吉香神社の御朱印|岩国領主・吉川氏の歴代祖霊を祀る|国重文の社殿に感動(山口県岩国市)

所在地山口県岩国市横山2-8−5
祭 神 吉川経義・吉川友兼・吉川経基
吉川興経・吉川元春・吉川元長
吉川広家・吉川広嘉・吉川経幹
由 緒 1573年、安芸国山県郡新庄村(現・広島県山県郡大朝町)の竜山八幡宮に、吉川興経の霊社として治功社を創建したのが始まり。その後、岩国・椎尾八幡宮の境内に遷座。そして1728年に岩国・白山比咩神社の境内に遷され、現社殿を造営。その後、1793年に白山比咩神社の境内に吉川経義を祀る高秀社、吉川広家を祀る鎮昭社を創建。そして1872年に治功社・高秀社・鎮昭社が統合されました。つまりこの3社が吉香神社の前身となります。その後、1885年に旧城跡である現在地に社殿を移築。それが現在の吉香神社です。
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鳥居①・石橋・狛犬①②

●錦帯橋

本日は山口県岩国市を旅しています。


●境内入口

そんなこんなで、岩国の人気観光スポット・吉香公園内に鎮座する吉香神社に到着。

吉香神社と書いてきっこうじんじゃと読みます。

この神社は江戸時代に岩国を治めていた吉川氏の歴代祖霊を祀る神社のようです。


境内入口の石畳が亀甲柄になっていました。

吉香(きっこう)と亀甲(きっこう)・・・

これは狙ったものなのか、ただの偶然なのか。

そんなどうでもいいことを気にしつつ、参拝開始。


●石橋

まず最初に登場するのは大きな堀に架かる石橋

まるでお城のような神社だなぁ〜と思ったら、やはり!

なんとこの神社は岩国領主・吉川氏の居館跡に鎮座しているという!


調べてみると、1885年に岩国領主・吉川氏の歴代祖霊を祀る吉香神社を現在地に移築

それに合わせて神社の境内ならびに付属地が庭園として整備されたのが吉香公園の始まりなんだとか。

つまり吉香公園は吉香神社から始まった公園ということなんだね。


●鳥居①

●鳥居①
・1906年建立
・明神鳥居

そんなこんなで石橋を渡ると鳥居①が登場。

この神社は、1573年に安芸国山県郡新庄村(現・広島県山県郡大朝町)の竜山八幡宮に吉川興経の霊社として治功社を創建したのが始まり。

その後、岩国・椎尾八幡宮の境内に遷座。

そして1728年に岩国・白山比咩神社の境内に遷座し、現社殿を造営。

その後、1793年に白山比咩神社の境内に吉川経義を祀る高秀社、吉川広家を祀る鎮昭社を創建。

そして1872年に治功社・高秀社・鎮昭社の3社が統合されたんだとか。

つまりこの3社が吉香神社の前身となるわけだ。

その後、1885年に社殿を旧城跡(館跡)から現在地へ移築

それが現在の吉香神社なんだって。

移転、移転、移転を繰り返して現在に至る神社なんだね。


鳥居の柱には明治39年5月吉日 日露戦役大勝紀念と刻まれていました。

日露戦争の終戦は1905年9月。

そんなこんなで、この鳥居は終戦から約1年半後に建立されたもののようです。

確かに日本は勝ちましたが、あの戦争は大勝と言っていいものなのか・・・(-“-;) ??


