雪蹊寺の御朱印|四国霊場 第33番|幽霊伝説!長宗我部氏の菩提寺で運慶・湛慶の仏像鑑賞!|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(高知県高知市)

所在地高知県高知市長浜857−3
宗 派臨済宗妙心寺派
札 所 ・四国八十八ヶ所 第33番
・土佐西国三十三観音霊場 第20番
前後札所 ・前 → 第32番札所・禅師峰寺
・後 → 第34番札所・種間寺
本 尊薬師如来
真 言おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
由 緒782~806年に空海(弘法大師)が開基。 創建当初は高福寺という寺号でしたが、鎌倉時代に運慶・湛慶作の毘沙門天像などが安置されたことから慶運寺と改称。戦国時代、長宗我部元親の菩提寺となり、長宗我部元親の法号にちなみ雪蹊寺と改称したそうです。江戸時代初期には南学発祥の道場といわれ、野中兼山などの儒学者を生み出したそうです。1870年、廃仏毀釈により廃寺。1871年に隣接した地に雪蹊寺の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社を建立し、信仰の対象が雪蹊寺から秦神社に移ったそうです。その後、1879年に太玄和尚(山本太玄)が再興し、現在に至ります。
HP高福山 幸福院 雪蹊寺 – 四国八十八ヶ所霊場会

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雪蹊寺とは?


四国八十八ヶ所の第33番札所であります雪蹊寺に到着。

第32番札所・禅師峰寺から11km。
徒歩2時間。
車で20分のところに位置しています。

雪蹊寺と書いてせっけいじと読みます。

●雪蹊寺とは?

782~806年に弘法大師が開基。

創建当初は真言宗で少林山 高福寺という寺号だったそうです。

鎌倉時代、大仏師の運慶と息子・湛慶が来山。

その際、本尊・薬師如来像や毘沙門天像などを彫刻し安置したという。

そのことから、高福寺から慶運寺に改称したといわれています。


その後、寺運が衰え、廃寺となってしまったそうです。。

しかし、これを再興したのが土佐国の戦国武将・長宗我部元親

1573〜1593年、長宗我部元親が自身の宗派であった臨済宗から月峰和尚を住職に招いて再興。

その際、真言宗から臨済宗に改宗したという。

1599年、長宗我部元親の死後、後を継いだ4男の盛親長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号・雪蹊恕三大禅定門から寺号を雪蹊寺と改めたそうです。


江戸時代初期、天室僧正が住職を努め、朱子学南学派の祖として活躍。

雪蹊寺は南学発祥の道場と呼ばれ、野中兼山を始め、多くの儒学者を生み出したそうです。

しかしその後、1870年に廃仏毀釈のあおりを受けて再び廃寺に。。


1871年、隣接した地に雪蹊寺の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社を建立し、信仰の対象が雪蹊寺から秦神社に移ったそうです。

なお、その間の納経は第31番札所の竹林寺が行っており、納経の寺号は高福寺と書かれていたという。

その後、再興を許可され、1879年に太玄和尚(山本太玄)が再興し、現在に至ります。


雪蹊寺は、土佐の雄・長宗我部家の菩提寺です。

高知県の人気観光スポット・桂浜から約4km。
車で10分のところにあります。

桂浜がある浦戸という地には、長宗我部元親さんが拠点としていた浦戸城跡があり、戦国時代には高知の中心地だった場所です。

元親さんは、1573〜1593年に廃寺になっていたこのお寺を再興。

さらに元親さんの死後、4男の盛親が長宗我部家の菩提寺とするなど、このお寺は長宗我部氏にとって、とても重要なお寺さんだったようです。


ちなみに正式名称は高福山 高福院 雪蹊寺

長宗我部元親さんの法名・雪蹊恕三大禅定門から名付けられた寺号なんだって。

この法名は生前につけられたもので、恕三は元親さん自身が命名。

雪蹊は臨済宗の禅僧から授かったといわれています。
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石柱と手水舎と鐘楼

●石柱

まず最初に登場するのは石柱

どうやら、このお寺には山門はないようです。

石柱越しにすぐ本堂の姿が確認できましたので、初見でコンパクトな境内だということがわかりました。


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造

そんなこんなで、手水舎でお清め。

なんと手水舎は休憩所も兼ねているという!

