所在地 | 愛媛県松山市鷹子町1198 |
---|---|
宗 派 | 真言宗豊山派 |
札 所 | ・四国八十八ヶ所 第49番 ・伊予十三仏霊場 第2番 |
前後札所 | ・前 → 第48番札所・西林寺 ・後 → 第50番札所・繁多寺 |
本 尊 | 釈迦如来 |
真 言 | のうまく さんまんだ ぼだなん ばく |
由 緒 | 748~756年、孝謙天皇の勅願により恵明上人が開基。その後、空海(弘法大師)がこの地を訪れた際、荒廃していた伽藍を再興して第49番札所に定めたそうです。その後、957〜960年に浄土教の先駆者・空也上人が3年間滞在。1192年、源頼朝が家門の繁栄を祈願して堂塔を修復。しかし、1416年の兵火でほとんどの堂宇を焼失してしまったという。その後、1482年に伊予の豪族・河野通宣が祈願所として再建し、現在に至るそうです。 |
HP | 西林山 三蔵院 浄土寺 – 四国八十八ヶ所霊場会 |
浄土寺とは?
四国八十八ヶ所の第49番札所であります浄土寺に到着。
第48番札所・西林寺から3km。
徒歩40分。
車で6分のところに位置しています。
浄土寺と書いてじょうどじと読みます。
●浄土寺とは?
748~756年、女帝・孝謙天皇の勅願により恵明上人が開基。
その際、行基が刻んだ釈迦如来像を本尊として安置したという。
ちなみに、創建当初は法相宗の寺院だったそうです。
その後、弘法大師がこの地を訪れ、荒廃していた伽藍を再興して真言宗に改宗。
そして、四国八十八ヶ所の第49番札所に定めたそうです。
その後、寺運は大いに栄え、最盛時には66の末寺を持つ大寺院に発展。
さらに、寺域は約873m × 873mにも広がったという。
957〜960年、浄土教の先駆者・空也上人が3年間滞在。
空也上人は、この地で村人たちに浄土の教えを説き、布教活動を行っていたそうです。
1192年、源頼朝が家門の繁栄を祈願し、堂塔を修復したそうです。
しかし、1416年の兵火により焼失。。
その後、1482年に伊予の豪族・河野通宣が祈願所として再建。
現在の本堂はそのときのものといわれています。
1649年、大規模な修繕工事が行われ、さらに1961年には解体修理が行われ、現在に至ります。
748~756年、女帝・孝謙天皇の勅願により恵明上人が開基。
その際、行基が刻んだ釈迦如来像を本尊として安置したという。
ちなみに、創建当初は法相宗の寺院だったそうです。
その後、弘法大師がこの地を訪れ、荒廃していた伽藍を再興して真言宗に改宗。
そして、四国八十八ヶ所の第49番札所に定めたそうです。
その後、寺運は大いに栄え、最盛時には66の末寺を持つ大寺院に発展。
さらに、寺域は約873m × 873mにも広がったという。
957〜960年、浄土教の先駆者・空也上人が3年間滞在。
空也上人は、この地で村人たちに浄土の教えを説き、布教活動を行っていたそうです。
1192年、源頼朝が家門の繁栄を祈願し、堂塔を修復したそうです。
しかし、1416年の兵火により焼失。。
その後、1482年に伊予の豪族・河野通宣が祈願所として再建。
現在の本堂はそのときのものといわれています。
1649年、大規模な修繕工事が行われ、さらに1961年には解体修理が行われ、現在に至ります。
そんなこんなで、参拝開始。
仁王門と手水舎と鐘楼
本日はレンタサイクル遍路をしています。
そんなこんなで、大街道にあるレンタサイクル屋さんで自転車をお借りし、自転車をこぐこと約7~8キロ。
適当に自転車をこいだわりにはピンポイントかつ正確に第49番礼所・浄土寺に到着。
●山門(仁王門)
●山門(仁王門)
・1929年建立
・瓦葺 軒唐破風 入母屋造
・三間一戸 楼門造
まず最初に登場するのは立派な楼門。
門の両サイドに仁王さんが安置されていますので、こちらは仁王門となります。
楼門に軒唐破風を設けているところが面白いなぁっと思った次第です。
あと、門には仁王さんのマストアイテムである草鞋がたくさん奉納されていました。
扁額には山号の西林山。
前札所が西林寺だったので、ちょっぴりややこしさを感じつつ。
西林寺に行きたかったのに、西林山に来ちゃったよー!