●狛犬①②

●狛犬①②
・1913年建立
・広島玉乗り型(尾道型)

そんなこんなで、鳥居①をくぐると広島玉乗り型(尾道型)の狛犬ちゃんが登場。

広島玉乗り型(尾道型)は、明治時代に一大ブームとなった狛犬で、北九州から瀬戸内海沿岸にかけてめちゃくちゃ多く分布しています。

それにしても大きな狛犬ちゃんでした。


台座には岩國町 八百屋と刻まれていました。

そんなこんなで、岩国町の八百屋さんが寄進した狛犬のようですね。

ちなみに岩國町とは岩国市の旧名とのことです。
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参道・手水舎・狛犬③④など

●参道

参道脇にはほしで茶屋という時代劇に出てきそうな茶屋がありました。


そして田中穂積というお方の胸像もありました。

説明板によると、田中穂積さんは岩国出身の作曲家のようです。

●田中穂積さんの略記
・1855年、岩国藩士・田中判右衛門の次男として誕生。

・1867年、岩国藩日新隊に入隊。

・1873年、海軍軍楽隊に配属。

・1899年、海軍軍楽長として佐世保鎮守府に赴任。

・1904年、長崎県佐世保市で死去。


ちなみに銅像では、田中穂積さんの代表作・美しき天然のメロディが流れていました。

恥ずかしながら、田中穂積さんも美しき天然も知らない私です。


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

続いて、手水舎が登場。

残念ながら手水舎には水がありませんでした。


●手水鉢
・1885年奉納

手水鉢には吉川家の家紋・輪九曜下がり藤三つ引両の紋がありました。

調べてみると、どちらも吉川家の家紋のようです。

ちなみにこの手水鉢は1885年に寄進されたもののようです。

1885年といえば、白山比咩神社から社殿を移築した年!

そんなこんなで、社殿の移築に合わせて寄進された手水鉢のようですね。


●青銅製灯籠

●青銅製灯籠
・1988年建立

続いて、青銅製の灯籠が登場。

こちらは、吉香神社の社殿が山口県有形文化財に指定されたことを記念して建立された灯籠のようです。

この神社は1988年に山口県の指定有形文化財に指定。

その後、2004年には国の重要文化財に指定されています。

ちなみに寄進者は吉香神社の宮司さんと、吉香神社奉賛会の方々でした。


その他、参道脇には石灯籠が立ち並んでいました。

建立年や様式はバラバラですが、中には1885年に建立された石灯籠がありました。

手水鉢同様、社殿の移築に合わせて寄進された石灯籠のようですね。


●狛犬③④

●狛犬③④
・1898年奉納
・江戸獅子

続いて、狛犬ちゃん③④にご挨拶。

ゴツゴツした岩座とホリの深いお顔・・・

これは江戸獅子!


まさか岩国で江戸獅子に出会えるとはねっ!

中国地方で江戸獅子に出会ったのは初めてだったので、少々興奮しております。


台座には東京𦾔恩會と書かれていました。

多分ですけど、東京の方々が寄進した狛犬なのかな?

どうでもいい話しですが、𦾔という漢字の読み方がわからなくて、漢字変換するのにかなり長い時間を費やしてしまいました。

𦾔と書いてキュウと読むみたい。

意味は、古いとか昔のとか以前のとかなんだって。

これでまた1つ偉くなった。

こんな漢字、一生使うことないと思うけど!
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鳥居②・神門

●鳥居②

●鳥居②
・1728年建立
・明神鳥居
・国指定重要文化財

続いて、鳥居②が登場。

なんと建立年は1728年!

多分ですけど、吉香神社最古の石造物だと思われます。

というか、この神社が現在地へ移築されたのは1885年・・・

しかし、この鳥居の建立年は1728年・・・

ということで、もともとこの鳥居は別の場所にあったものと思われます。


今一度、由緒をおさらいしてみよう。

1573年に安芸国山県郡新庄村(現・広島県山県郡大朝町)の竜山八幡宮に吉川興経の霊社として治功社を創建したのが始まり。

その後、岩国・椎尾八幡宮の境内に遷座。

そして1728年に岩国・白山比咩神社の境内に遷され、現社殿を造営。

あっ!

そんなこんなで、もともとこの鳥居は白山比咩神社にあったものと思われます!

ということで、旧鎮座地の鳥居を移築したものなんですね!(多分)


●神門

●神門
・1728年建立
・1885年移築
・檜皮葺 切妻造 四脚門
・国指定重要文化財

そんなこんなで鳥居②をくぐると、素敵な神門が登場!

