長門国 厳島神社の御朱印|高杉晋作が戦勝祈願した神社|小倉戦争の戦利品・大太鼓が見所(山口県下関市)

所在地山口県下関市上新地町1丁目1−11
祭 神市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命
由 緒平安時代末期、平家の守護神として安芸国・厳島神社の分霊を安徳天皇の御座船に祀っていたという。 しかし平家は壇ノ浦の戦いで破れて滅亡してしまいました。敗戦後、しばらくの間、厳島神社の分霊は磯辺に放棄されていたといいます。ある日、里人に『吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり』と神託があり、不思議に思いながらその場所に行ってみると、磯辺に御鏡と太刀が放棄されていたという。そんなこんなで、1185年に住民たちが社殿を建立し、 改めて安芸国・厳島神社より分霊を勧請したそうです。それがこの神社の始まりといいます。
HP長門國 厳島神社
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鳥居と参道と狛犬

●鳥居①
●鳥居①
・建立年不明
・明神鳥居

全国に約500社ある厳島神社の1社であります、長門国厳島神社に到着。

まず最初に登場するのは鳥居①

なんと!

鳥居がマンションに突き刺さっているという!


おそらくマンションを建設する際、鳥居を避けて建てたためこのような珍光景になったんだろうなぁ。

さすがに鳥居を撤去するような罰当たりなことはできなかったんでしょうねぇ。

なかなかの苦肉の策でしたよ。


この部屋に住みたい!

いやはや、本日も珍しいものを拝見できて有難き幸せ。



ちなみに、建物に突き刺さった鳥居は京都・錦天満宮にもあります。

こちらは両サイドの笠木・島木が突き刺さってるという。


どうでもいい話ですが、鳥居越しには晋作という名前の居酒屋さんが見えます。

イカしたネーミングですねぇ。

実はこの地は高杉晋作ゆかりの地だったりします。

詳しくは後ほど。


●鳥居②

●鳥居②
・建立年不明
・明神鳥居

そんなこんなで、鳥居①をくぐって道路を横断すると鳥居②が登場。

扁額には厳島神社と書かれておりました。

その名の通り、この神社は広島・厳島神社の分社です。

源平合戦の際、安徳天皇の御座船には守護神として安芸国・厳島神社分霊が祀られていたそうです。

しかし壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、神霊は磯辺放棄されたままだったという。

そんなこんなで、1185年に住民たちは社殿を建立し、改めて安芸国・厳島神社より分霊を勧請

それがこの神社の始まりといいます。


●参道

そんなこんなで、鳥居②をくぐって境内へ。

どうでもいい話ですが、一時期、この神社のすぐ近くに親友が住んでいまして、信じられない頻度で下関に遊びに来ていた私です。(片道5時間w)

その親友は北九州の大学に通っていたのですが、晋作さんが好き過ぎてわざわざ下関に部屋を借りていたという。

親友のアパートの近くには晋作さんの終焉地があるので、家に遊びに行くたびにそこで手を合わすのが恒例になっていました。

実はこの神社にも度々も足を運んでいました。

そんなこんなで、この石段に座って話をしていた頃を遠い目で懐かしむ・・・青春だね。

思えば、あの頃は昼夜問わず季節問わず無尽蔵に遊び続けれていたなぁ。

しかし今はどうだ。

太陽を避けて歩き、日焼け止めクリームなんか塗ったりしている。
日傘を買おうと思ったこともある。

老いたなぁ・・・って、ホントどうでもいい話ですが!


●手水舎

●手水舎
・建立年不明
・銅板葺 切妻造

そんなこんなで、階段を上って手水舎でお清め。


●狛犬①②

●狛犬①②
・1796年奉納

続いて、狛犬ちゃんが登場。

ターコイズ色した目が印象的な狛犬ちゃんでした。
そして阿形ちゃんの表情と姿勢がとてもコミカルでした。


●狛犬③④

●狛犬③④
・1951年奉納

これまた目がターコイズ色。
狛犬①②と違い、こちらはカラコンみたいに黒目の部分だけがターコイズカラーでした。

そして、イタチのようなフォルムが特徴的な狛犬ちゃんでした。

そんなことより、台座には講和記念と彫られておりました。

狛犬ちゃんが奉納された1951年はサンフランシスコ講和条約が調印された年です。

ということで、この狛犬ちゃんはサンフランシスコ講和条約の調印を記念して奉納されたものと思われます。
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拝殿と本殿

●拝殿

●拝殿
・2007年再建
・銅板葺 平入り切妻造

続いて、拝殿で参拝。

この社殿は1992年に浮浪者による放火で全焼しております。。

そんなこんなで、多くの人の支援により2001年に本殿を再建。
その後、2007年に拝殿・瑞垣・翼舎が再建されました。

ちなみに焼失前は1688年建立の社殿が建っていたみたいですよ。

浮浪者さん・・・なんて罰当たりな。。


古写真によると、もともとの社殿は瓦葺の入母屋造だったみたいです。

現在は神明系の社殿になってますので、焼失前と現在では全く違う景観だったことがわかります。


●本殿

●本殿
・2001年再建
・銅板葺 神明造
・祭神 宗像三女神

厳島神社の分社ということで、祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。

いわゆる宗像三女神です。

●ザックリと簡単に宗像三女神とは?

