所在地 | 山口県下関市阿弥陀寺町4-1 |
---|---|
祭 神 | 安徳天皇 |
社 格 | 旧官幣大社・別表神社 |
由 緒 | 859年、奈良・大安寺の僧・行教が浄土宗・阿弥陀寺として開山したのが始まり。1185年の源平合戦・壇ノ浦の戦いで二位の尼とともに入水した安徳天皇の菩提を弔うため、1191年に後鳥羽天皇が御影堂を建立。以来、皇室・武家から崇敬されたそうです。中でも大内氏・毛利氏が篤く崇敬し、長府藩主から寺領が寄進されるなどして隆盛を極めたそうです。江戸時代、真言宗に改宗。1870年、神仏分離令により阿弥陀寺は廃され、御影堂は天皇社と改称。その後、1875年に天皇社は官幣中社となり赤間宮と改称。さらに1940年には官幣大社となり社号を赤間神宮と改め、現在に至るそうです。 |
HP | 赤間神宮 |
Contents
鳥居と水天門と大安殿
●鳥居
平家滅亡の地・壇ノ浦古戦場跡から徒歩10分ほどの場所に鎮座する赤間神宮に到着。
赤間神宮は源平合戦・壇ノ浦の戦いや耳なし芳一の舞台、さらに平家一門のお墓があることで有名な神社です。
もともとこの神社は阿弥陀寺というお寺でしたが、明治時代の神仏分離令後に仏教色を廃され神社になっています。
そのため、赤間神宮が鎮座する地は、現在も阿弥陀寺町という地名で当時の名残を伝えています。
●水天門(神門)
●水天門
・1957年建立
・銅板葺 入母屋造
・竜宮造 楼門
・鉄筋コンクリート造
・国の登録有形文化財
まず最初に登場するのは赤間神宮のシンボルであります竜宮門。
1185年、源義経率いる源氏軍と平知盛率いる平家軍が、長門国赤間関にある壇ノ浦の海上で激戦を繰り広げました。
結果は平家軍の敗北。
平家一門は次々と入水していきました。
そして平清盛の妻・二位尼はわすが8歳の安徳天皇を抱えて入水・・・
その時、安徳天皇は祖母の二位尼に『どこへ行くのか』と尋ねたといいます。
二位尼は『海の底にも都があります』と答え、2人は海の底に沈んでいきました。
海の底にも都があります・・・名言だね!
そんなこんなで、この門は海底の都、すなわち竜宮城をイメージして造られた門なんだって。
行ったことないけど、本当に竜宮城みたいだよ!
行ったことないけど!
ちなみに、水天門からは平家が滅亡した関門海峡を望むことができました。
まるで海底の都を見守っているかのような風景でした。
●大安殿(拝殿)
●大安殿
・1965年建立
・銅板葺 入母屋造
・祭神 安徳天皇
続いて、大安殿という名の社殿で参拝。
大安殿は外拝殿と内拝殿で構成されていて、一般参拝者は外拝殿からの参拝となります。
扁額には赤間神宮と書かれておりました。
どうやらこちらは有栖川宮幟仁親王の筆のようです。
ちなみに外拝殿と内拝殿の間は水辺になっているという!
まるで地上の海底!
水天門同様、竜宮城のような光景でしたよ(行ったことないけど)
平家滅亡の瞬間を目の当たりにし、幼くして亡くなった安徳天皇。
そして、栄華を極めながら儚くも滅びた平家に思いを馳せつつ・・・参拝。
平家滅亡の地・壇ノ浦古戦場跡から徒歩10分ほどの場所に鎮座する赤間神宮に到着。
赤間神宮は源平合戦・壇ノ浦の戦いや耳なし芳一の舞台、さらに平家一門のお墓があることで有名な神社です。
もともとこの神社は阿弥陀寺というお寺でしたが、明治時代の神仏分離令後に仏教色を廃され神社になっています。
そのため、赤間神宮が鎮座する地は、現在も阿弥陀寺町という地名で当時の名残を伝えています。
●水天門(神門)
●水天門
・1957年建立
・銅板葺 入母屋造
・竜宮造 楼門
・鉄筋コンクリート造
・国の登録有形文化財
まず最初に登場するのは赤間神宮のシンボルであります竜宮門。
1185年、源義経率いる源氏軍と平知盛率いる平家軍が、長門国赤間関にある壇ノ浦の海上で激戦を繰り広げました。
結果は平家軍の敗北。
平家一門は次々と入水していきました。
そして平清盛の妻・二位尼はわすが8歳の安徳天皇を抱えて入水・・・
その時、安徳天皇は祖母の二位尼に『どこへ行くのか』と尋ねたといいます。
二位尼は『海の底にも都があります』と答え、2人は海の底に沈んでいきました。
海の底にも都があります・・・名言だね!
そんなこんなで、この門は海底の都、すなわち竜宮城をイメージして造られた門なんだって。
行ったことないけど、本当に竜宮城みたいだよ!
行ったことないけど!
ちなみに、水天門からは平家が滅亡した関門海峡を望むことができました。
まるで海底の都を見守っているかのような風景でした。
●大安殿(拝殿)
●大安殿
・1965年建立
・銅板葺 入母屋造
・祭神 安徳天皇
続いて、大安殿という名の社殿で参拝。
大安殿は外拝殿と内拝殿で構成されていて、一般参拝者は外拝殿からの参拝となります。
扁額には赤間神宮と書かれておりました。
どうやらこちらは有栖川宮幟仁親王の筆のようです。
ちなみに外拝殿と内拝殿の間は水辺になっているという!