きっとこれは歩き遍路さんに対しての優しさなんだろうなぁ。

素敵です。


●鐘楼

●鐘楼
・1977年改築
・瓦葺 入母屋造

続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。

御本尊さまとお大師さまにご挨拶。
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本堂と仏像鑑賞

●本堂

●本堂
・2004年改築
・瓦葺 入母屋造

●本尊
・薬師如来

●真言
・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

そして、本堂で参拝。

このお寺は、創建当初は真言宗でしたが、1573〜1593年に長宗我部元親さんが再興した際に臨済宗に改宗しています。

ちなみに、四国八十八ヶ所で真言宗以外のお寺は88ヶ所中6ヶ寺

そのうち、臨済宗のお寺は第11番・藤井寺とこの雪蹊寺だけだという!

ということで、第33番にして四国霊場最後の臨済宗寺院となります。


って、あれ?

音が変・・・と思ったら!

なんと、鰐口が木製だったという!

木製の鰐口は初めての体験だったので、ちょっくら感動しましたよ!

いやはや、本日も珍しいものを拝見できて有難き幸せ。


そんなことより、なんと!

本尊の薬師如来さんは鎌倉時代の大仏師・運慶の晩年の作だという!

さらに、脇侍の日光・月光菩薩さんも運慶作だという!

本当かなぁ〜と思ったら、やはり(伝)運慶作でした。

これはもぅ、仏像あるあるです。

しかし!

運慶と息子の湛慶は、このお寺を訪れてしばらく滞在していたみたいです。

そのことから、寺号が慶運寺という時代もあったそうです!

運慶作かどうかは断定されていませんが、可能性はありそうです。

いやはや、浪漫がありますねぇ〜。

ちなみに、その薬師如来像は本堂ではなく霊宝殿に安置されています。

それがこちら。
はいドン!


●薬師如来坐像
・鎌倉時代作
・像高 140.0cm
・檜材 寄木造 漆箔 玉眼
・伝 運慶作
・国指定重要文化財

●日光・月光菩薩立像
・鎌倉時代作
・日光菩薩 173.3cm
・月光菩薩 172.4cm
・檜材 寄木造
・伝 運慶作
・国指定重要文化財

~画像はパンフレットより~


さらに、はいドン!

こちらは、運慶の息子・湛慶作の毘沙門天三尊像です。

・左 → 善膩師童子像
・中 → 毘沙門天立像
・右 → 吉祥天立像

毘沙門天さんの足ほぞに法印大和尚位湛慶という墨書銘があることから、こちらは正真正銘湛慶の作品と判明しています!

~画像はパンフレットより~


●毘沙門天立像
・鎌倉時代作
・像高 168.0cm
・檜材 寄木造 彩色 玉眼
・湛慶作
・国指定重要文化財

右腕と左手首を失っているにも関わらず力強さが伝わってくる作品でした!

湛慶の作品は、運慶の力強く躍動感溢れる作風と、快慶の絵画的かつ写実性を調和した作風を併せ持っているのが魅力といわれています。

~画像は週刊原寸大日本の仏像 No.48より~


●吉祥天立像
・鎌倉時代作
・像高 79.7cm
・檜材 寄木造 彩色 玉眼
・湛慶作
・国指定重要文化財

吉祥天さんは毘沙門天さんのです。

像高は夫の毘沙門天さんの半分以下というかなり不釣り合いな三尊像になっておりますが、ふくよかなお顔と繊細なディテールの衣が印象的で、毘沙門天さんと比べても見劣りしない作品だと思いました。

~画像は週刊原寸大日本の仏像 No.48より~


●善膩師童子
・像高 71.2cm
・檜材 寄木造 彩色 玉眼
・湛慶作
・国指定重要文化財

善膩師童子さんは毘沙門天さんと吉祥天さんの息子です。

5人兄弟の末子といわれているお方です。

ということで、この三尊像は毘沙門天さんの家族像になってるという!

このパターンの三尊像は初めて拝見したので、ちょっくら感動しました。

~画像は週刊原寸大日本の仏像 No.48より~


それにしても善膩師童子のお顔・・・京都・高山寺狗児像(子犬像)に似ているような!

