仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑
そんなこんなで、境内には仲哀天皇が引島(彦島)を訪れたことを示す仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑がありました。
●霊木弓立の松
そして、この地を訪れた仲哀天皇が弓を掛けたと伝わる松の古株もありました。
いやはや、神話浪漫ビンビンでワクワクしますねぇ。
さらに彦島にはもう1つ仲哀天皇伝説があります。
ちなみにこの地が彦島と呼ばれるようになったのは江戸時代からといわれています。
江戸時代初期、引島は豊前国の領地だったそうです。
しかし、1620年に長府藩主・毛利秀元さんと小倉城主・笠原忠政さんの協議によって、長府領であった門司と小倉領であった引島を交換したといわれいます。
その後、1861~1863年に毛利藩主が引は武事に忌むとして彦島に改称したそうです。
それが彦島の由来なんだって。
しかし彦島という名前の由来にはもう1つの説があるという!
それはなんと日本神話でお馴染みの海幸彦山幸彦神話!
海幸山幸神話といえば青島(宮崎)が有名ですが、まさか彦島にもあったとはね!
そんなこんなで、境内には仲哀天皇が引島(彦島)を訪れたことを示す仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑がありました。
●霊木弓立の松
そして、この地を訪れた仲哀天皇が弓を掛けたと伝わる松の古株もありました。
いやはや、神話浪漫ビンビンでワクワクしますねぇ。
●仲哀天皇と彦島八幡宮
第14代天皇・仲哀天皇が即位したころ、九州には朝廷に反逆する熊襲(くまそ)と呼ばれる豪族がいました。
そこで仲哀天皇は熊襲を征討するため、穴門(長門)の豊浦津に向かいました。
そしてその地に穴門豊浦宮を建てて住まわれました。
それが現在の忌宮神社(下関市長府)といわれています。
そんなこんなで、仲哀天皇と神功皇后は穴門豊浦宮を拠点にして関門海峡を船で行き来しながら九州の熊襲を攻めました。
その途中、遠賀地方(現・北九州市)を支配していた熊鰐(くまわに)が、仲哀天皇が熊襲征伐のため九州にお越しになること聞き、船に鏡・剣・玉を飾って水先案内をしました。
そして仲哀天皇が乗った船を穴門引島(長門国彦島)にお迎えして八尺瓊・白銅鏡・十握剣を奉じて服従しました。
その他が、ここ彦島八幡宮といわれています。
ちなみに、古代日本では鏡・剣・玉という三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、一般支配者の象徴だったと考えられています。
その後、仲哀天皇は橿日宮(現・香椎宮)に宮を移して熊襲討伐をすることに。
その際、神功皇后は神を降ろして占いをしました。
すると神功皇后に神が降りてきて『貧しい熊襲の地なんかより、金銀財宝に満ちた新羅を征討しなさい。そして、我ら住吉三神を祀れば新羅も熊襲もひれ伏すよ』という神託を得ました。
しかし仲哀天皇はその神託を信じませんでした。
そのことにより神の怒りに触れた仲哀天皇は呪い殺されたのでありました。
第14代天皇・仲哀天皇が即位したころ、九州には朝廷に反逆する熊襲(くまそ)と呼ばれる豪族がいました。
そこで仲哀天皇は熊襲を征討するため、穴門(長門)の豊浦津に向かいました。
そしてその地に穴門豊浦宮を建てて住まわれました。
それが現在の忌宮神社(下関市長府)といわれています。
そんなこんなで、仲哀天皇と神功皇后は穴門豊浦宮を拠点にして関門海峡を船で行き来しながら九州の熊襲を攻めました。
その途中、遠賀地方(現・北九州市)を支配していた熊鰐(くまわに)が、仲哀天皇が熊襲征伐のため九州にお越しになること聞き、船に鏡・剣・玉を飾って水先案内をしました。
そして仲哀天皇が乗った船を穴門引島(長門国彦島)にお迎えして八尺瓊・白銅鏡・十握剣を奉じて服従しました。
その他が、ここ彦島八幡宮といわれています。
ちなみに、古代日本では鏡・剣・玉という三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、一般支配者の象徴だったと考えられています。
その後、仲哀天皇は橿日宮(現・香椎宮)に宮を移して熊襲討伐をすることに。
その際、神功皇后は神を降ろして占いをしました。
すると神功皇后に神が降りてきて『貧しい熊襲の地なんかより、金銀財宝に満ちた新羅を征討しなさい。そして、我ら住吉三神を祀れば新羅も熊襲もひれ伏すよ』という神託を得ました。
しかし仲哀天皇はその神託を信じませんでした。
そのことにより神の怒りに触れた仲哀天皇は呪い殺されたのでありました。
さらに彦島にはもう1つ仲哀天皇伝説があります。
●仲哀天皇と引島(彦島)
~画像は火の山公園からの景色~
熊襲征伐のため、仲哀天皇と神功皇后が穴門豊浦宮を拠点にして関門海峡を船で行き来していたときのお話。
当時、下関と門司は陸続きだったという。
ある日、仲哀天皇が乗った船が穴戸(長門)にさしかかった際、下関と門司の間の山が突然海に落ちたという!
