光悦寺の御朱印情報~京都府京都市北区鷹峯光悦町29~

住 所京都府京都市北区鷹峯光悦町29
宗 派日蓮宗
由 緒1615年、芸術家・本阿弥光悦は徳川家康から鷹峯の地を与えられ、本阿弥一族や町衆・職人などの法華宗徒仲間を率いて移住しました。朝廷とつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の意図だったとも言われてます。当時この地は、辻斬り追い剥ぎが出没する物騒な地でしたが、本阿弥一族や様々な工芸職人らが移り住み芸術の集落となりました。そんなこんなで、光悦の死後、屋敷をお寺にしたのが始まりとのことです。
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境内

●江戸初期の芸術家・本阿弥光悦ゆかりのお寺です。

●境内入口

徳川家康からこの地を与えられた本阿弥光悦。本阿弥一族が移り住むまでは、この地は辻斬り追い剥ぎが出没する物騒な地だったんだと。一説によれば、朝廷とつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の意図だったとか。そんな意図を知ってか知らぬか、光悦は芸術仲間・弟子・職人衆と共にこの地に移り住み、55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったそうです。そんなこんなで、本阿弥光悦の死後、光悦の屋敷をお寺にしたのが始まりとのことです。


●参道

参道には菱形の敷石。境内はピリついた感じがなく、優しい空気に包まれてます。


●鐘楼

寄棟造の茅葺の鐘楼。優しいフォルムですなぁ。音色も優しそうです。


●本堂

銅板葺の入母屋造。欲をいえば本堂も茅葺にして欲しかったなぁ。このお寺には銅板葺が似合わない・・・とか思ってみたり。

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茶室

●境内には7つも茶室があります

境内には7つの茶室がありますが、内部拝観は行われておらず、全て外観を観賞するのみです。

●大虚庵

・1915年再建
・道具商・土橋嘉兵衛が寄付
・速水宗汲が設計
当時の大虚庵は光悦の死後に取り壊されたそうです。


●三巴亭

・1921年建立
・数奇屋造
仏壇には光悦の木像が安置されてるそうです。


●本阿弥庵と了寂軒

左 → 本阿弥庵
右 → 了寂軒


数歩歩くと茶室。また茶室。もしかして茶室。あれも茶室。まさかと思ったらまた茶室。どうしたものかまた茶室。 どうにもこうにも茶室だらけ。

本堂まではよかったけど、気が付きゃ茶室だらけで全くお寺にいる気がしないという(笑)たまにはこういうお寺もいいですなぁ。

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本阿弥光悦のお墓

●本阿弥光悦のお墓



●本阿弥光悦とは
本阿弥光悦とは、江戸時代初期の芸術家です。 寛永の三筆の1人で、書流・光悦流の祖です。

刀剣を鑑定してきた名家に生まれた光悦は、幼いころから家業を通して、 あらゆる工芸の知識を身に付けました。工芸品以外にも書画・能面・庭など、さまざまな芸術作品を創造するマルチアーティストです。

徳川家康から鷹ヶ峰の地を与えられた光悦は、 この地に本阿弥一族・芸術仲間・弟子・職人衆と共に移り住み、 一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったそうです。

代表作は、国宝・不二山、国宝・舟橋蒔絵硯箱、名勝・本法寺庭園(巴の庭)など。

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光悦垣

●もしかしたら光悦垣が最大の見所かもしれません



●光悦垣
光悦垣とは、割り竹を菱形に組んで、頂部に割り竹の束を乗せた竹垣です。 緩やかに曲線を描きながら高さが変わるのが特徴です。

今まで竹垣に無関心でしたが、このお寺で初めて竹垣に興味を持ちました。
竹垣にはいろんな種類があって、金閣寺には金閣寺垣、建仁寺には建仁寺垣、大徳寺垣、龍安寺垣などなど。垣巡りするのもなかなかオツかもしれませんなぁ。

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鷹峯三山

●境内からは鷹峯三山を望むことができます



左から鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰とのことですが、鷹ヶ峰と鷲ヶ峰の間のちょっとだけ頭をのぞかせている山を鷲ヶ峰だと勘違いしてまして・・・そんなこんなで、天ヶ峰は写っていません。



紅葉の名所とのことなので、今度は紅葉シーズンに来てみたいです。

ひと足のばして

御朱印


御朱印は拝観受付で頂きました。

光悦寺の地図

 

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