とかいう人は、さすがにいないか!
そんなこんなで、仁王さんにご挨拶。
それにしてもカッコいい仁王さんでした!
表情、ポージング、肉体美、バランス、どこを切りとって見ても完璧過ぎてツッコミどころがないという!
ただただ目をハートにして観察していたひと時でした。
●手水舎
●手水舎
・建立年不明
・瓦葺 切妻造
そんなこんなで、仁王門をくぐって境内へ。
そして手水舎でお清め。
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
続いて、鐘楼で鐘をひと撞き。
御本尊さまとお大師さまにご挨拶。
本堂
●本堂
●本堂
・1484年建立
・瓦葺 寄棟造
・河野通宣 寄進
・国指定重要文化財
●本尊
・釈迦如来
●真言
・のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
続いて、本堂で参拝。
これこれこれ!
このお堂にお会いするのを楽しみにしていたのですよ!
四国遍路を始めた瞬間から、高知の竹林寺とともにずーっと気になっていたお堂なのですよ!
49番・・・ここに辿り着くまで長かった〜。
そんなこんなで、本堂鑑賞。
柱は全て円柱で、柱上には平三斗。
正面は両開き桟唐戸。
両端の1間は引違い格子板戸を吊込み、四方に切目縁をめぐらせてありました。
全体的にシンプルでゴチャゴチャした装飾はなく、とても品のあるお堂。
何より見た目のバランスが抜群で胸キュンです。
私がもしお堂だったなら求婚してる。
古建築フェチにとってはたまんないね。
●本堂 厨子
・1484年建立
・板葺 妻入り入母屋造
・国指定重要文化財
ちなみに、堂内の厨子も1484年建立で国重文に指定されています。
残念ながら堂内は一般公開していないため、厨子を拝観することはできませんでした。
説明板によると、厨子は妻入の入母屋造。
屋根は板葺で垂木は二軒扇。
繊細優美で禅宗様の秀作と書かれておりました。
ちなみに、厨子の壁面には辺路(遍路)と書かれた落書きがあるんだって。
その落書きは、昔のお遍路さんが書いたものらしいですよ。
なんと、その落書きには大永五年(1525年)と書かれた年号もあるんだとか!
厨子も貴重ですが、お遍路さんの歴史を知るうえでもこの落書きは貴重なものなんだと思いました!
以前、京都のお寺さんで落書きも含めて文化財!という説明を受けましたが、まさにこの厨子もそういうことなんだね。
本尊は釈迦如来さん。
このお寺の正式名称は西林山 三蔵院 浄土寺。
院号の三蔵院とは、浄土宗の開祖・法然上人と第二祖・聖光上人と第三祖・良忠上人にちなんだものなんだって。
そんなこんなで、もともとこのお堂には法然・聖光・良忠の自作像が安置されていたそうですが、1945年の松山空襲で焼失してしまったそうです。
・・・って、あれ!?
本堂は生き残ってるのに、なんでこの3像だけ焼失してるのだぃ???
と思ったら、空襲の当日、この3像は松山市内で出張開帳を行っていたそうです・・・。
なんという運命・・・。。
●不動明王立像
~画像は説明板より~
●不動明王立像(三尺不動)
・平安時代後期作
・像高 94.4cm
・一木造
・松山市指定有形文化財
(光背と二童子は1756年作)
本堂内には、本尊・釈迦如来さんの他に市重文の不動明王さんもおられるみたいですよ。
●空也上人像
~画像は説明板より~
●空也上人像
・鎌倉時代作
・像高 121.5cm
・彩色 玉眼 寄木造
・国指定重要文化財
そしてなんと、本堂内には空也上人像がおられるという!
しかし一般公開されていないため、拝観することはできず・・・残念。
ということで、説明板の写真を見ながら空也上人像を鑑賞することに。
左手に鹿杖。
右手に撞木。
曲がった腰と痩せた身体。
そして口からは、空也上人のトレードマークである6体の阿弥陀像!