なんとこちら、1728年建立の国重文!

鳥居同様、旧鎮座地の白山比咩神社から移築された門なんだって。


現在地に神門が移築されたのは1885年

白山比咩神社は1890年に社殿を焼失していますので、あと少し移築が遅れていれば吉香神社の社殿も焼失していたかも知れません!

そう思うだけでゾクゾクしちゃいます。


ちなみに神門にも吉川家の家紋・下がり藤三つ引両を確認することができました。


あと礎盤が石製ではなく木製なのが面白いなぁ〜と思いました。

白山比咩神社の御朱印|吉香公園内に鎮座する岩国領主・吉川氏の産土神(山口県岩国市)
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拝殿・本殿

●拝殿

●拝殿
・1728年建立
・1885年移築
・檜皮葺 入母屋造
・国指定重要文化財

そんなこんなで、神門をくぐるとこれまた素敵な拝殿が登場。

鳥居・神門同様、この拝殿も旧鎮座地の白山比咩神社から移築されたものなんだって。


というか、スゴいのよ、屋根が!

正面から見ると、8個の角があるのよ!

ということは、真上から見ると16角形の屋根ということになります。

なんなのよ、この複雑構造!

説明板に岩国藩大工の高い技量がうかがえます的なことが書いてありましたが、ほんとにそう!

大工レベル高過ぎでしょ!


そんなこんなで、しばし古建築観賞。

複雑構造の屋根に感動。


動植物が刻まれた蟇股も良かった〜。


●天水受け
・1885年奉納

拝殿前には大きな天水受けがありました。

他の石造物同様、この天水受けも社殿の移築に合わせて寄進されたもののようですね。


その他、拝殿前には古そうな舟形手水鉢井戸もありました。


●本殿

●本殿
・1728年建立
・1885年移築
・檜皮葺 三間社流造
・国指定重要文化財

本殿は千鳥破風と軒唐破風付きの三間社流造

鳥居・神門・拝殿同様、この本殿も旧鎮座地の白山比咩神社から移築されたものなんだって。


ご覧の通り、本殿も匠の技が炸裂しておりました。

塀越しに拝見する形になりますので、じっくりと観察することはできませんでしたが、遠目から見ても素晴らしさが伝わるお社となっておりました。

拝殿同様、岩国の大工レベル高し!


●御祭神
・吉川経義・吉川友兼・吉川経基
・吉川興経・吉川元春・吉川元長
・吉川広家・吉川広嘉・吉川経幹

御祭神は吉川氏の歴代祖霊

吉川氏は藤原南家の流れをくみ、平安時代末期に駿河国(現・静岡県)の吉川(吉河)を本貫としたのが始まりの氏族です。

鎌倉時代に安芸国(現・広島県)大朝本荘の地頭職を与えられ、鎌倉時代末期に土着

戦国時代に安芸国の戦国大名・毛利元就の次男・元春が吉川家へ養子に入り、小早川氏とともに毛利家を支え毛利両川と称されました。

江戸時代には周防国・岩国領(後に藩)の主家として続き、明治維新を迎えました。

●御祭神
・初代当主 吉川経義
吉川氏の祖(1132〜1193年)

・2代当主 吉川友兼
富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応に当たったお方。
(1159〜1200年)

・11代当主 吉川経基
応仁の乱などの戦で活躍し、鬼吉川と恐れられた猛将。
(1428〜1520年)

・14代当主 吉川興経
藤姓吉川氏として最後の当主。
武勇に優れていたものの、戦略眼や政治力に乏しく、毛利元就により子の千法師もろとも暗殺される。
結果、藤姓吉川氏嫡流は断絶。
(1508または1518〜1550年)

・15代当主 吉川元春
安芸国の戦国大名・毛利元就の次男。
家督を乗っ取るかたちで吉川氏の養子となる。
以後、毛利元就の三男・小早川隆景とともに、毛利両川として毛利家発展の基礎を築き上げたお方。
厳島の戦いや第二次月山富田城の戦いなどで活躍した猛将。
(1530〜1586年)