そしてその山は激しい急流に押し流されて島になったという。
その様子が、山が引き裂かれた様に見えたのでこの地は引島と名付けられたんだって。
日本書紀にもこの地は引島と記されています。
~画像は火の山公園からの景色~
熊襲征伐のため、仲哀天皇と神功皇后が穴門豊浦宮を拠点にして関門海峡を船で行き来していたときのお話。
当時、下関と門司は陸続きだったという。
ある日、仲哀天皇が乗った船が穴戸(長門)にさしかかった際、下関と門司の間の山が突然海に落ちたという!
そしてその山は激しい急流に押し流されて島になったという。
その様子が、山が引き裂かれた様に見えたのでこの地は引島と名付けられたんだって。
日本書紀にもこの地は引島と記されています。
ちなみにこの地が彦島と呼ばれるようになったのは江戸時代からといわれています。
江戸時代初期、引島は豊前国の領地だったそうです。
しかし、1620年に長府藩主・毛利秀元さんと小倉城主・笠原忠政さんの協議によって、長府領であった門司と小倉領であった引島を交換したといわれいます。
その後、1861~1863年に毛利藩主が引は武事に忌むとして彦島に改称したそうです。
それが彦島の由来なんだって。
しかし彦島という名前の由来にはもう1つの説があるという!
それはなんと日本神話でお馴染みの海幸彦山幸彦神話!
●彦島の海幸彦山幸彦神話
山幸彦が海幸彦の大切な釣り針を海で失くしてしまった際、山幸彦は針を探すために海士(あま)になって竜宮に向かったという。
なんと山幸彦が海士になったところが彦島の海士郷といわれ、さらに山幸彦(ヒコホホデミ)ゆかりの島ということで彦島と呼ばれるようになったんだって!
山幸彦が海幸彦の大切な釣り針を海で失くしてしまった際、山幸彦は針を探すために海士(あま)になって竜宮に向かったという。
なんと山幸彦が海士になったところが彦島の海士郷といわれ、さらに山幸彦(ヒコホホデミ)ゆかりの島ということで彦島と呼ばれるようになったんだって!
海幸山幸神話といえば青島(宮崎)が有名ですが、まさか彦島にもあったとはね!
ペトログラフ(ペトログリフ)
そんなこんなで参拝後、境内を散策していたらこんなものを発見しました。
ぺぺぺペトログラフ!?
●ペトログラフ(ペトログリフ)とは?