この6体の阿弥陀像は南無阿弥陀仏を表現していています。
そんなこんなで、念仏を唱えながら、撞木で鉦を叩き、行脚する姿はまさに空也さんの生き写し!
~画像は京都・六波羅密寺 2009年6月27日撮影~
空也上人像といえば京都・六波羅密寺があまりにも有名ですが、全国にはこのような空也上人像が数体現存しているという。
そのうち、国重文に指定されているのは4体。
①六波羅蜜寺(京都)
②月輪寺(京都)
③荘厳寺(滋賀)
④浄土寺(愛媛)
残念ながら浄土寺の空也上人像は一般公開していませんが、説明板の写真を見る限り、他の空也像と同じくインパクト大の上人像となっております。
●本堂
・1484年建立
・瓦葺 寄棟造
・河野通宣 寄進
・国指定重要文化財
●本尊
・釈迦如来
●真言
・のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
続いて、本堂で参拝。
これこれこれ!
このお堂にお会いするのを楽しみにしていたのですよ!
四国遍路を始めた瞬間から、高知の竹林寺とともにずーっと気になっていたお堂なのですよ!
49番・・・ここに辿り着くまで長かった〜。
そんなこんなで、本堂鑑賞。
柱は全て円柱で、柱上には平三斗。
正面は両開き桟唐戸。
両端の1間は引違い格子板戸を吊込み、四方に切目縁をめぐらせてありました。
全体的にシンプルでゴチャゴチャした装飾はなく、とても品のあるお堂。
何より見た目のバランスが抜群で胸キュンです。
私がもしお堂だったなら求婚してる。
古建築フェチにとってはたまんないね。
●本堂 厨子
・1484年建立
・板葺 妻入り入母屋造
・国指定重要文化財
ちなみに、堂内の厨子も1484年建立で国重文に指定されています。
残念ながら堂内は一般公開していないため、厨子を拝観することはできませんでした。
説明板によると、厨子は妻入の入母屋造。
屋根は板葺で垂木は二軒扇。
繊細優美で禅宗様の秀作と書かれておりました。
ちなみに、厨子の壁面には辺路(遍路)と書かれた落書きがあるんだって。
その落書きは、昔のお遍路さんが書いたものらしいですよ。
なんと、その落書きには大永五年(1525年)と書かれた年号もあるんだとか!
厨子も貴重ですが、お遍路さんの歴史を知るうえでもこの落書きは貴重なものなんだと思いました!
以前、京都のお寺さんで落書きも含めて文化財!という説明を受けましたが、まさにこの厨子もそういうことなんだね。
本尊は釈迦如来さん。
このお寺の正式名称は西林山 三蔵院 浄土寺。
院号の三蔵院とは、浄土宗の開祖・法然上人と第二祖・聖光上人と第三祖・良忠上人にちなんだものなんだって。
そんなこんなで、もともとこのお堂には法然・聖光・良忠の自作像が安置されていたそうですが、1945年の松山空襲で焼失してしまったそうです。
・・・って、あれ!?
本堂は生き残ってるのに、なんでこの3像だけ焼失してるのだぃ???
と思ったら、空襲の当日、この3像は松山市内で出張開帳を行っていたそうです・・・。
なんという運命・・・。。
●不動明王立像
~画像は説明板より~
●不動明王立像(三尺不動)
・平安時代後期作
・像高 94.4cm
・一木造
・松山市指定有形文化財
(光背と二童子は1756年作)
本堂内には、本尊・釈迦如来さんの他に市重文の不動明王さんもおられるみたいですよ。
●空也上人像
~画像は説明板より~
●空也上人像
・鎌倉時代作
・像高 121.5cm
・彩色 玉眼 寄木造
・国指定重要文化財
そしてなんと、本堂内には空也上人像がおられるという!
しかし一般公開されていないため、拝観することはできず・・・残念。
ということで、説明板の写真を見ながら空也上人像を鑑賞することに。
左手に鹿杖。
右手に撞木。
曲がった腰と痩せた身体。
そして口からは、空也上人のトレードマークである6体の阿弥陀像!