まるで地上の海底!
水天門同様、竜宮城のような光景でしたよ(行ったことないけど)
平家滅亡の瞬間を目の当たりにし、幼くして亡くなった安徳天皇。
そして、栄華を極めながら儚くも滅びた平家に思いを馳せつつ・・・参拝。
安徳天皇阿弥陀寺陵と壇ノ浦の戦い
●安徳天皇阿弥陀寺陵
ちなみに赤間神宮の隣には安徳天皇の御陵といわれる安徳天皇阿弥陀寺陵があります。
安徳天皇阿弥陀寺陵と書いてあんとくてんのうあみだじのみささぎと読みます。
●安徳天皇と壇ノ浦の戦いとは?
安徳天皇は1178年に平清盛の娘・徳子(建礼門院)と高倉天皇との間に誕生した子供です。
安徳天皇の祖父・平清盛が活躍した平安時代末期は、政治の主導権が公家から武家へ移り変わろうとしていた時代でした。
そんな時代に武家中心の世の中をつくる立役者となった1人が平清盛でした。
平清盛は保元・平治の乱を足がかりに中央政治に進出。
平治の乱で地位を盤石にした平清盛は、妹や娘を皇室や摂関家に嫁入りさせて勢力を拡大し、朝廷での権威を強めていきました。
そして1167年に武士として初めて太政大臣に任命されました。
平清盛は日宋貿易で巨万の富を築き、武家としてだけでなく公家として約20年間に渡って栄華を極めました。
しかし平清盛は、1168年に大病を患ったことを機に出家することに。
そして京都から退き、福原(兵庫)に居を構えました。
平清盛が出家してからも平家の栄華は続きますが、平家打倒を計画した鹿ヶ谷の陰謀の後、後白河法皇を幽閉・・・その後も平家の勢力は増していきましたが、源氏や皇室からの反感が強まることになりました。
平清盛はより一層、権力を強めるため、わずか3歳の孫・安徳天皇を即位させました。
このことにより、後白河法皇の子・以仁王は皇位継承の望みを絶たれることに。
強烈な不満を抱いた以仁王は 、1180年に源頼政とともに打倒平家をかかげて挙兵しました。
その後、伊豆に流刑になった源頼朝が挙兵。
さらに木曽義仲も挙兵。
源頼朝が挙兵したことを知ると、平家に反感を持っていた相模や武蔵の豪族たちが次々と集結し、やがて大勢力になっていきました。
そして石橋山の戦い、富士川の戦い、墨俣川の戦いなどなど戦が繰り返されることに。
朝廷では、安徳天皇とともに平家が持ち出した三種の神器の行く末が案じられていました。
平家と和平するか武力で奪還するか・・・協議の結果、源範頼・源義経軍が平家を攻撃して三種の神器を奪い返すことに決定しました。
その後、三草山の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと続き、ついに最終決戦である壇ノ浦の戦いへ。
合戦の序盤は平家軍が優勢・・・しかし潮の流れが変わったことにより戦況は逆転。
合戦は源義経軍が有利に進める展開となりました。
そして源義経軍の猛攻撃に遭い、平家軍は壊滅状態になりました。
こうして平家の敗北は決定的となり、平家一門は次々と入水して行くことになりました。
そして、わすが6歳の安徳天皇は祖母・二位尼に抱きかかえられて入水・・・そのとき二位尼は、安徳天皇とともに三種の神器の1つ・草薙剣も抱いていたといいます。
入水する前に安徳天皇は祖母の二位尼に『どこへ行くのか』と尋ねたといいます。
そして二位尼は歌を詠みました。
今ぞしる みもすそ川の おんながれ
波の下にも 都あり
これは海の中にも都はあるという意味です。
二位尼の悲しさと安徳天皇を案じた優しさが詰まった歌ですね。
こうして安徳天皇と二位尼と草薙剣は海の藻屑となり平家は滅亡しました。
ちなみに吾妻鏡によると、源頼朝は壇ノ浦の戦いの前、源範頼に『三種の神器と安徳天皇を無事に京都へお返しするように』と命じていたといいます。
安徳天皇から後鳥羽天皇へ皇位継承するために三種の神器が必要だったのです。
しかし安徳天皇と草薙剣は海底に・・・
戦の後、源義経からの報告書を読んだ頼朝はショックのあまり言葉が出なかったといいます。
わけもわからず即位され、わけもわからず死んでいった安徳天皇。。
おそらく歴代天皇の中で最も短命で悲惨な人生だったのではないでしょうか。
●安徳天皇の生存説
しかし!
安徳天皇には生存説があったりなんかします。
などなど、他にもたくさんの生存説があります。
ちなみに徳島の名山であります剣山の山頂には草薙剣が埋められているといいます。
って・・・なんで!?
実は屋島の戦いで敗れた後、幼い安徳天皇は家来に守られながら徳島県の祖谷に落ち延びたという。
そして平家の再興を願い、三種の神器の1つ・草薙剣を山頂に納めたといわれています。
そのことから剣山と名付けられたんだって。
赤間神宮の安徳天皇阿弥陀寺陵は、1889年に安徳天皇の陵墓として正式決定されていますが、鳥取県・高知県・長崎県・熊本県・大阪府・徳島県・鹿児島県などなど、全国には宮内庁管理の参考地としてたくさんの陵墓が存在しています。
安徳天皇のお墓と伝わる地がこんなにもあると、やっぱりどこかに落ち延びたんじゃないの???