なんと、ペトログラフは古代人が刻んだ原初文字で、文字の誕生を探る手掛かりの1つとされる謎めいた石なんだって。
ペトログラフは世界中にあるらしく、日本にもたくさん発見されているそうです!(知らなかった)
ちなみに岩に刻まれた彫刻のことをペトログリフ(Petroglyph)。
岩に描かれた絵画のことをペトログラフ (Petrograph)というそうです。
日本では混同されることが多いそうですが、グリフとグラフは違うものらしい。
●ペトロ
ペテロ(petero)とはギリシャ語で岩を意味するそうです。
●グラフ
グラフ(graph)は文様や文字を意味するそうです。
ということでペトログラフとは、岩石に刻んだ文字や文様のことのようです。
ペテロ(petero)とはギリシャ語で岩を意味するそうです。
●グラフ
グラフ(graph)は文様や文字を意味するそうです。
ということでペトログラフとは、岩石に刻んだ文字や文様のことのようです。
なんと、ペトログラフは古代人が刻んだ原初文字で、文字の誕生を探る手掛かりの1つとされる謎めいた石なんだって。
ペトログラフは世界中にあるらしく、日本にもたくさん発見されているそうです!(知らなかった)
ちなみに岩に刻まれた彫刻のことをペトログリフ(Petroglyph)。
岩に描かれた絵画のことをペトログラフ (Petrograph)というそうです。
日本では混同されることが多いそうですが、グリフとグラフは違うものらしい。
ちなみに看板にはペトログラフと書かれていますが、岩に刻まれた彫刻でしたので、厳密にいえばペトログリフ。
リとラの1文字違いなので、いっそペトログリフと書けばややこしくなくて済むのではないのかぃ?・・・とか思ってみました!m(_ _)m
が、このページではペトログラフで書き進めていくことにします。
●杉田丘陵のペトログラフ
1924年、彦島にある杉田丘陵というところで30個のペトログラフが検出されたそうです。
そのペトログラフはシュメール文字やエニセイ系の文字が入り混じったもので、紀元前2000年〜紀元300年頃までの幅広い年代のもののようです。
もしかして、これは古代にシュメール文字を使っていた集団が何らかの形で彦島に上陸して祭祀を行っていた神殿なのでは?とか、浪漫溢れる推測する人もいるそうです。
ちなみに杉田丘陵のペトログラフは、恐れの杜やたたり岩と呼ばれているそうです ((((;゚Д゚)))))))
かと思えば、こっそりと願い事をすると願いが叶う岩ともいわれているそうです。
恐い石なのか良い石なのか、どっちだ?
吉か凶か1/2の運ゲーだな(-“-;) ??
ちなみに杉田丘陵のペトログラフは、彦島杉田岩刻画として下関市指定文化財になっています。
1924年、彦島にある杉田丘陵というところで30個のペトログラフが検出されたそうです。
そのペトログラフはシュメール文字やエニセイ系の文字が入り混じったもので、紀元前2000年〜紀元300年頃までの幅広い年代のもののようです。
もしかして、これは古代にシュメール文字を使っていた集団が何らかの形で彦島に上陸して祭祀を行っていた神殿なのでは?とか、浪漫溢れる推測する人もいるそうです。
ちなみに杉田丘陵のペトログラフは、恐れの杜やたたり岩と呼ばれているそうです ((((;゚Д゚)))))))
かと思えば、こっそりと願い事をすると願いが叶う岩ともいわれているそうです。
恐い石なのか良い石なのか、どっちだ?
吉か凶か1/2の運ゲーだな(-“-;) ??
ちなみに杉田丘陵のペトログラフは、彦島杉田岩刻画として下関市指定文化財になっています。
とまぁ、彦島からはたくさんのペトログラフが発見されているわけなのですが、発見地は陸上だけではなく海中からも多数発見されているそうです。
そのため、彦島には海底神殿があったのではないのか?という噂もあるんだって。
もぅ、月刊ムーみたいでワクワクが止まんないよ!
壇ノ浦の戦いで、二位尼が『海の底にも都があります』と言ったのは、もしかして海底神殿のことだったのか???
もしかしたら、この彦島八幡宮は海底神殿の遥拝所なのではないのか???
などなど、勝手にひとり月刊ムーをして楽しんでいたひと時。
ちなみに彦島八幡宮のペトログラフはもともとは違う場所にあったものなんだって。
それを1982年に現在地に移設したそうです。
あと帰宅後に知ったのですが、ペトログラフの隣にある岩は泳ぐ岩と呼ばれています。
おおお、泳ぐ岩!?!?
●泳ぐ岩とは?