この6体の阿弥陀像は南無阿弥陀仏を表現していています。
そんなこんなで、念仏を唱えながら、撞木で鉦を叩き、行脚する姿はまさに空也さんの生き写し!
~画像は京都・六波羅密寺 2009年6月27日撮影~
空也上人像といえば京都・六波羅密寺があまりにも有名ですが、全国にはこのような空也上人像が数体現存しているという。
そのうち、国重文に指定されているのは4体。
①六波羅蜜寺(京都)
②月輪寺(京都)
③荘厳寺(滋賀)
④浄土寺(愛媛)
残念ながら浄土寺の空也上人像は一般公開していませんが、説明板の写真を見る限り、他の空也像と同じくインパクト大の上人像となっております。
空也上人とは?
●空也上人とは?
空也上人とは平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者です。
南無阿弥陀仏を唱えながら全国をまわり、各地で民間浄土教の布教に努めた遊行僧ならびに念仏聖です。
布教のみならず、道中で道が荒れていたら道路を補修し、また橋を架け、さらには井戸を掘ったりして民衆を救いました。
また広野に棄てられた死体を火葬し、南無阿弥陀仏を唱えて供養したりもしました。
民衆はそんな空也上人を市の聖として慕ったといわれています。
●空也上人と浄土寺
空也上人は、957〜960年の約3年間この地に滞在し、村人たちに浄土の教えを説き、布教活動を行っていたといわれています。
浄土寺の近くには空也上人が修行した空也谷と、空也上人お手植えの松の根株が残されています。
また境内入口には
霜月の空也は骨に生きにける
と刻まれた正岡子規の句碑があります。
これは、空也上人は骨になっても念仏の教えは今も生きているという意味なんだって。
●空也上人と一遍上人
空也上人の死後、その教えは伊予国出身の一遍上人に引き継がれることとなり、時宗として全国に念仏の教えが広がっていくことになります。
ちなみに、浄土寺から約5km離れた地に、一遍上人の誕生地であります宝厳寺があります。
空也上人とは平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者です。
南無阿弥陀仏を唱えながら全国をまわり、各地で民間浄土教の布教に努めた遊行僧ならびに念仏聖です。
布教のみならず、道中で道が荒れていたら道路を補修し、また橋を架け、さらには井戸を掘ったりして民衆を救いました。
また広野に棄てられた死体を火葬し、南無阿弥陀仏を唱えて供養したりもしました。
民衆はそんな空也上人を市の聖として慕ったといわれています。
●空也上人伝説
●空也上人伝説①
当時、空也上人は第60代・醍醐天皇、もしくは第54代・仁明天皇の落胤なのでは?という噂があったそうですが、本人はその出自を一切語らなかったといわれています。
●空也上人伝説②
ある日、空也上人が親しんでいた鹿を定盛という猟師が射殺してしまったという。
それを悲しんだ空也上人は、その鹿の皮を衣にし、そして角を杖の先の飾りとし、肌身離さず持っていたといわれています。
そんなこんなで、空也上人像のあのファッションは親しんだ鹿の形見だったのですね。
ちなみに、猟師の定盛は殺生を悔いて、空也上人の弟子になったといわれています。
●空也上人伝説③
空也上人は、京都御所の近くに住んでいる老婆のもとを度々通っていたという。
その老婆は身寄りもなく病気がち・・・。
そんなこんなで、空也上人は老婆のもとに食事運んでいたそうです。
その甲斐あって、老婆は少しずつ元気を取り戻して行きました。
しかしある日、いつものように食事を持って行くと、老婆の様子がおかしいことに気付く・・・
老婆の顔は赤く火照っていたという・・・
そこで空也上人は『体調が悪いのですか?』と問いますが、老婆はなかなか答えず・・・
何度も何度も問いただすと・・・老婆は恥ずかしそうに答えました。
『抱いてほしい・・・♡』と・・・
しかし、空也上人は慌てない。
それどころか、望みを叶えるために老婆を抱くことにしました!