と、思ってしまう私です。
生存説に浪漫を感じちゃいます!
ちなみに赤間神宮の隣には安徳天皇の御陵といわれる安徳天皇阿弥陀寺陵があります。
安徳天皇阿弥陀寺陵と書いてあんとくてんのうあみだじのみささぎと読みます。
●安徳天皇と壇ノ浦の戦いとは?
安徳天皇は1178年に平清盛の娘・徳子(建礼門院)と高倉天皇との間に誕生した子供です。
安徳天皇の祖父・平清盛が活躍した平安時代末期は、政治の主導権が公家から武家へ移り変わろうとしていた時代でした。
そんな時代に武家中心の世の中をつくる立役者となった1人が平清盛でした。
平清盛は保元・平治の乱を足がかりに中央政治に進出。
平治の乱で地位を盤石にした平清盛は、妹や娘を皇室や摂関家に嫁入りさせて勢力を拡大し、朝廷での権威を強めていきました。
そして1167年に武士として初めて太政大臣に任命されました。
平清盛は日宋貿易で巨万の富を築き、武家としてだけでなく公家として約20年間に渡って栄華を極めました。
しかし平清盛は、1168年に大病を患ったことを機に出家することに。
そして京都から退き、福原(兵庫)に居を構えました。
平清盛が出家してからも平家の栄華は続きますが、平家打倒を計画した鹿ヶ谷の陰謀の後、後白河法皇を幽閉・・・その後も平家の勢力は増していきましたが、源氏や皇室からの反感が強まることになりました。
平清盛はより一層、権力を強めるため、わずか3歳の孫・安徳天皇を即位させました。
このことにより、後白河法皇の子・以仁王は皇位継承の望みを絶たれることに。
強烈な不満を抱いた以仁王は 、1180年に源頼政とともに打倒平家をかかげて挙兵しました。
その後、伊豆に流刑になった源頼朝が挙兵。
さらに木曽義仲も挙兵。
源頼朝が挙兵したことを知ると、平家に反感を持っていた相模や武蔵の豪族たちが次々と集結し、やがて大勢力になっていきました。
そして石橋山の戦い、富士川の戦い、墨俣川の戦いなどなど戦が繰り返されることに。
朝廷では、安徳天皇とともに平家が持ち出した三種の神器の行く末が案じられていました。
平家と和平するか武力で奪還するか・・・協議の結果、源範頼・源義経軍が平家を攻撃して三種の神器を奪い返すことに決定しました。
その後、三草山の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと続き、ついに最終決戦である壇ノ浦の戦いへ。
合戦の序盤は平家軍が優勢・・・しかし潮の流れが変わったことにより戦況は逆転。
合戦は源義経軍が有利に進める展開となりました。
そして源義経軍の猛攻撃に遭い、平家軍は壊滅状態になりました。
こうして平家の敗北は決定的となり、平家一門は次々と入水して行くことになりました。
そして、わすが6歳の安徳天皇は祖母・二位尼に抱きかかえられて入水・・・そのとき二位尼は、安徳天皇とともに三種の神器の1つ・草薙剣も抱いていたといいます。
入水する前に安徳天皇は祖母の二位尼に『どこへ行くのか』と尋ねたといいます。
そして二位尼は歌を詠みました。
今ぞしる みもすそ川の おんながれ
波の下にも 都あり
これは海の中にも都はあるという意味です。
二位尼の悲しさと安徳天皇を案じた優しさが詰まった歌ですね。
こうして安徳天皇と二位尼と草薙剣は海の藻屑となり平家は滅亡しました。
ちなみに吾妻鏡によると、源頼朝は壇ノ浦の戦いの前、源範頼に『三種の神器と安徳天皇を無事に京都へお返しするように』と命じていたといいます。
安徳天皇から後鳥羽天皇へ皇位継承するために三種の神器が必要だったのです。
しかし安徳天皇と草薙剣は海底に・・・
戦の後、源義経からの報告書を読んだ頼朝はショックのあまり言葉が出なかったといいます。
わけもわからず即位され、わけもわからず死んでいった安徳天皇。。
おそらく歴代天皇の中で最も短命で悲惨な人生だったのではないでしょうか。
●安徳天皇の生存説
しかし!
安徳天皇には生存説があったりなんかします。
●惟宗知宗説
①長崎の対馬藩主・宗氏の始祖・惟宗知宗は安徳天皇だった説。
●祖谷説
②徳島県三好市の祖谷地方に平国盛ら約30人に守られて逃れた説。
ちなみに祖谷は平家落人の里として有名です。
●硫黄島説
③ 屋島の戦いの際、平家の主力軍から離脱し、鹿児島県の硫黄島に逃れた説。
安徳天皇の子孫と称する長浜家に伝わる硫黄大権現宮御本縁には、平時房の娘が安徳天皇の代わりに入水したと記されているそうです。
①長崎の対馬藩主・宗氏の始祖・惟宗知宗は安徳天皇だった説。
●祖谷説
②徳島県三好市の祖谷地方に平国盛ら約30人に守られて逃れた説。
ちなみに祖谷は平家落人の里として有名です。
●硫黄島説
③ 屋島の戦いの際、平家の主力軍から離脱し、鹿児島県の硫黄島に逃れた説。
安徳天皇の子孫と称する長浜家に伝わる硫黄大権現宮御本縁には、平時房の娘が安徳天皇の代わりに入水したと記されているそうです。
などなど、他にもたくさんの生存説があります。
ちなみに徳島の名山であります剣山の山頂には草薙剣が埋められているといいます。
って・・・なんで!?