宗像三女神とは市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命という3神の総称です。

読み方はそれぞれ
・市杵島姫 → イチキシマヒメ
・湍津姫命 → タギツヒメ
・田心姫命 → タゴリヒメ

この3神は、古事記や日本書紀でお馴染みのアマテラスとスサノオの誓約で生まれた神様です。
いわゆるアマテラスの子です。


古事記・日本書紀に書いてある天から地に降りた神は、天孫降臨でお馴染みのニニギと天孫降臨以前に天降った宗像三女神だけなんです!

一説によると、イチキシマヒメはアマテラスの孫・ニニギの天孫降臨の際、養育係として付き添い、ニニギを立派に生育させたといわれています。

このことから、子守の神様子供の守護神として崇敬されることもあるそうですよ。

宗像三女神は、別名・道主貴と呼ばれています。
ちなみに貴(むち)とは、最も高貴な神に贈られる尊称です。

日本書紀によると
宗像三女神は道主貴(みちぬしのむち)。
天照大御神は大日孁貴(おおひるめのむち)。
大国主命は大己貴命(おおなむち)
と記されています。

こちらにアマテラスとスサノオの誓約について書いています。
[6]手に負えないスサノオとアマテラスの対決
アマテラスとツクヨミは、それぞれの場所をしっかりと治めていたが、スサノオだけは海を治めないで、ずっと泣き喚いる。アマテラスとスサノオの対決でも神々が生まれる。

こちらに宗像三女神のことを書いています。
【宗像三女神】多紀理毘売命(タキリビメ)市寸島比売命(イチキシマヒメ)田寸津比売命(タギツヒメ)
誓約(うけい)でうまれた美人三姉妹 神性 海の女神 航海の守護神 エピソード 多紀理毘売命(タキリビメ)またの名を沖津島比売神(オキツシマヒメ)→沖ノ島の沖津宮にいる 市寸島比売命(イツキシマヒメ)またの名を狭依毘売(サ
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太鼓楼(大太鼓)と貴船神社

●太鼓楼(大太鼓)

●大太鼓
・江戸時代末期奉納
・直径 約110cm
・胴長 約170cm
・欅材

続いて、太鼓楼へ。

太鼓楼には大きな太鼓が吊るされていました。

なんと!

この厳島神社は高杉晋作さんが四境戦争の戦勝祈願を行なった神社だという。

そして四境戦争(小倉口の戦い)に勝った奇兵隊が、お礼として戦利品であるこの大太鼓を奉納したという。

●小倉戦争と大太鼓

1866年、高杉晋作は四境戦争を始める前にこの厳島神社戦勝祈願を行ったといわれています。

そして高杉晋作は奇兵隊と報国隊を指揮して小倉口幕府軍と戦いました。

小倉藩(幕府軍)は小倉口先鋒として戦意が高かったものの装備は旧式。。

長州軍が優勢に戦闘を展開し、幕府軍の敗戦濃厚となりました。

そんなこんなで1866年8月29日、幕府軍総督・小笠原長行は小倉城脱出

孤立した小倉藩は小倉城を放って退却

そして四境戦争(小倉口の戦い)は長州軍勝利に終わりました。

終戦後、長州軍は小倉城の焼け跡から戦利品として太鼓を持ち帰ったという。

そして、その太鼓を勝利祈願成就のお礼として奉納したのが、この大太鼓というわけなんです。

奉納された大太鼓は長らく神社の倉庫に保管されていたそうですが、大西吉郎というお方が大正天皇御大典記念として太鼓の皮を張替えた後、松永幸作というお方が太鼓楼を寄進し、現在の姿になったそうですよ。



ちなみに、1959年に小倉城が再建された際、小倉城サイドから大太鼓の返還要求があったそうです。

しかし神社サイドはその要求を突っぱねたという。

すると小倉城サイドは『返還してくれるならお金はなんぼでも出す』とか『代わりにもっと大きな太鼓を作る』とか言ってきたそうです。

これにはさすがの神社サイドも頭にきたらしく『この太鼓は奇兵隊が奉納したもの。高杉晋作が許可するならお返しいたしましょう』と返答したという。

この返答に小倉城サイドは撃沈・・・太鼓の返還を諦めたそうです。

博物館などに収蔵されている物ならまだしも、奉納されたものは神様の持ち物。

さすがに返却には応じられなかったのでしょうね。


しかし!

