所在地 | 愛媛県松山市道後姫塚114 |
---|---|
宗 派 | 曹洞宗 |
札 所 | 四国八十八ヶ所 番外 |
由 緒 | 1539年、河野景通の子・河野彦四郎義安が建立したお寺です。1585年、河野氏当主・河野通直は、豊臣秀吉の四国征伐の際に小早川隆景の説得により降伏。これにより伊予国は小早川隆景の支配下となりました。この時、河野氏一族や譜代の家臣がこのお寺に集まり、境内から湧き出る泉を飲み交わし、二君に仕えないことを約束して自刃したといいます。それ以来、その家臣たちの魂は大きな蛍となって、主君を慕いながら義安寺の周辺を飛び交ったという。その蛍は義安寺蛍といわれ、昭和30年代までお寺の周辺を飛んでいたそうです。 |
山門と本堂
●湯築城跡
●湯築城跡
・築城年 1335年頃
・廃城年 1587年
・主な城主 河野氏・小早川氏・福島氏
・国の史跡
本日は道後の町をプラプラと散策しております。
●境内入口
そんなこんなで、伊予の豪族・河野氏の居城であります湯築城から約100メートル。
河野氏ゆかりの義安寺に到着。
●山門
●山門
・建立年不明
・本瓦葺 切妻造 薬医門
このお寺は、河野景通の子の河野彦四郎義安が建立したということで義安寺と名付けられたそうですよ。
河野氏は代々湯築城を拠点にして、鎌倉時代~戦国時代にかけて活躍した伊予国最大の豪族です。
一時、河野水軍は瀬戸内最大の水軍となり、蒙古襲来(元寇)の際に大活躍しました。
また、伊予国一宮ならびに山祇神社の総本社・大山祇神社を氏神として崇め、祀りを執り行っていたことでも知られています。
ちなみに、23代当主・河野通信の孫は、時宗の開祖・一遍上人だという!
~画像は境内の説明板より~
それにしても、河野景通・・・河野彦四郎義安・・・って、どんなお方なんだろう・・・。
河野氏の家系図を見てみるも、景通さんも義安さんも見つけることができませんでした(^^;)
しかし、景通ではなく通景さんの名があったので、もしかして! と思い、通景さんのことを調べてみるも、通景さんが生きた時代と義安寺を建立した時代は全然違ってました・・・そんなこんなで、私の中で景通さんと義安さんの正体は謎!ということで結論付けました^^
要は、調べるのが面倒臭くなっただけです(笑)
●本堂
●本堂
・建立年不明
・本瓦葺 入母屋造
・宗派 曹洞宗
・本尊 釈迦如来像
・札所 四国八十八ヶ所 番外
そんなこんなで、山門をくぐるとすぐ本堂に到着。
こじんまりとした小さなお寺さんです。
本堂の屋根瓦と扉には、河野氏の家紋であります隅切三(折敷に三文字紋)がありました。
ちなみに、時宗の開祖・一遍上人は伊予の豪族・河野通信の孫ということで、時宗の宗紋も河野氏の家紋と同じ隅切三(折敷に三文字紋)を使用しています。
●湯築城跡
・築城年 1335年頃
・廃城年 1587年
・主な城主 河野氏・小早川氏・福島氏
・国の史跡
本日は道後の町をプラプラと散策しております。
●境内入口
そんなこんなで、伊予の豪族・河野氏の居城であります湯築城から約100メートル。
河野氏ゆかりの義安寺に到着。
●山門
●山門
・建立年不明
・本瓦葺 切妻造 薬医門
このお寺は、河野景通の子の河野彦四郎義安が建立したということで義安寺と名付けられたそうですよ。
河野氏は代々湯築城を拠点にして、鎌倉時代~戦国時代にかけて活躍した伊予国最大の豪族です。
一時、河野水軍は瀬戸内最大の水軍となり、蒙古襲来(元寇)の際に大活躍しました。
また、伊予国一宮ならびに山祇神社の総本社・大山祇神社を氏神として崇め、祀りを執り行っていたことでも知られています。
ちなみに、23代当主・河野通信の孫は、時宗の開祖・一遍上人だという!