実は屋島の戦いで敗れた後、幼い安徳天皇は家来に守られながら徳島県の祖谷に落ち延びたという。
そして平家の再興を願い、三種の神器の1つ・草薙剣を山頂に納めたといわれています。
そのことから剣山と名付けられたんだって。
赤間神宮の安徳天皇阿弥陀寺陵は、1889年に安徳天皇の陵墓として正式決定されていますが、鳥取県・高知県・長崎県・熊本県・大阪府・徳島県・鹿児島県などなど、全国には宮内庁管理の参考地としてたくさんの陵墓が存在しています。
安徳天皇のお墓と伝わる地がこんなにもあると、やっぱりどこかに落ち延びたんじゃないの???
と、思ってしまう私です。
生存説に浪漫を感じちゃいます!
平家一門の墓(七盛塚)
●平家一門の墓(七盛塚)
境内には壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のお墓がありました。
この墓石群は七盛塚と呼ばれていますが、7つ以上のお墓がありました。
どういうことかな?
と思いましたが、名前に盛の字がつく者がたくさんいることから七盛塚と名付けられたんだって。
そういうことか!
ちなみに吾妻鏡によると
壇ノ浦で入水したのは
①安徳天皇
②二位尼(平時子・平清盛の妻)
③平教盛(平忠盛の4男・清盛の異母弟)
④平知盛(清盛の4男)
⑤平経盛(平忠盛の3男・清盛の異母弟)
⑥平資盛(平重盛の次男)
⑦平有盛(平重盛の4男)
⑧平行盛(平基盛の長男)
生け捕りになった者は
①平宗盛(平家の総大将・清盛の3男)
②平清宗(平宗盛の長男)
③平能宗(平宗盛の次男)
④平時忠
⑤平信基
⑥平時実
⑦藤原尹明など
もともと平家一門のお墓は下関近辺に点在していたそうです。
しかし関門海峡で海難事故が多発したことにより『これは平家の怨念ではないか』と言われるようになったという。
そんなこんなで、赤間神宮の境内にお墓を集めたのがこの七盛塚といわれています。
境内には壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のお墓がありました。
この墓石群は七盛塚と呼ばれていますが、7つ以上のお墓がありました。
どういうことかな?
と思いましたが、名前に盛の字がつく者がたくさんいることから七盛塚と名付けられたんだって。
そういうことか!
●平家一門の墓(七盛塚)
①知盛(清盛の4男)
②経盛(清盛の次弟)
③教盛(清盛の3弟)
④教経(教盛の次男)
⑤資盛(重盛の次男)
⑥清経(重盛の3男)
⑦有盛(重盛の4男)
⑧忠房(重盛の6男)
⑨家長(家臣)
⑩忠光(家臣)
⑪景経(家臣)
⑫景俊(家臣)
⑬盛嗣(家臣)
⑭二位の尼(平時子・平清盛の妻)
この14名全員が壇ノ浦で亡くなってるわけではありません。
清経は豊前で自害。
忠房・忠光・盛嗣は壇ノ浦の戦い後に刑死となっております。
①知盛(清盛の4男)
②経盛(清盛の次弟)
③教盛(清盛の3弟)
④教経(教盛の次男)
⑤資盛(重盛の次男)
⑥清経(重盛の3男)
⑦有盛(重盛の4男)
⑧忠房(重盛の6男)
⑨家長(家臣)
⑩忠光(家臣)
⑪景経(家臣)
⑫景俊(家臣)
⑬盛嗣(家臣)
⑭二位の尼(平時子・平清盛の妻)
この14名全員が壇ノ浦で亡くなってるわけではありません。
清経は豊前で自害。
忠房・忠光・盛嗣は壇ノ浦の戦い後に刑死となっております。
ちなみに吾妻鏡によると
壇ノ浦で入水したのは
①安徳天皇
②二位尼(平時子・平清盛の妻)
③平教盛(平忠盛の4男・清盛の異母弟)
④平知盛(清盛の4男)
⑤平経盛(平忠盛の3男・清盛の異母弟)
⑥平資盛(平重盛の次男)
⑦平有盛(平重盛の4男)
⑧平行盛(平基盛の長男)
生け捕りになった者は
①平宗盛(平家の総大将・清盛の3男)
②平清宗(平宗盛の長男)
③平能宗(平宗盛の次男)
④平時忠
⑤平信基
⑥平時実
⑦藤原尹明など
もともと平家一門のお墓は下関近辺に点在していたそうです。
しかし関門海峡で海難事故が多発したことにより『これは平家の怨念ではないか』と言われるようになったという。
そんなこんなで、赤間神宮の境内にお墓を集めたのがこの七盛塚といわれています。
芳一堂と耳なし芳一
●芳一堂
この赤間神宮は、小泉八雲の怪談・耳なし芳一の舞台としても有名な神社です。
そんなこんなで、堂内には山口県出身の彫刻家・押田政夫さんが彫刻した耳なし芳一像が祀られていました。
芳一像をよく見ると耳がもぎ取られています・・・。
そんなこんなで、何とも言えない寂しさと異様なオーラが漂うお堂になっておりました。
ちなみに芳一堂は平家一門のお墓の前に建っています。
その様は、まるで物語を再現しているかのようでした。
もしかしたら芳一は、現在も毎晩琵琶を弾き語って、平家の霊を慰めているのかも知れませんね。
24時間参拝OKなので、夜に参拝してみてはどうでしょ・・・(恐)
とまぁ、耳なし芳一の話にもあるように、な〜んとなく平家には怨霊というイメージが付いてまわります。
その代表格がこちら、はいドン!