・16代当主 吉川元長
吉川元春の嫡男。
豊臣秀吉の四国攻め、九州攻めに出陣したお方。
(1548〜1587年)

・岩国領初代領主 吉川広家
吉川元春の三男。
関ヶ原の戦いの際、毛利家を存続させるために徳川方と内通したお方。
関ヶ原の戦いで西軍が敗戦した後、毛利家が存続できたのはこの方のおかげ。
(1561〜1625年)

・岩国領3代領主 吉川広嘉
錦帯橋を架橋したお方。
(1621〜1679年)

・岩国藩初代藩主 吉川経幹
第一次長州征伐の際、長州と幕府との仲介役として奔走。
第二次長州征伐では、芸州口の戦いで功績を挙げ、幕府軍を撃退することに貢献したお方。
岩国領主・吉川家は、初代領主・吉川広家以来、本家の長州藩毛利家と疎遠な関係にありましたが、経幹は融和に努める。
幕末の動乱中も懸命に本家の毛利家を助けますが1867年に死去。
1868年、岩国領から岩国藩となり、江戸時代を通じて吉川氏が抱き続けた悲願を達成。
長州藩主・毛利敬親の命により経幹の死は隠されていたため、すでに死んでいた経幹が岩国藩初代藩主になるというおかしな現象が起こる。
(1829〜1867年)
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褒忠社・エンジュ・錦雲閣

●褒忠社

続いて、末社の褒忠社を参拝。

褒忠社と書いてほうちゅうしゃと読みます。


もともとは寺谷(紅葉谷)にある竜門寺の境内に節臣廟を建てて、吉川家の死節の臣を祀ったのが始まり。

そして廃藩置県後に神社に改めたのがこの褒忠社なんだって。


●褒忠社 石碑
・1865年奉納

説明板によると、この石碑は節臣廟時代のもので、1865年に藩の参政・山田青門が選んだものとのことです。


●エンジュ

●エンジュ
・樹齢 約130年
・元山口県天然記念物

吉香神社と褒忠社の間には元山口県天然記念物のエンジュの木がありました。


もともとは樹高25m、幹周3.3mの大木だったそうですが、幹の空洞化により伐採。

伐採後の調査により、樹齢は約130年ということがわかったそうです。

1885年に吉香神社が白山比咩神社から移築され、その後に周辺が公園化されていることから、このエンジュの木もその過程で植えられたものと推測されてるんだって。


●能舞台

●能舞台
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

その他、褒忠社周辺には能舞台もありました。


●錦雲閣

●錦雲閣
・1885年建立
・瓦葺 入母屋造
・二重屋根 楼閣造
・国の登録有形文化財

お堀の角には錦雲閣という絵馬殿がありました。

それにしても圧倒的な存在感!

ここだけ見たらお城のようだよ!



どうやら、もともとここには吉川氏居館の三階櫓があったそうです。

んでもって、1885年に居館跡が公園になった際、櫓の跡地にこの絵馬堂を建立したんだって。

ちなみに、絵馬殿には長州藩毛利家29代当主・毛利元昭さん直筆の額があったそうですが、現在は市立図書館に所蔵されているとのことです。


絵馬殿は休憩所のようになっていたので、しばらく景色を見ながら足を休めることに。

吉香公園は広すぎるうえ、見どころがたくさんあるので足がパンパンです。

鳥居③・御土居跡

●鳥居③

●鳥居③
・1921年建立
・明神鳥居

そんなこんなで錦雲閣で足を回復させた後、再び散策開始。

こちらは境内の西側にある鳥居です。


●御土居跡

鳥居③をくぐって境外に出ると御土居跡に到着しました。

どうやらこちらは吉川氏の居館である御土居の石垣のようです。

吉川氏の居館は岩国の政治拠点として明治時代の廃藩置県まで残っていたそうですよ。


それにしても壮大な居館ですね。

この絵を見るだけでも吉川家の繁栄っぷりがわかります。

岩国領と岩国藩

●岩国領と岩国藩

説明板などには岩国と記されることが多いですが、岩国藩となったのは明治時代からなので、厳密にいえば江戸時代を通じて岩国というのが正しいです。

なもんですから、岩国という文字を見るたびに違和感を感じてしまいます・・・と思うのは私だけ???