~画像は境内の説明板より~
それにしても、河野景通・・・河野彦四郎義安・・・って、どんなお方なんだろう・・・。
河野氏の家系図を見てみるも、景通さんも義安さんも見つけることができませんでした(^^;)
しかし、景通ではなく通景さんの名があったので、もしかして! と思い、通景さんのことを調べてみるも、通景さんが生きた時代と義安寺を建立した時代は全然違ってました・・・そんなこんなで、私の中で景通さんと義安さんの正体は謎!ということで結論付けました^^
要は、調べるのが面倒臭くなっただけです(笑)
●本堂
●本堂
・建立年不明
・本瓦葺 入母屋造
・宗派 曹洞宗
・本尊 釈迦如来像
・札所 四国八十八ヶ所 番外
そんなこんなで、山門をくぐるとすぐ本堂に到着。
こじんまりとした小さなお寺さんです。
本堂の屋根瓦と扉には、河野氏の家紋であります隅切三(折敷に三文字紋)がありました。
ちなみに、時宗の開祖・一遍上人は伊予の豪族・河野通信の孫ということで、時宗の宗紋も河野氏の家紋と同じ隅切三(折敷に三文字紋)を使用しています。
宝厳寺の御朱印~時宗の開祖・一遍上人の生誕地~(愛媛県松山市道後湯月町)
所在地愛媛県松山市道後湯月町5−4宗 派時宗由 緒665年、斉明天皇の勅願により伊予国司・越智守興が創建したお寺とのことです。創建当初は法相宗でしたが、平安時代中期に天台宗に改宗。1239年、このお寺の...
誓いの泉
●誓いの泉
そんなこんなで
はいドン。
境内の片隅には、このお寺のハイライト的スポットであります誓いの泉がありました。
1585年、豊臣秀吉の四国征伐の際、秀吉の命を受けた小早川隆景の説得によって河野通直は降伏してしまいました。
それにより、河野氏は滅亡・・・。
この時、河野氏一族ならびに譜代の家臣がこのお寺に集まり、境内から湧き出る泉を飲み交わし『決して二君に仕えない』と約束し、自刃したといわれています。
それ以来、その家臣たちの魂は大きな蛍となって、主君を慕いながら義安寺の周辺を飛び交ったといいます。
その蛍は義安寺蛍といわれ、昭和30年代までお寺の周辺を飛んでいたそうですよ。
悲しい物語だなぁ・・・(´•̥̥̥ω•̥̥̥`)
無理だなぁ・・・。
私みたいな薄情もんは、死んだふりしてシレっと生き延びるだろうなぁ・・・。
ちなみに誓いの泉のには『山門に 蛍逃げこむ しまり哉』という正岡子規の句碑がありました。
そんなこんなで
はいドン。
境内の片隅には、このお寺のハイライト的スポットであります誓いの泉がありました。
1585年、豊臣秀吉の四国征伐の際、秀吉の命を受けた小早川隆景の説得によって河野通直は降伏してしまいました。
それにより、河野氏は滅亡・・・。
この時、河野氏一族ならびに譜代の家臣がこのお寺に集まり、境内から湧き出る泉を飲み交わし『決して二君に仕えない』と約束し、自刃したといわれています。
それ以来、その家臣たちの魂は大きな蛍となって、主君を慕いながら義安寺の周辺を飛び交ったといいます。
その蛍は義安寺蛍といわれ、昭和30年代までお寺の周辺を飛んでいたそうですよ。
悲しい物語だなぁ・・・(´•̥̥̥ω•̥̥̥`)
無理だなぁ・・・。
私みたいな薄情もんは、死んだふりしてシレっと生き延びるだろうなぁ・・・。
ちなみに誓いの泉のには『山門に 蛍逃げこむ しまり哉』という正岡子規の句碑がありました。
お六部さま
●お六部さま
このお寺は通称・お六部さまとして親しまれているそうですよ。
それにしても、お六部さまって・・・何?
調べてみると、これまた悲しい物語でした。
●お六部さまとは?
江戸時代のお話し。
伯耆国(鳥取)に友平一家が住んでいました。
友平はお金持ちで何不自由なく過ごしていましたが、妻が重病にかかり40歳前の若さで亡くなってしまったという・・・。
その後、友平は娘とともに暮らしていましたが、娘も母と同じ病気にかかってしまいました・・・。
友平は大枚をはたいて薬を取り寄せましたが、薬の効き目はなく娘の病はますます悪くなるばかり。。
そこで友平は田畑を売り払い、書き写した法華経を入れた笈(おい)を背負って六十六部の姿で諸国の霊場を巡りました。
旅の途中、道後のお湯が病に効くという噂を聞いた友平は松山に向かいました。
そして義安寺の茶堂を借り、温泉治療をする毎日を過ごします。
しかし、効果はなく。。
そこで友平は娘を置いて、もう一度四国巡礼に出かけます。
無事巡礼を終え、義安寺に帰ってきた友平。
しかし、娘はもうこの世にはいませんでした。
友平は嘆き悲しみ、娘の菩提を弔うために子安観音と延命地蔵を安置しました。
その仏さんがこちら!