平家一門の怨霊が乗り移ったといわれる平家蟹っ!
なんと甲羅が怒ってる人の顔になってるという!
苦悶に満ちた顔にも見えます。
壇ノ浦の戦いの後、いつの頃からか九州や瀬戸内海に住む人々の間で、奇妙な人面蟹が釣れるという噂が広がったのが怨霊伝説の始まりといわれています。
平家の怨霊が蟹になったという科学的な証拠はありませんが、やはり海底には平家の都があるのではないのか?という浪漫を感じてしまう私です。
その他、いくつかの平家の怨霊があります。
やだなぁ、こわいなぁ・・・(稲川淳二)
平家の皆さま、安らかにお眠りください。
この赤間神宮は、小泉八雲の怪談・耳なし芳一の舞台としても有名な神社です。
そんなこんなで、堂内には山口県出身の彫刻家・押田政夫さんが彫刻した耳なし芳一像が祀られていました。
芳一像をよく見ると耳がもぎ取られています・・・。
そんなこんなで、何とも言えない寂しさと異様なオーラが漂うお堂になっておりました。
●耳なし芳一とは?
今の赤間神宮が阿弥陀寺だったときのお話。
阿弥陀寺には芳一という盲目の琵琶の名手がいました。
芳一は琵琶の音に合わせて平家物語を語るのが得意でした。
特に壇ノ浦の戦いの語りは、聴く者すべてが涙するほどの腕前でした。
ある夏の夜。
和尚さんが出かけたので、芳一は1人お寺に残り琵琶の稽古をしていました。
すると『芳一・・・芳一・・・』
と呼ぶ声が聞こえました。
芳一は目が見えないため、そのお方の姿を確認することができません。
そのお方は芳一の弾き語りがあまりにも見事だったため『私のお連れの者にも聴かせたい』と頼みました。
それからというもの、芳一は毎夜お寺を抜け出しては平家物語を弾き語りしました。
ある晩、毎夜お寺を抜け出すことを不審に思ったお寺の方が芳一の後を追ってみることに・・・
するとなんと!
芳一は平家のお墓の前で琵琶を弾き語っていたという!
そう、芳一を誘っていたのは平家の亡霊でした!
そのことを知った住職は、芳一は平家の亡霊に取り憑かれたと悟りました。
そんなこんなで住職は、2度と亡霊について行かないように芳一の全身にくまなくお経を書きました。
そして芳一に『今後、亡霊に呼ばれても返事をするな』と命じました。
その晩、いつものように亡霊が現れ、芳一を連れだそうとしますが、全身にお経が書かれているため亡霊には芳一の姿が見えません。
『芳一・・・芳一・・・』
亡霊は芳一の名前を呼びますが、芳一は『呼ばれても返事をするな』と命じられているため返事をしませんでした。
しかし!
亡霊は宙に浮いた耳を発見しました!
なんと、住職は耳にお経を書くことを忘れていたのです。。
そんなこんなで、亡霊は『呼びに来た証拠に耳を持って帰ろう』と、芳一の耳をもぎ取って帰りました・・・。
次の日の朝、耳から血を流して倒れている芳一を見て、住職は耳にお経を書き忘れていたことに気付きました。。
その後、この噂が広まり芳一の名声は高まりました。
そして、今まで以上に芳一の琵琶を聴きにくる人が訪れるようになり、いつしか耳なし芳一と呼ばれるようになりました。
完。
今の赤間神宮が阿弥陀寺だったときのお話。
阿弥陀寺には芳一という盲目の琵琶の名手がいました。
芳一は琵琶の音に合わせて平家物語を語るのが得意でした。
特に壇ノ浦の戦いの語りは、聴く者すべてが涙するほどの腕前でした。
ある夏の夜。
和尚さんが出かけたので、芳一は1人お寺に残り琵琶の稽古をしていました。
すると『芳一・・・芳一・・・』
と呼ぶ声が聞こえました。
芳一は目が見えないため、そのお方の姿を確認することができません。
そのお方は芳一の弾き語りがあまりにも見事だったため『私のお連れの者にも聴かせたい』と頼みました。
それからというもの、芳一は毎夜お寺を抜け出しては平家物語を弾き語りしました。
ある晩、毎夜お寺を抜け出すことを不審に思ったお寺の方が芳一の後を追ってみることに・・・
するとなんと!
芳一は平家のお墓の前で琵琶を弾き語っていたという!
そう、芳一を誘っていたのは平家の亡霊でした!
そのことを知った住職は、芳一は平家の亡霊に取り憑かれたと悟りました。
そんなこんなで住職は、2度と亡霊について行かないように芳一の全身にくまなくお経を書きました。
そして芳一に『今後、亡霊に呼ばれても返事をするな』と命じました。
その晩、いつものように亡霊が現れ、芳一を連れだそうとしますが、全身にお経が書かれているため亡霊には芳一の姿が見えません。
『芳一・・・芳一・・・』
亡霊は芳一の名前を呼びますが、芳一は『呼ばれても返事をするな』と命じられているため返事をしませんでした。
しかし!