岩国と岩国・・・非常にややこしいですが、私なりに簡単にまとめてみました。

●岩国領と岩国藩

関ヶ原の戦いの際、岩国領初代領主・吉川広家東軍の勝利を確信していました。

しかし毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が石田三成と親しかったこともあって、本家の毛利家は西軍に加担してしまいました。
しかも、毛利家の当主・毛利輝元が名目上とはいえ西軍の総大将になってしまったという。

吉川広家は、毛利輝元を説得して東軍に加担するように働きかけるも実現できず。。

吉川広家は『西軍が負けても毛利家を残す方法』を考えた結果、広家は黒田長政を通じて東軍の総大将・徳川家康に内通

そして『西軍の総大将である毛利家の罪を問わない代わりに、合戦にも参加させない』という毛利家の所領安堵密約を取り付けました。

さらに関ヶ原の戦い前日に、吉川広家は福原・粟屋就光の身内2人を人質として送り、毛利の戦闘不参加を誓う書状を黒田長政に送りました。


そんなこんなで、関ヶ原の戦い当日。

吉川広家は西軍として南宮山に布陣するも、徳川家康と密約していたため軍勢を動かさず

総大将の毛利輝元も合戦に参加せず、大坂城で状況を静観していました。

吉川広家は徳川家康の背後をうかがえる位置にいたにもかかわらず、軍全体を戦いに参加させないことで東軍の勝利に大きく貢献したのでありました。

これで毛利家の所領は安堵・・・

と思ったら、西軍の数々の連判状に毛利輝元の花押があったことにより、輝元が西軍の行動に深く関与していたことが発覚!

徳川家康はこれを理由に毛利家の全て所領を没収!
そして毛利家の所領のうち周防・長門の2ヶ国吉川広家に与えることを決めました。

そこで吉川広家は毛利家を存続のために徳川家康に起請文を提出。

吉川広家に与えられる周防・長門の2ヶ国を毛利輝元に与えるようにと頼み込みました。

そんなこんなで、毛利家は112万石の大大名から防長二国の36万9千石大減封となりながらも、どうにか存続することができました。


その後、毛利家は萩を拠点とし、長府徳山支藩にしました。

しかし岩国の吉川領は支藩とせず、あくまでも家臣として扱うことに・・・。

毛利家を存続させるために西軍を裏切り、結果、毛利家を存続させることになったのに、岩国は支藩になれなかったという。。


しかし、徳川家康からは岩国城の築城を許され、さらに大名としての扱いを受け、さらにさらに江戸に藩邸を構え、参勤交代も行われるという、毛利氏とは真逆の高待遇を受けたのでありました。

そのため吉川氏は長州藩内で複雑な立場となってしまいました。

以後、毛利家と吉川家は幕末まで微妙な関係が続くことになりました。


時は過ぎ、江戸時代末期。

当主の吉川経幹は毛利家と吉川家の関係を改善するため積極的に動きました。

幕末の動乱中も懸命に本家の毛利家を助けますが1867年死去

しかし長州藩主・毛利敬親の命により吉川経幹の死は公表されませんでした

そして1868年、毛利敬親は自ら朝廷に願い出て、吉川家を城主格に格上げ

そのことにより岩国は正式な藩となり、吉川家は岩国藩主となりました。

岩国から岩国となり、江戸時代を通じて吉川氏が抱き続けた悲願が達成されたのでありました。

しかし1871年、廃藩置県により岩国藩は廃止され岩国県となりました。

岩国藩はわずか3年で消滅してしまったのでありました。

ちなみに吉川経幹の死が発表されたのは1869年5月。

そのため、すでに死んでいる吉川経幹が岩国藩初代藩主になるという異例の出来事となりました。

それにしてもなぜ毛利敬親さんは吉川経幹さんの死を隠していたのでしょうねぇ・・・(-“-;) ??