友平は『自分は精魂こめて神仏にお祈りしたが娘は亡くなった。これからも私のようにいろいろなことで困る人が多いと思う。その時は神仏に願わずに自分に頼めば必ずその願いを聞きとどけよう』という遺言を残しました。
そんなこんなで、友平を祀る小さなお堂をお六部さまと呼び、お参りをすれば何でも願いを叶えてくれるという言い伝えが残っています。
ということで、堂内には笈を背負った六十六部の姿の友平さんがおられました。
特に困っていることはありませんが、何でも願いを叶えてくれるということで、あんなことやこんなことをたくさん願ってきました!
どんな願いかって?
それはヒ、ミ、ツ。
●六十六部とは?
六十六部とは、日本全国66ヶ国を巡礼し、各国の霊場に法華経を1部ずつ納める行者のことです。
六十六部は納経の証として各寺社から納経請取状を受け取っていました。
これが御朱印のルーツといわれています。
●笈(おい)とは?
修験者や行脚僧などが、仏具・衣類・食器などを入れて背負うあしつきの箱のことです。
このお寺は通称・お六部さまとして親しまれているそうですよ。
それにしても、お六部さまって・・・何?
調べてみると、これまた悲しい物語でした。
●お六部さまとは?
江戸時代のお話し。
伯耆国(鳥取)に友平一家が住んでいました。
友平はお金持ちで何不自由なく過ごしていましたが、妻が重病にかかり40歳前の若さで亡くなってしまったという・・・。
その後、友平は娘とともに暮らしていましたが、娘も母と同じ病気にかかってしまいました・・・。
友平は大枚をはたいて薬を取り寄せましたが、薬の効き目はなく娘の病はますます悪くなるばかり。。
そこで友平は田畑を売り払い、書き写した法華経を入れた笈(おい)を背負って六十六部の姿で諸国の霊場を巡りました。
旅の途中、道後のお湯が病に効くという噂を聞いた友平は松山に向かいました。
そして義安寺の茶堂を借り、温泉治療をする毎日を過ごします。
しかし、効果はなく。。
そこで友平は娘を置いて、もう一度四国巡礼に出かけます。
無事巡礼を終え、義安寺に帰ってきた友平。
しかし、娘はもうこの世にはいませんでした。
友平は嘆き悲しみ、娘の菩提を弔うために子安観音と延命地蔵を安置しました。
その仏さんがこちら!
友平は『自分は精魂こめて神仏にお祈りしたが娘は亡くなった。これからも私のようにいろいろなことで困る人が多いと思う。その時は神仏に願わずに自分に頼めば必ずその願いを聞きとどけよう』という遺言を残しました。
そんなこんなで、友平を祀る小さなお堂をお六部さまと呼び、お参りをすれば何でも願いを叶えてくれるという言い伝えが残っています。
ということで、堂内には笈を背負った六十六部の姿の友平さんがおられました。
特に困っていることはありませんが、何でも願いを叶えてくれるということで、あんなことやこんなことをたくさん願ってきました!
どんな願いかって?
それはヒ、ミ、ツ。
●六十六部とは?
六十六部とは、日本全国66ヶ国を巡礼し、各国の霊場に法華経を1部ずつ納める行者のことです。
六十六部は納経の証として各寺社から納経請取状を受け取っていました。
これが御朱印のルーツといわれています。
●笈(おい)とは?
修験者や行脚僧などが、仏具・衣類・食器などを入れて背負うあしつきの箱のことです。
薬師堂
●薬師堂
お六部さまの隣には、湯薬師如来という扁額が掲げられた薬師堂がありました。
説明板がなかったので詳しいことはわかりませんが、御朱印に湯之薬師如来と書かれておりましたので、おそらくこのお堂が四国八十八ヶ所・番外札所だと思われます。
(違っていたらすみません m(__)m)
その他、境内には河野通時と河野通時の娘のお墓がありました。
お六部さまの隣には、湯薬師如来という扁額が掲げられた薬師堂がありました。
説明板がなかったので詳しいことはわかりませんが、御朱印に湯之薬師如来と書かれておりましたので、おそらくこのお堂が四国八十八ヶ所・番外札所だと思われます。
(違っていたらすみません m(__)m)
その他、境内には河野通時と河野通時の娘のお墓がありました。
御朱印情報
●御朱印の種類
・湯之薬師如来(四国八十八ヶ所 番外)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
(2020年12月現在の情報)
・湯之薬師如来(四国八十八ヶ所 番外)
●御朱印の受付場所
・庫裏
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
(2020年12月現在の情報)
アクセスと駐車場
●拝観料
・無料
●定休日
・なし
●最寄りの駅
・伊予鉄道市内電車
道後公園駅から徒歩10分
・伊予鉄道市内電車
道後温泉駅から徒歩15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(9台)
(2020年12月現在の情報)
・無料
●定休日
・なし
●最寄りの駅
・伊予鉄道市内電車
道後公園駅から徒歩10分
・伊予鉄道市内電車
道後温泉駅から徒歩15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(9台)
(2020年12月現在の情報)