亡霊は宙に浮いた耳を発見しました!
なんと、住職は耳にお経を書くことを忘れていたのです。。
そんなこんなで、亡霊は『呼びに来た証拠に耳を持って帰ろう』と、芳一の耳をもぎ取って帰りました・・・。
次の日の朝、耳から血を流して倒れている芳一を見て、住職は耳にお経を書き忘れていたことに気付きました。。
その後、この噂が広まり芳一の名声は高まりました。
そして、今まで以上に芳一の琵琶を聴きにくる人が訪れるようになり、いつしか耳なし芳一と呼ばれるようになりました。
完。
ちなみに芳一堂は平家一門のお墓の前に建っています。
その様は、まるで物語を再現しているかのようでした。
もしかしたら芳一は、現在も毎晩琵琶を弾き語って、平家の霊を慰めているのかも知れませんね。
24時間参拝OKなので、夜に参拝してみてはどうでしょ・・・(恐)
とまぁ、耳なし芳一の話にもあるように、な〜んとなく平家には怨霊というイメージが付いてまわります。
その代表格がこちら、はいドン!
平家一門の怨霊が乗り移ったといわれる平家蟹っ!
なんと甲羅が怒ってる人の顔になってるという!
苦悶に満ちた顔にも見えます。
壇ノ浦の戦いの後、いつの頃からか九州や瀬戸内海に住む人々の間で、奇妙な人面蟹が釣れるという噂が広がったのが怨霊伝説の始まりといわれています。
平家の怨霊が蟹になったという科学的な証拠はありませんが、やはり海底には平家の都があるのではないのか?という浪漫を感じてしまう私です。
その他、いくつかの平家の怨霊があります。
●文治の大地震
平家が滅亡してから4ヶ月後。
1185年の7月に大地震が発生したそうです。
当時の人々はそれを安徳天皇と平家一門の怨霊と言って恐れたそうです。
●平家一門のお墓
1781〜1789年、関門海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった際、真夜中に海上を彷徨う落ち武者や女官の亡霊が目撃されたという!
人々はそれを平家の怨霊として恐れました。
その後、下関の各地に点在していた平家のお墓を阿弥陀寺(現・赤間神宮)の境内に集め、そしてお墓を京都の方角に向けて供養したところ嵐がおさまり亡霊も出なくなったという。
●源頼朝の死
北条九代記や保暦間記によると、1198年に源頼朝は鎌倉の稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊に出会ったという。
その後、源頼朝は病気になって翌年に亡くなったと記されているそうです。
平家が滅亡してから4ヶ月後。
1185年の7月に大地震が発生したそうです。
当時の人々はそれを安徳天皇と平家一門の怨霊と言って恐れたそうです。
●平家一門のお墓
1781〜1789年、関門海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった際、真夜中に海上を彷徨う落ち武者や女官の亡霊が目撃されたという!
人々はそれを平家の怨霊として恐れました。
その後、下関の各地に点在していた平家のお墓を阿弥陀寺(現・赤間神宮)の境内に集め、そしてお墓を京都の方角に向けて供養したところ嵐がおさまり亡霊も出なくなったという。
●源頼朝の死
北条九代記や保暦間記によると、1198年に源頼朝は鎌倉の稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊に出会ったという。
その後、源頼朝は病気になって翌年に亡くなったと記されているそうです。
やだなぁ、こわいなぁ・・・(稲川淳二)
平家の皆さま、安らかにお眠りください。
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)
●壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)
赤間神宮から徒歩10分のところには壇ノ浦古戦場跡があります。
現在、壇ノ浦古戦場跡はみもすそ川公園という名前の公園になっています。
ちなみにみもすそ川とは、壇ノ浦に入水した二位尼が詠んだ歌が由来です。
今ぞしる みもすそ川の おんながれ
波の下にも 都あり
みもすそ川は平清盛にも縁がある伊勢神宮を流れる五十鈴川の別名です。
二位尼は伊勢平氏の流れである安徳天皇に海の下に都がありますと詠っているのです。
泣けますねぇ。
●二位殿燈籠(広島県廿日市市宮島)
ちなみに二位尼の遺体は、広島県の宮島に流れ着いたといわれています。(諸説あり)
二位尼が流れ着いた宮島には平清盛が篤く信仰した厳島神社があります・・・これはスゴい運命ですね!
二位尼は平清盛の嫁はんですし!
厳島神社は海の都っぽいし!