もしかしたら吉川家が城主格に認められるという名誉を吉川経幹さんに与えたい・・・と、毛利敬親さんは想っていたのかも知れませんね。


そんなこんなで、参拝終了。

いやはや、素敵な神社でした。

周辺の見どころ(吉香公園)

●錦帯橋

吉香神社が鎮座する吉香公園にはたくさんの見どころがあります。

なかでも1番有名なのが岩国のシンボルであります錦帯橋!

錦帯橋は錦川に架けられた5連の木造アーチ橋で、日本三名橋日本三大奇橋に数えられています。


●錦帯橋
・1673年架橋
・1952年再架橋
・全長 約193.3m
・幅 約5m
・5連の木造アーチ橋
・国指定名勝

1673年、岩国領3代領主・吉川広嘉さんが現在の橋の原型となる木造橋を架けたのが始まり。

しかし、その後すぐに錦川の洪水により流失してしまったという。

そんなこんなで1674年、改良を加えて再架橋。

以後、1950年の台風で流失するまで276年間、その威容を保ち続けたという!

現在の錦帯橋は1953年に再建されたもので、2002〜2004年の平成の架け替え事業では劣化した木造部分が架け替えられたんだと。


ちなみに園内には錦帯橋を架橋した吉川広嘉さんの銅像がありました。


橋の長さは、直線距離で約193.3m。

橋面に沿った歩行距離は約210m。

橋幅は約5m。

そして橋台の高さは6.6mもある巨大木造橋!


橋は複雑な木組みで造られており、大工さんの技術の高さに感動したひと時でした。

ちなみに、釘はステンレス製ではなく、全て手打ちしたたたら鉄の和釘が使用されてるんだとか!


●岩国城

目線を上に向けると山上には岩国城


岩国城は岩国領初代領主・吉川広家さんが1608年に築城したお城です。

築城当初は3層4階の桃山風南蛮造りだったそうですが、築城して7年後に一国一城令により取り壊されてしまったという。。

そんなこんなで、現在の天守は1962年に再建された模擬天守となっております。


天守からは錦帯橋をはじめ、吉香公園・城下町・岩国市内、さらには瀬戸内海の島々を一望できるという!

爽快!

ちなみに、岩国城へはロープウェイで行くことができます。


●シロヘビの館(旧・シロヘビ観覧所)

岩国といえば国指定天然記念物のシロヘビも有名です。

ヘビ・・・苦手なんだよな(笑)

でもせっかく来たのだから、意を決して入館。


ヘビは好き嫌いが分かれる動物の1つですが、岩国市では古くからシロヘビさんと呼ばれて親しまれているのだとか!

ちなみに岩国のシロヘビはアオダイショウが突然変異によって白化したものなんだって。


シロ猫とシロヘビ観覧所。


シロヘビとシロおばちゃん。

岩国白蛇神社の御朱印|蛇づくしの境内でシロヘビ観賞(山口県岩国市)
所在地山口県岩国市今津町6丁目4−2祭 神・田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神・宇迦之御魂神(宇賀弁財天)由 緒今津地域の人々をはじめ、岩国市民の長年にわたる白蛇の保護と信仰に基づき、2012年12月1...


●巌流ゆかりの柳

錦川の川岸には巌流ゆかりの柳がありました。

巌流といえば佐々木小次郎さん!

宮本武蔵さんと戦った巌流島の決闘で有名なお方です。

吉川英治さんの小説・宮本武蔵によると、佐々木小次郎さんは岩国出身で必殺技の燕返し錦川の河岸で柳の枝や燕を切ることで編み出された技なんだとか!