ちなみに、高山寺の狗児像(子犬像)も湛慶作です。


こちらは以前、高山寺を参拝したときの写真です。

当時、狗児像(子犬像)は運慶作とされていました。

~画像は2011年4月2日 撮影~

その他、霊宝殿には十二神将立像も拝観できました。
高山寺の御朱印情報~京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8~
住 所京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8宗 派真言宗系の単立由 緒774年、光仁天皇の勅願により開創されたお寺です。もとは神護寺・都賀尾坊という寺院でしたが、814年に神護寺・十無尽院と改称。1206年、華...
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大師堂と馬頭観音堂

●大師堂

●大師堂
・1910年建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 弘法大師

続いて、大師堂を参拝。

大師堂は明治43年の建立。
おそらく、このお寺で最古の建造物だと思われます。

ちなみに、お堂が閉まっていたのでお大師さまを拝顔することはできませんでした。

南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・


●馬頭観音堂

●馬頭観音堂
・1931年改築
・瓦葺 宝形造
・本尊 馬頭観音

こちらの馬頭観音さんは、旅の安全をお守りしてくださるため、お遍路さんから厚く信仰されているそうですよ。

堂内では、松洞庵の横井五仙さんというお方が描いた天井画を鑑賞することができます。

ちなみに、こちらのお堂は土佐西国観音霊場の札所となっております。

その他、境内には安産子安地蔵堂正一位稲荷大明神がありました。
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長宗我部信親の墓

●長宗我部信親の墓

長宗我部家の菩提寺ということで、境内には長宗我部元親さんの4男・長宗我部盛親さんのお墓がありました。


●戸次川の戦いと長宗我部信親

長宗我部信親は長宗我部元親の嫡男。

信親は才気あふれる人物で大将になる器もあり、織田信長が養子にすることを考えたほど才能に満ちたお方だったようです。

さらに身長は184cm。
色白で美少年だったという。

天は二物を与えた!
パーフェクトヒューマン。

ちなみに親のは織田長から貰ったものといわれています。

父・元親はそんな信親に大きな期待を寄せていました。

しかし、島津軍 vs 長宗我部元親・信親・仙石秀久・大友義統・十河存保率いる豊臣軍との戸次川の戦いで、信親は22歳の若さで討死してしまったという。

長宗我部軍の戦死者は740名以上・・・。

元親は信親と多くの家臣団を一度に失ったことで、ヤル気を失い茫然自失状態に・・・。

結果、大名としての寿命を縮めていくことになりました。

そして1599年、元親は伏見屋敷でお亡くなりになりました。。 南無・・・。

月峰和尚の歌詠み幽霊伝説

なんと、かつてこのお寺には幽霊が住み着いていたという!

その幽霊を成仏させたのが、雪蹊寺を復興させた月峰和尚なんだって。

●月峰和尚の歌詠み幽霊伝説

荒廃していた雪蹊寺には、成仏できていない幽霊が住み着いていたという。

その幽霊は、和歌の上の句に悩んで亡くなった者だという。

そのため、近隣の村人は『この寺には幽霊が出るから近づかない方がいい』とささいていたんだそうな。

そんなある日、この噂を聞いて興味を持った月峰和尚が『幽霊の正体を見てみたい』といい、この寺に寝泊まりすることにしたという。

その晩、月峰和尚がこの寺で座禅をくんでいると、泣き声とともに『水も浮き世という所かな』という下の句が聞こえてきたという!

それは幽霊の声だった。

そこで月峰和尚は、翌晩までに幽霊が言った下の句に合う上の句を考えることにしました。


そして翌晩・・・

前日と同じように座禅をくんでいると、再び幽霊が『水も浮き世という所かな』と言ってきました。

そこで月峰和尚は『墨染めを洗えば波も衣きて、水も浮き世という所かな』と、上の句と下の句を合わせて詠みました。

すると泣き声はしなくなり、それ以降幽霊は出なくなったそうです。


その話を聞いた長宗我部元親は、月峰和尚に雪蹊寺の住職になるように頼んだという。

そして、長宗我部元親は月峰和尚のために雪蹊寺を立派に建て直したといわれています。

完。

色々とツッコミどころがありますが、そこはピュアな心で楽しみましょう(笑)

山本玄峰老師像

●山本玄峰老師像

よくお寺には誰やねん系の銅像があります。

私はそういった銅像をスルーする傾向が多々あります。

この銅像も流し見状態で、ほぼスルーしました。

しかし帰宅後、この方について調べたら、とんでもない人でしたっ!!!!!