しかしその瞬間、老婆は狐に化け『あなたは真の聖者じゃ』といって姿を消してしまいました。
完。
●空也上人伝説①
当時、空也上人は第60代・醍醐天皇、もしくは第54代・仁明天皇の落胤なのでは?という噂があったそうですが、本人はその出自を一切語らなかったといわれています。
●空也上人伝説②
ある日、空也上人が親しんでいた鹿を定盛という猟師が射殺してしまったという。
それを悲しんだ空也上人は、その鹿の皮を衣にし、そして角を杖の先の飾りとし、肌身離さず持っていたといわれています。
そんなこんなで、空也上人像のあのファッションは親しんだ鹿の形見だったのですね。
ちなみに、猟師の定盛は殺生を悔いて、空也上人の弟子になったといわれています。
●空也上人伝説③
空也上人は、京都御所の近くに住んでいる老婆のもとを度々通っていたという。
その老婆は身寄りもなく病気がち・・・。
そんなこんなで、空也上人は老婆のもとに食事運んでいたそうです。
その甲斐あって、老婆は少しずつ元気を取り戻して行きました。
しかしある日、いつものように食事を持って行くと、老婆の様子がおかしいことに気付く・・・
老婆の顔は赤く火照っていたという・・・
そこで空也上人は『体調が悪いのですか?』と問いますが、老婆はなかなか答えず・・・
何度も何度も問いただすと・・・老婆は恥ずかしそうに答えました。
『抱いてほしい・・・♡』と・・・
しかし、空也上人は慌てない。
それどころか、望みを叶えるために老婆を抱くことにしました!
しかしその瞬間、老婆は狐に化け『あなたは真の聖者じゃ』といって姿を消してしまいました。
完。
●空也上人と浄土寺
空也上人は、957〜960年の約3年間この地に滞在し、村人たちに浄土の教えを説き、布教活動を行っていたといわれています。
浄土寺の近くには空也上人が修行した空也谷と、空也上人お手植えの松の根株が残されています。
また境内入口には
霜月の空也は骨に生きにける
と刻まれた正岡子規の句碑があります。
これは、空也上人は骨になっても念仏の教えは今も生きているという意味なんだって。
●空也上人と一遍上人
空也上人の死後、その教えは伊予国出身の一遍上人に引き継がれることとなり、時宗として全国に念仏の教えが広がっていくことになります。
ちなみに、浄土寺から約5km離れた地に、一遍上人の誕生地であります宝厳寺があります。
宝厳寺の御朱印~時宗の開祖・一遍上人の生誕地~(愛媛県松山市道後湯月町)
所在地愛媛県松山市道後湯月町5−4宗 派時宗由 緒665年、斉明天皇の勅願により伊予国司・越智守興が創建したお寺とのことです。創建当初は法相宗でしたが、平安時代中期に天台宗に改宗。1239年、このお寺の...
大師堂と阿弥陀堂と愛染堂
●大師堂
●大師堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
このページ・・・
空也上人が盛りだくさんで、すっかり影が薄くなってしまったお大師さま。。
お大師さま、スミマセンでした!
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
ということで、いつもより多めに唱える・・・うぅ~ん、ダメだこの発想。。(笑)
●阿弥陀堂と愛染堂
その他、境内には阿弥陀堂と愛染堂がありました。
そんなこんなで参拝後、仁王門近くのアリスクリンの出店へ。
そして、仁王門横のベンチに座ってペロペロと食していました。
するとお遍路さんが話しかけてくれました。
ということで、いろんなお話しをして談笑をしていたひと時。
するとお遍路さんは、友情の証としてキーホルダーをくれました。
ジョーダンじゃナイヨ・・・って(笑)
泣けるなぁ・・・
四国遍路は、人の温かさに触れることが多々あるので、たまに泣けてきます!
お遍路をしていて良かったと、心から思ったひと時。
そんなこんなで、リュックにキーホルダーを装着して、次の札所に向けて自転車をこぎました。
ありがとう、あのときのお遍路さん!
ちなみに、あれから数年間リュックにぶら下げて過ごしていましたが、いつの間にかなくなっていました(おいっ)
ごめんなさい、あのときのお遍路さん!
そんなこんなで、参拝終了。
第50番・繁多寺へ続く。
●大師堂
・建立年不明
・瓦葺 寄棟造
・本尊 弘法大師
続いて、大師堂を参拝。
このページ・・・
空也上人が盛りだくさんで、すっかり影が薄くなってしまったお大師さま。。
お大師さま、スミマセンでした!