その昔、三菱重工業・下関造船所のドックと巌流島の間を泳ぐ岩があったそうです。
その岩はいつも泳いで移動していたという。
ある日、造船所の方が『進水式のたびにその岩が動いて邪魔をする』と相談があったそうです。
そんなこんなで、祟りのないように引き上げ、1982年に彦島八幡宮の境内に安置されたといいます。
その昔、三菱重工業・下関造船所のドックと巌流島の間を泳ぐ岩があったそうです。
その岩はいつも泳いで移動していたという。
ある日、造船所の方が『進水式のたびにその岩が動いて邪魔をする』と相談があったそうです。
そんなこんなで、祟りのないように引き上げ、1982年に彦島八幡宮の境内に安置されたといいます。
さらにもう1つ、彦島八幡宮には不思議な庭石があるという。
●不思議な庭石とは?
その昔、三菱重工業・下関造船所前の道路工事をしていた際、10個の大岩が出てきたという。
そんなこんなで、山陽小野田市に住む方がその岩を庭石用に貰い受けて自宅に運んだそうです。
しかしそれ以降、不幸な出来事が次々と起こったという。
『もしかしたら、あの岩に何かあるのでは?』と調べてみると、なんとペトログラフが検出されたという!
そんなこんなで、その岩は彦島八幡宮の泳ぐ岩の傍らに安置されたんだって。
その昔、三菱重工業・下関造船所前の道路工事をしていた際、10個の大岩が出てきたという。
そんなこんなで、山陽小野田市に住む方がその岩を庭石用に貰い受けて自宅に運んだそうです。
しかしそれ以降、不幸な出来事が次々と起こったという。
『もしかしたら、あの岩に何かあるのでは?』と調べてみると、なんとペトログラフが検出されたという!
そんなこんなで、その岩は彦島八幡宮の泳ぐ岩の傍らに安置されたんだって。
泳ぐ岩も不思議な庭石も三菱重工業・下関造船所に関係するもの。
もしかしたら、この2つの石はもともと同じ場所にあって、何らかの理由で離れ離れに。
そして、相方を探すために泳ぐ岩は海をさまよっていたのかも知れない・・・
と、またまた勝手にひとり月刊ムーをしてみました。
浪漫が止まりませんわ!
境内社と兼務社など(13社のご朱印巡り)
●大歳神社(境内社)
●大歳神社
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 大年神
御年神
若年神
ペトログラフの近くには境内社の大歳神社が鎮座していました。
御祭神は五穀豊穣の神様であります大年神・御年神・若年神。
●大歳神社の狛犬
・1877年奉納
大歳神社の前には小ぶりな狛犬ちゃんがおられました。
どことなくカエル顔で可愛い狛犬ちゃんでしたよ。
その他、大歳神社の本殿には陶器製の狛犬ちゃんもおられました。
●若宮神社(境内社)
●若宮神社
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 仁徳天皇
続いて、若宮神社を参拝。
八幡神の若宮ということで、御祭神は仁徳天皇。
仁徳天皇は、応神天皇の子です。
つまり、仲哀天皇・神功皇后の孫となります。
どうやらこの神社では、農耕・生産・雨乞いの神さまとしてお祀りされているみたいです。
●水神社(境内社)
●水神社
・建立年不明
・石造 破風付き流造
・御祭神 彌都波能賣神
天之水分神
国之水分神
続いて、水神社を参拝。
その名の通り、水神社には水を司る神さまがお祀りされていました。
●貴布祢神社と恵比須神社
~画像はWikipedia 彦島より~
●貴布祢神社の御祭神(写真左)
・高龗神
●恵比須神社(写真右)
・事代主神
●田の首八幡宮と竹ノ子島金刀比羅神社
~画像はWikipedia 彦島より~
●田の首八幡宮の御祭神(写真左)
・仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
●竹ノ子島金刀比羅神社(写真右)
・大物主神・金山毘古神・菅原道真
その他、彦島には船島神社・貴布祢稲荷神社・竹ノ子島天満宮・福浦金刀比羅宮・福浦稲荷神社・塩釜神社・田の首八幡宮・六連島八幡宮が鎮座しているそうです。
彦島八幡宮の授与所では、これら彦島に鎮座する13社を巡る彦島神社巡りの御朱印を頂くことができます。
いやはや、素敵な神社でした。
●大歳神社
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 大年神
御年神
若年神
ペトログラフの近くには境内社の大歳神社が鎮座していました。
御祭神は五穀豊穣の神様であります大年神・御年神・若年神。
●大歳神社の狛犬
・1877年奉納
大歳神社の前には小ぶりな狛犬ちゃんがおられました。
どことなくカエル顔で可愛い狛犬ちゃんでしたよ。
その他、大歳神社の本殿には陶器製の狛犬ちゃんもおられました。