●山本玄峰とは?

19歳の頃、失明に近い眼病を患いながら裸足で四国遍路を開始。

25歳のとき、7回目の四国遍路中、雪蹊寺の門前で行き倒れになっていたところを太玄和尚(山本太玄)に救われたという。

その後、出家して滋賀・永源寺、兵庫・祥福寺、岡山・宝福寺、岐阜・永保寺などを行脚した後、雪蹊寺の住職を務めたそうです。

さらに1947年には臨済宗妙心寺派の管長に就任したという!

ちなみに、玄峰老師は生涯17回も四国遍路を結願したそうです。


玄峰老師には政財界の要人などの信徒が多く、たびたび相談を受けていたそうです。

終戦間近の1945年。
玄峰老師は、日本共産党の中央委員長・田中清玄さんに

『日本は大関。大関は勝つもきれい。負けるもきれい。日本はきれいに、無条件に負けることだ。我慢や我執にとらわれていたら、日本は国体を損ない、国家はつぶれ、国民は流浪の民になるぞ』

と言い、日本が早くこの戦争を終結させることを願っていたといいます。

そんなこんなで、終戦を決定する御前会議直前のとき。

第42代 内閣総理大臣・鈴木貫太郎さんに対し『これからが大事な時ですから、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、体に気をつけながらやって下さい』という手紙を送ったといいます。

なんと、これが終戦詔書として玉音放送で流された『堪え難きを堪え忍び難きを忍び』の文言になったといわれています!


玄峰老師は、終戦後の憲法制定の際にも『わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部抗争が絶えないと思う。天皇は空に輝く象徴みたいなものだ』と語ったそうです。

なんと、これが日本国憲法 第1章 の『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』という条文に影響を与えたといわれています!

そんなこんなで、玄峰老師は戦後の象徴天皇制の生みの親!

昭和の傑僧ならびに昭和最大の禅僧と呼ばれるとんでもないお方でした!

誰やねんとか言ってしまって申し訳ありませんでしたっ!!!!!

もっともっと勉強します!


その他、境内には玄峰老師の山本太玄住職の供養塔や、坂本龍馬の剣の師匠・土居楠五郎のお墓やカッパのお遍路(?)などがありました。


あと、雪蹊寺に隣接して秦神社が鎮座しています。

秦神社には、もともと雪蹊寺に安置されていた長宗我部元親坐像が神体として祀られています。

長宗我部元親さんを主祭神として祀る日本唯一の神社ですよ。
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そんなこんなで、参拝終了。

第34番札所・種間寺へ続く。

御朱印情報

●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・土佐西国三十三観音霊場の御朱印

●御朱印の受付場所
・納経所

●御朱印の受付時間
・7:00~17:00

●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・土佐西国三十三観音霊場 300円

●期間限定・特別御朱印
・なし

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2010年2月20日 参拝
・2024年3月 最終更新
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参拝情報とアクセス

●開門時間
・7:00~17:00

●拝観料
・無料

●霊宝殿
・拝観時間 9:00~16:00
・拝観料 志納
・要予約
・写真撮影禁止

●宿坊
・なし

●前後札所
・第32番札所・禅師峰寺へ11km
 徒歩2時間
 車で20分

・第34番札所・種間寺へ7km
 徒歩1時間30分
 車で15分

●最寄りの駅
・JR高知駅から徒歩1時間45分
・JR高知駅から車で20分

●最寄りのバス停
・とさでん交通
 長浜行き・桂浜行きに乗車
 長浜 バス停で下車 徒歩6分

●最寄りのIC
・高知自動車道
 高知ICから車で25分

●駐車場
・有料の専用駐車場あり

駐車料金は志納制になっています。
(目安として普通車100円)

駐車料金は納経所で納めるかたちとなります。

雪蹊寺の地図

 

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