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
南無大師遍照金剛・・・
ということで、いつもより多めに唱える・・・うぅ~ん、ダメだこの発想。。(笑)
●阿弥陀堂と愛染堂
その他、境内には阿弥陀堂と愛染堂がありました。
そんなこんなで参拝後、仁王門近くのアリスクリンの出店へ。
そして、仁王門横のベンチに座ってペロペロと食していました。
するとお遍路さんが話しかけてくれました。
ということで、いろんなお話しをして談笑をしていたひと時。
するとお遍路さんは、友情の証としてキーホルダーをくれました。
ジョーダンじゃナイヨ・・・って(笑)
泣けるなぁ・・・
四国遍路は、人の温かさに触れることが多々あるので、たまに泣けてきます!
お遍路をしていて良かったと、心から思ったひと時。
そんなこんなで、リュックにキーホルダーを装着して、次の札所に向けて自転車をこぎました。
ありがとう、あのときのお遍路さん!
ちなみに、あれから数年間リュックにぶら下げて過ごしていましたが、いつの間にかなくなっていました(おいっ)
ごめんなさい、あのときのお遍路さん!
そんなこんなで、参拝終了。
第50番・繁多寺へ続く。
次の札所
繁多寺の御朱印|四国霊場 第50番|一遍上人の修行地ならびに徳川家ゆかりのお寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(愛媛県松山市)
所在地愛媛県松山市畑寺町32宗 派真言宗豊山派札 所四国八十八ヶ所 第50番前後札所・前 → 第49番札所・浄土寺・後 → 第51番札所・石手寺本 尊薬師如来真 言おん ころ...
御朱印情報
●御朱印の種類
・四国八十八ヶ所の御朱印
・奥之院 牛之峰地蔵堂の御朱印
・伊予十三仏霊場の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・奥之院 牛之峰地蔵堂 300円
・伊予十三仏霊場 300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2010年7月18日 参拝
・2024年3月 最終更新
・四国八十八ヶ所の御朱印
・奥之院 牛之峰地蔵堂の御朱印
・伊予十三仏霊場の御朱印
●御朱印の受付場所
・納経所
●御朱印の受付時間
・7:00~17:00
●御朱印の料金
・四国八十八ヶ所 500円
・奥之院 牛之峰地蔵堂 300円
・伊予十三仏霊場 300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2010年7月18日 参拝
・2024年3月 最終更新
繁多寺の御朱印|四国霊場 第50番|一遍上人の修行地ならびに徳川家ゆかりのお寺|四国八十八ヶ所 車遍路の旅(愛媛県松山市)
所在地愛媛県松山市畑寺町32宗 派真言宗豊山派札 所四国八十八ヶ所 第50番前後札所・前 → 第49番札所・浄土寺・後 → 第51番札所・石手寺本 尊薬師如来真 言おん ころ...
参拝情報とアクセス
●拝観料
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第48番札所・西林寺へ3km
徒歩40分
車で6分
・第50番札所・繁多寺へ2.3km
徒歩25分
車で8分
●最寄りの駅
・伊予鉄道(横河原線)
久米駅から徒歩10分
●最寄りのバス停
・伊予鉄バス
久米 バス停で下車 徒歩5分
●最寄りのIC
・松山自動車道
松山ICから車で20分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり
●駐車場台数
・普通車 20台
・バス 4台
●駐車料金
・普通車 200円
・ワゴン 200円
・マイクロバス 500円
・大型バス 1000円
・無料
●宿坊
・なし
●前後札所
・第48番札所・西林寺へ3km
徒歩40分
車で6分
・第50番札所・繁多寺へ2.3km
徒歩25分
車で8分
●最寄りの駅
・伊予鉄道(横河原線)
久米駅から徒歩10分
●最寄りのバス停
・伊予鉄バス
久米 バス停で下車 徒歩5分
●最寄りのIC
・松山自動車道
松山ICから車で20分
●駐車場
・有料の専用駐車場あり
●駐車場台数
・普通車 20台
・バス 4台
●駐車料金
・普通車 200円
・ワゴン 200円
・マイクロバス 500円
・大型バス 1000円