●源義経・平知盛像
公園内には壇ノ浦を背後に源義経・平知盛像もあります。
壇ノ浦の戦いで、平家一門の最期を全て見届けた知盛さんは『見るべきものは全て見た』という名言を残し、重しのために2つの鎧を身にまとい、平家長さんと手を取り合って入水したといわれています。
享年34歳。
ちなみに北九州市門司区に鎮座する甲宗八幡宮に平知盛さんのお墓があります。
●NHK大河ドラマ・義経
その他、NHK大河ドラマ・義経に出演した俳優さんの手形もあります。
滝沢秀明さん(源義経役)の手形(左)
松坂慶子さん(二位尼役)の手形(右)
あと、小泉孝太郎さん(平資盛役)の手形と中越典子さん(建礼門院徳子役)の手形がありました。
●平家の一杯水
壇ノ浦古戦場跡から徒歩15分のところには平家の一杯があります。
ちなみにこの湧き水は、元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられるそうです。
●烏帽子岩
壇ノ浦古戦場跡から徒歩5分のところには烏帽子岩もあります。
ちなみに毎年12月10日に赤間神宮の神職さんや漁業関係者によって、航海安全・豊漁を祈願する関の海峡しめなわ祭が行われているそうです。
赤間神宮から徒歩10分のところには壇ノ浦古戦場跡があります。
現在、壇ノ浦古戦場跡はみもすそ川公園という名前の公園になっています。
ちなみにみもすそ川とは、壇ノ浦に入水した二位尼が詠んだ歌が由来です。
今ぞしる みもすそ川の おんながれ
波の下にも 都あり
みもすそ川は平清盛にも縁がある伊勢神宮を流れる五十鈴川の別名です。
二位尼は伊勢平氏の流れである安徳天皇に海の下に都がありますと詠っているのです。
泣けますねぇ。
●二位殿燈籠(広島県廿日市市宮島)
ちなみに二位尼の遺体は、広島県の宮島に流れ着いたといわれています。(諸説あり)
二位尼が流れ着いた宮島には平清盛が篤く信仰した厳島神社があります・・・これはスゴい運命ですね!
二位尼は平清盛の嫁はんですし!
厳島神社は海の都っぽいし!
●源義経・平知盛像
公園内には壇ノ浦を背後に源義経・平知盛像もあります。
壇ノ浦の戦いで、平家一門の最期を全て見届けた知盛さんは『見るべきものは全て見た』という名言を残し、重しのために2つの鎧を身にまとい、平家長さんと手を取り合って入水したといわれています。
享年34歳。
ちなみに北九州市門司区に鎮座する甲宗八幡宮に平知盛さんのお墓があります。
甲宗八幡宮の御朱印~源平ゆかりの神社~(福岡県北九州市門司区)
所在地福岡県北九州市門司区旧門司1丁目7−18祭 神応神天皇・神功皇后市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命由 緒860年、宇佐神宮の分霊を勧請し、神功皇后着用の甲(かぶと)を神体として創建したの...
●NHK大河ドラマ・義経
その他、NHK大河ドラマ・義経に出演した俳優さんの手形もあります。
滝沢秀明さん(源義経役)の手形(左)
松坂慶子さん(二位尼役)の手形(右)
あと、小泉孝太郎さん(平資盛役)の手形と中越典子さん(建礼門院徳子役)の手形がありました。
●平家の一杯水
壇ノ浦古戦場跡から徒歩15分のところには平家の一杯があります。
●平家の一杯水とは?
壇ノ浦の戦いの後、負傷した平家の武将が命からがらこの地に辿り着き水溜まりを見つけたという。
そしてその武将は渇いた喉を潤そうとしたのですが・・・
1口目は美味しく飲めた水が、2口目には海水に変わってしまったという・・・。
そしてその武将は力尽きて死にました。。
完。
壇ノ浦の戦いの後、負傷した平家の武将が命からがらこの地に辿り着き水溜まりを見つけたという。
そしてその武将は渇いた喉を潤そうとしたのですが・・・
1口目は美味しく飲めた水が、2口目には海水に変わってしまったという・・・。
そしてその武将は力尽きて死にました。。
完。
ちなみにこの湧き水は、元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられるそうです。
●烏帽子岩
壇ノ浦古戦場跡から徒歩5分のところには烏帽子岩もあります。
●烏帽子岩とは?
その昔、烏帽子岩が倒れたことがあったという。
それ以降、病気や災害が相次いで発生したんだって。
そんなこんなで、地元住民が倒れていた岩を元に戻してしめ縄をかけたところ、それまで起きていた災いがなくなったという。
その昔、烏帽子岩が倒れたことがあったという。
それ以降、病気や災害が相次いで発生したんだって。
そんなこんなで、地元住民が倒れていた岩を元に戻してしめ縄をかけたところ、それまで起きていた災いがなくなったという。
ちなみに毎年12月10日に赤間神宮の神職さんや漁業関係者によって、航海安全・豊漁を祈願する関の海峡しめなわ祭が行われているそうです。
先帝祭・源平船合戦・耳なし芳一まつり
●先帝祭
●先帝祭
・毎年5月2日〜4日
・下関市指定無形民俗文化財
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の女官たちは遊女に身を落しながらも、毎年、安徳天皇の命日は欠かさず参拝をしていたといいます。
それが先帝祭の始まりといわれています。
先帝祭のメインイベントは5月3日の上臈道中。
昔、遊郭があった場所から神社までを花魁が歩きます。
●源平船合戦
●源平船合戦
・毎年5月3日
甲冑姿の武者や女官が数十隻のいくさ船で源平合戦を再現するお祭りです。
ちなみに、安徳帝・静御前・武蔵坊弁慶・源平武者などの出演者は一般公募で選出されます。
●源平night in 赤間神宮
●源平night in 赤間神宮
・毎年10月の毎土曜日
ライトアップされた赤間神宮の大階段で、源平合戦や巌流島の戦いや明治維新の動乱など下関で起きた様々な歴史のシーンを演じる舞台劇です。
通称・下関の夜の宝塚といわれています。
●耳なし芳一まつり
●耳なし芳一まつり
・毎年7月15日
耳なし芳一像の前で、慰霊祭や琵琶奏者による演奏などが行われます。
●先帝祭
・毎年5月2日〜4日
・下関市指定無形民俗文化財
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の女官たちは遊女に身を落しながらも、毎年、安徳天皇の命日は欠かさず参拝をしていたといいます。
それが先帝祭の始まりといわれています。
先帝祭のメインイベントは5月3日の上臈道中。
昔、遊郭があった場所から神社までを花魁が歩きます。
●源平船合戦
●源平船合戦
・毎年5月3日
甲冑姿の武者や女官が数十隻のいくさ船で源平合戦を再現するお祭りです。
ちなみに、安徳帝・静御前・武蔵坊弁慶・源平武者などの出演者は一般公募で選出されます。
●源平night in 赤間神宮
●源平night in 赤間神宮
・毎年10月の毎土曜日