1968年、小倉城太鼓保存会が発足。
そして小倉城の天守閣に大きな太鼓が吊るされました。

小倉城が発行した機関紙によると、その太鼓は小倉城が焼失する前に運びだされたものだという!

つまり小倉城サイドが言いたいことは厳島神社の太鼓はニセ物というわけです・・・そこまでしますか!(笑)

さすがにちょっと・・・ですね。

ちなみに現在、厳島神社では維新顕彰ならびに小倉戦争の記念行事として、毎年9月第1土曜日に太鼓祭が開催されているそうです。


●貴船神社

●貴船神社
・祭神 高淤加美神

その他、境内には水の神様・高淤加美神を祀る貴船神社がありました。
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第二次長州征討(四境戦争)とは?

●第二次長州征討(四境戦争)とは?

ザックリと簡単に第二次長州征討(四境戦争)とは、江戸幕府が過激な長州藩を処分するために行った戦争です。

長州軍 vs 幕府軍の戦いです。


1864年、禁門の変(蛤御門の変)の処罰のため、幕府は第一次長州征討の兵を起こしました。

幕府は降伏の条件として、禁門の変の責任者である長州の三家老の切腹を要求し、長州藩はそれを受け入れました。

この時、切腹を命じられた三家老は国司信濃福原越後、そして益田家の33代当主・益田親施でした。

1866年、幕府は再び長州を攻めます。
いわゆる第二次長州征討(四境戦争)です。

長州藩の4つの藩境である石州口(島根県西部)・芸州口(広島方面)・大島口(瀬戸内方面)・小倉口(北九州方面)で戦闘が行われました。

このことから、第二次長州征討は四境戦争と呼ばれることもあります。

厳密にいえば
幕府目線の場合は第二次長州征討
長州目線の場合は四境戦争と呼ばれます。


●第二次長州征討(四境戦争)ゆかりの寺社
万倉護国神社の参拝記と御朱印情報

・国司親相・禁門の変・四鏡戦争の戦没者を祀る。
萬福寺の参拝記と御朱印情報

・第2次長州戦争石州口の戦いの舞台となったお寺。
机崎神社の参拝記と御朱印情報

・第二次長州征討(四境戦争)の際、大村益次郎が軍儀を開いた地。
妙義寺の参拝記と御朱印情報

・石州口の戦いで長州軍の本陣と野戦病院が置かれたお寺。
福聚寺の参拝記と御朱印情報

・小倉口の戦いの際、幕府軍・肥後藩の本陣が置かれたお寺。
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高杉晋作療養の地

●高杉晋作療養の地

厳島神社から徒歩3分の場所には高杉晋作療養の地があります。


高杉晋作さんは四境戦争(小倉口の戦い)の最中、持病の結核が悪化してしまったという。

そんなこんなで、晋作さんはこの地に小さな家を建て、愛人・おうの野村望東尼の介抱を受けながら療養生活を送ったといわれています。

療養生活も気になりますが、愛人というワードに反応、いや官能してしまう不埒な私です。

晋作さんには愛人がいたのかぁ〜。

●高杉晋作と愛人・おうの

高杉晋作さんには長州藩の山口奉行・井上平右衛門の娘である高杉雅子という妻がいましたが、芸者・おうのの美貌に惚れてしまい、晋作さんとおうのは愛人関係になりました。

晋作さんは下関に滞在したときは、できる限りおうのをそばに置いていたそうです。

そんな中、晋作さんは四境戦争(小倉口の戦い)の最中、持病の結核が悪化・・・。

そんなこんなで、晋作さんはこの地に小さな家を建て、おうの野村望東尼の介抱を受けながら療養生活を送りました。

しかし!

この地で看病していたおうのの所に、妻・高杉雅子と息子・梅之進が訪れたという!

妻と愛人の初対面・・・晋作さん大ピンチ!

しかし、おうのとともに晋作さんを介抱していた野村望東尼が火消し役になり、ひとまず修羅場を切り抜けたそうです。

その後、妻・高杉雅子は、父・小忠太と息子・梅之進とともに再び晋作さんのもとを訪れたという。

その際、おうのは遠ざけられ、晋作さんは家族と山縣有朋などに世話され、そしてお亡くなりになりました。

ちなみに晋作さんの死後、おうのは他の男性と良い仲になってしまいますが、高杉晋作の名を汚してはいけないという山縣有朋の指示に従い、出家して谷梅処と名乗ったそうです。