その物語に基づいて名付けられたのがこの巌流ゆかりの柳なんだって。


公園内には小次郎さんの銅像もありました。

一般的に佐々木小次郎さんは出生地・年齢不詳とされています。

そんなこんなで、岩国における小次郎伝説は吉川英治さんの創作の可能性が高そうですが、なぜか小次郎推しをする岩国なのでありました。


ちなみに吉香公園内では佐々木屋小次郎商店とお食事処・むさしによる熱いソフトクリームバトルが繰り広げられていました!

宮本武蔵 vs 佐々木小次郎のソフトクリーム巌流島だ!


と言いたいところですが、武蔵は平仮名表記のむさし

小次郎は、佐々木小次郎ではなく佐々木小次郎!

ということで、ソックリさん対決の巌流島!


武蔵のソフトクリームは、なんと100種類!

数では武蔵の勝利ですが、小次郎は3年連続三ツ星を受賞しているという!

こうなれば自らの舌で両者の勝敗をつけたい・・・


そんなこんなで、両者の味を確かめてみましたが、味音痴の私はどちらも同じ味がした・・・(笑)


その他、吉香公園には白山比咩神社・香川家長屋門・旧目加田家住宅・吉川史料館・岩国徴古館などがありますが、全てを紹介するととてつもなく長い記事になりそうなので割愛!

まるまる1日遊べちゃうボリュームたっぷりの公園でした。

また行きたいな。

船島神社(巌流島)の御朱印|宮本武蔵 vs 佐々木小次郎の巌流島に鎮座|御朱印は彦島八幡宮で|(山口県下関市)
所在地山口県下関市大字彦島字船島648番地祭 神地神大神・龍神大神由 緒創建年不詳。船島(巌流島)の守護神といわれています。2003年に彦島八幡宮が祭禮を復活させ、現在に至ります。HPしものせき...
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御朱印情報

●御朱印情報

●御朱印の種類
・白山比咩神社の御朱印
・吉香神社の御朱印

※2社の御朱印を頂く場合は見開きとなります。
※書置き対応あり。

●御朱印の料金
・1社 300円
・2社 600円


●御朱印の受付場所
・白山比咩神社の授与所

※御朱印は吉香神社から徒歩1分のところに鎮座する白山比咩神社の授与所で頂くことができます。


吉香神社の境内にも授与所がありますが、神職の方は常駐しておりません。

●御朱印の受付時間
・不明(不在の場合あり)

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2010年5月29日 参拝
・2023年3月11日 再訪
・2023年5月 更新

白山比咩神社の御朱印|吉香公園内に鎮座する岩国領主・吉川氏の産土神(山口県岩国市)
所在地山口県岩国市横山2-8−10祭 神菊理媛命・小白山比咩命・大己貴命由 緒創建年は不詳。しかし旧記によると、876年に勧請、884年に社殿を建立と記されているそうです。その後、1368〜1375年に...
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・境内自由

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR岩徳線
 西岩国駅から車で10分

・JR山陽本線
 岩国駅から車で20分

●最寄りのバス停
・いわくにバス
 横山 バス停から徒歩7分

・いわくにバス
 錦帯橋 バス停から徒歩15分

●最寄りのIC
・山陽自動車道
 岩国ICから車で10分

●駐車場
・なし

※吉香神社には専用駐車場はありません
ですので、ロープウェイ前の駐車場、もしくは錦川の河川敷にある下河原駐車場か上河原駐車場に駐車することになります。

いずれの駐車場も無料ですが、多客時の昼間は有料となります。

ちなみに、吉香神社へはロープウェイ前の駐車場が1番近いです。

駐車場名台数料金時間
下河原約300台無料
(多客時 300円)
24時間
上河原
(乗用車のみ)
約130台無料
(多客時 300円)
24時間
ロープウエイ前
(乗用車のみ)
約58台無料7:00~20:00
※下河原・上河原駐車場は河川の増水により閉鎖の場合あり。
※花火大会の日は料金変更あり。

吉香神社の地図

 

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