ライトアップされた赤間神宮の大階段で、源平合戦や巌流島の戦いや明治維新の動乱など下関で起きた様々な歴史のシーンを演じる舞台劇です。
通称・下関の夜の宝塚といわれています。
●耳なし芳一まつり
●耳なし芳一まつり
・毎年7月15日
耳なし芳一像の前で、慰霊祭や琵琶奏者による演奏などが行われます。
鎮守八幡宮と大連神社と紅石稲荷神社
●日本西門鎮守八幡宮
●日本西門鎮守八幡宮(境内社)
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
・御祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
仁徳天皇
玉依姫
859年、奈良・大安寺の僧・行教が、宇佐八幡宮(大分)から石清水八幡宮(京都)に分霊を勧請する際、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに創建したのが始まりといわれています。
●大連神社
●大連神社(境内社)
・1980年移築
・銅板葺 唐破風向拝付き入母屋造
・御祭神 天照皇大神
大国主大神
明治天皇
靖国神
もともとこの神社は、日本の租借地だった中国の大連市に鎮座していたらしく、大連に住む日本人が氏神として崇敬した神社といわれています。
1947年、御神体を日本に持ち帰り再建したのが現在の大連神社といわれています。
●紅石稲荷神社
●紅石稲荷神社
・1984年建立
・銅板葺 妻入り切妻造
・御祭神 稲荷大明神
平家一門が安徳天皇を奉じて西走する際、守り神として京都の伏見稲荷大明神を勧請して船に乗せたそうです。
そして壇之浦に到着したとき、眺めのよい紅石山の地を選んで神霊を安置。
それが紅石稲荷神社の始まりといわれています。
ちなみに紅石稲荷神社と書いてべにし稲荷神社と読みます。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
●日本西門鎮守八幡宮(境内社)
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
・御祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
仁徳天皇
玉依姫
859年、奈良・大安寺の僧・行教が、宇佐八幡宮(大分)から石清水八幡宮(京都)に分霊を勧請する際、日本の西門の守り神として阿弥陀寺とともに創建したのが始まりといわれています。
●大連神社
●大連神社(境内社)
・1980年移築
・銅板葺 唐破風向拝付き入母屋造
・御祭神 天照皇大神
大国主大神
明治天皇
靖国神
もともとこの神社は、日本の租借地だった中国の大連市に鎮座していたらしく、大連に住む日本人が氏神として崇敬した神社といわれています。
1947年、御神体を日本に持ち帰り再建したのが現在の大連神社といわれています。
●紅石稲荷神社
●紅石稲荷神社
・1984年建立
・銅板葺 妻入り切妻造
・御祭神 稲荷大明神
平家一門が安徳天皇を奉じて西走する際、守り神として京都の伏見稲荷大明神を勧請して船に乗せたそうです。
そして壇之浦に到着したとき、眺めのよい紅石山の地を選んで神霊を安置。
それが紅石稲荷神社の始まりといわれています。
ちなみに紅石稲荷神社と書いてべにし稲荷神社と読みます。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・赤間神宮の御朱印
・日本西門鎮守八幡宮の御朱印
・大連神社の御朱印
・紅石稲荷神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・授与所
●御朱印の受付時間
・8:30~17:00
●御朱印の料金
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・春季限定御朱印
・日本西門鎮守八幡宮式年祭限定御朱印
●オリジナル御朱印帳
●水天門と大安殿
・サイズ 16cm × 11cm
・色 紫と朱の2種類
・初穂料 1500円
●水天門と蘭陵王
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 2000円
●印伝
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 1500円
●先帝祭限定御朱印帳
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 1500円
・2022年4月 更新
・赤間神宮の御朱印
・日本西門鎮守八幡宮の御朱印
・大連神社の御朱印
・紅石稲荷神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・授与所
●御朱印の受付時間
・8:30~17:00
●御朱印の料金
・各300円
●期間限定・特別御朱印
・春季限定御朱印
・日本西門鎮守八幡宮式年祭限定御朱印
●オリジナル御朱印帳
●水天門と大安殿
・サイズ 16cm × 11cm
・色 紫と朱の2種類
・初穂料 1500円
●水天門と蘭陵王
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 2000円
●印伝
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 1500円
●先帝祭限定御朱印帳
・サイズ 18cm × 12cm
・初穂料 1500円
・2022年4月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・境内無料
●宝物殿
・時間 9:00~17:00
・料金 100円
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩40分
・JR下関駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
赤間神宮前 バス停から徒歩すぐ
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(40台)
・境内自由
●拝観料
・境内無料
●宝物殿
・時間 9:00~17:00
・料金 100円
●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩40分
・JR下関駅から車で10分
●最寄りのバス停
・サンデン交通
赤間神宮前 バス停から徒歩すぐ
●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
下関ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(40台)