●若宮神社(境内社)
●若宮神社
・建立年不明
・銅板葺 一間社流造
・御祭神 仁徳天皇
続いて、若宮神社を参拝。
八幡神の若宮ということで、御祭神は仁徳天皇。
仁徳天皇は、応神天皇の子です。
つまり、仲哀天皇・神功皇后の孫となります。
どうやらこの神社では、農耕・生産・雨乞いの神さまとしてお祀りされているみたいです。
●水神社(境内社)
●水神社
・建立年不明
・石造 破風付き流造
・御祭神 彌都波能賣神
天之水分神
国之水分神
続いて、水神社を参拝。
その名の通り、水神社には水を司る神さまがお祀りされていました。
●貴布祢神社と恵比須神社
~画像はWikipedia 彦島より~
●貴布祢神社の御祭神(写真左)
・高龗神
●恵比須神社(写真右)
・事代主神
●田の首八幡宮と竹ノ子島金刀比羅神社
~画像はWikipedia 彦島より~
●田の首八幡宮の御祭神(写真左)
・仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
●竹ノ子島金刀比羅神社(写真右)
・大物主神・金山毘古神・菅原道真
その他、彦島には船島神社・貴布祢稲荷神社・竹ノ子島天満宮・福浦金刀比羅宮・福浦稲荷神社・塩釜神社・田の首八幡宮・六連島八幡宮が鎮座しているそうです。
彦島八幡宮の授与所では、これら彦島に鎮座する13社を巡る彦島神社巡りの御朱印を頂くことができます。
いやはや、素敵な神社でした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・彦島八幡宮の御朱印
・船島神社の御朱印(巌流島)
・彦島ペトログリフの御朱印
・貴布祢神社の御朱印
・貴布祢稲荷神社の御朱印
・恵美須神社の御朱印
・竹ノ子島金刀比羅宮の御朱印
・竹ノ子島天満宮の御朱印
・福浦金刀比羅宮の御朱印
・福浦稲荷神社の御朱印
・塩釜神社の御朱印
・田の首八幡宮の御朱印
・六連島八幡宮の御朱印
●御朱印の受付場所
・授与所
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・彦島八幡宮と船島神社の御朱印は500円
・それ以外は300円
●期間限定・特別御朱印
●期間限定・特別御朱印
・正月の御朱印
・初詣の御朱印
・立春大吉の御朱印
・節分の御朱印
・夏詣の御朱印
・夏詣 花手水の御朱印
・夏詣 天地悠久の御朱印
・夏越 蘇民将来の御朱印
・水無月の御朱印
・秋分の御朱印
・サイ上り神事の御朱印
・紀元祭・天長祭の御朱印(天長地久)
・明治祭の御朱印
・浄明正直 喜色満面の御朱印
・重陽の節句の御朱印
・六角特別印の御朱印
・ミニ御朱印
などなど。
●オリジナル御朱印帳
●デザイン
・表紙 → 楼門
・裏表紙 → サイ上り神事
●色
・黒とピンク
●サイズ
・16cm × 11cm
●初穂料
・2000円
・2016年8月11日 参拝
・2022年3月15日 再訪
・2022年4月 更新
船島神社(巌流島)の御朱印|宮本武蔵 vs 佐々木小次郎の巌流島に鎮座|御朱印は彦島八幡宮で|(山口県下関市)
所在地山口県下関市大字彦島字船島648番地祭 神地神大神・龍神大神由 緒創建年不詳。船島(巌流島)の守護神といわれています。2003年に彦島八幡宮が祭禮を復活させ、現在に至ります。HPしものせき...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・参拝自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩50分
・JR下関駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
東圧正門前 バス停で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で15分
●駐車場
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
・参拝自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩50分
・JR下関駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
東圧正門前 バス停で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で15分
●駐車場
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
彦島八幡宮の地図
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