そして、谷梅処は山縣有朋・伊藤博文・井上馨・木戸孝允などから経済的援助を受け、高杉晋作のお墓を守りながら生涯を終えたそうです。

一方、妻の高杉雅子は、晋作さんが生前に伝えた『私が死んでも再嫁せず高杉家を守ってほしい』という手紙の通り、再婚をせずに生涯を終えたそうです。


石碑には高杉東行と書かれていました。
ちなみに東行とは晋作さんのです。

そして石碑には、療養中に詠まれたも刻まれていました。

落花斜日恨無窮
自愧残骸泣晩風
休怪移家華表下
暮朝欲拂廟前紅

なんのこっちゃ・・・書いてる意味が全くわからなかったので調べてみることに。

●現代語訳

花は落ち、日は傾き、無念は晴れることはない。

痩せ衰えた身体で生き恥を晒し、夕暮れの風に涙する。

桜山に移り住んだことを疑いの目で見ないでほしい。

朝も夕も招魂場に散る花弁を掃き清めたいだけなのだ。

という意味のようです。


ちなみに高杉晋作療養の地から徒歩10分のところに鎮座する桜山神社には、晋作さんの発議によって創建された招魂場があります。

桜山招魂場は日本最初の招魂社として知られています。

高杉晋作終焉の地

●高杉晋作終焉の地

厳島神社から徒歩3分のところには高杉晋作終焉の地もあります。

文字通り、この地は1867年に晋作さんが27歳8ヶ月の生涯を閉じた場所です。

1866年、晋作さんは桜山に家を建て、愛人・おうのと野村望東尼の看病のもと療養生活を送っていましたが、晋作さんの身を案じた妻・高杉雅子が下関を訪れたことを機に林算九郎邸の離れにお引越しされたようです。

そして晋作さんは林算九郎邸の離れでお亡くなりになりました。

その地がここというわけです。


ちなみに、晋作さんの遺骨は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に運ばれました。

吉田清水山にある東行庵には高杉晋作さんのお墓があります。

高杉晋作とは?

●高杉晋作とは?

高杉晋作とは、幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍したお方です。

身分制度にとらわれない軍隊・奇兵隊を結成し、長州藩のリーダーとして江戸幕府と戦った革命児です。

辞世の句は面白き事もなき世を面白く すみなすものは心なりけり

高杉晋作のもとで働いていた伊藤博文が動けば雷電の如く 発すれば風雨の如しと語ったほど、とてつもない行動力の持ち主だったみたいです。


●高杉晋作の年表
1839年(0歳)長門国の長州藩士・高杉小忠太の子として誕生。
1852年(13歳) 長州藩の藩校・明倫館に入学。
1857年(18歳) 吉田松陰の松下村塾に通う。
1859年(20歳) 吉田松陰の刑死を知る。
1860年(21歳) 山口町奉行・井上平右衛門の次女・雅子と結婚
1862年(23歳)幕府使節随行員として上海へ留学。
友人・久坂玄瑞らとともに江戸・品川御殿山に建設中だったイギリス公使館の焼き討ちを行う。
1863年(24歳)下関戦争に参加。
長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、アメリカ・フランスと衝突。
晋作は敗北した長州藩の代表として外国との交渉を担当。

奇兵隊を結成する。
本拠は阿弥陀寺(現・赤間神宮)。

禁門の変が勃発。
長州藩は京都を追放される。
1864年(25歳) 下関戦争の敗戦処理として英・仏・蘭・米のとの講和談判をまとめる。
晋作はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、領土の租借は頑なに受け入れなかった。

第一次長州征伐が勃発。
長州藩は幕府軍に降参するが、晋作はこれに反対し功山寺挙兵

晋作は幕府に従う長州藩が許せなかった。
1865年(26歳) 功山寺での挙兵が成功し、長州藩は幕府と戦うことになる。
1866年(27歳)第二次長州征伐が勃発。
晋作もこの戦いに参加し幕府軍に勝利する。
1867年(27歳) 肺結核で死去

享年27歳。

御朱印情報


●御朱印の種類
・厳島神社の御朱印

●御朱印の受付場所
・授与所

●御朱印の受付時間
・不明

●御朱印の料金
・300円

●期間限定・特別御朱印
・お正月特別御朱印
・節分祭の御朱印
・夏越祭の御朱印
・夏越大祓の御朱印
・秋季大祭の御朱印
・年乃瀬御礼参りの御朱印
・ミニ御朱印
・高杉晋作戦勝祈願御由緒御朱印
・明治維新150年記念限定頒布など

●オリジナル御朱印帳
・なし

・2016年8月11日 参拝
・2022年3月 更新
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参拝情報とアクセス

●拝観料
・無料

●最寄りの駅
・JR下関駅から徒歩12分
・JR下関駅から車で3分

●最寄りのバス停
・厳島神社前 バス停から徒歩1分

●最寄りのIC
・中国自動車道・関門自動車道
 下関ICから車で10分

●駐車場
・なし

※長門国厳島神社の駐車場はありませんので、近隣の有料駐車場を利用することになります。

厳島神社の地図

 

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