所在地 | 山口県下松市河内1984番地 |
---|---|
祭 神 | 天之御中主尊 |
由 緒 | 595年、青柳浦の松に星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝を擁護するようにとお告げがあったという。597年、百済国の王子・琳聖太子が来日し、桂木山に社殿を建立。そして、鷲頭の氏神として祀ったそうです。青柳浦の松に星が降臨したことにより、以来、青柳浦の地は降松と呼ばれるようになったという。その後、603年に高鹿垣山・山頂に北辰妙見社を建立。そして、609年に鷲頭山に遷座し、上宮と中宮を建立。その後、室町時代に大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いたそうです。以来、琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受け、1394年には中宮に仁王門と五重塔を建立したそうです。1558~1570年、大内氏の滅亡後、毛利元就が社殿を修復。1615~1624年、徳山藩主・毛利就隆が、下宮を現在地に遷し、現在に至るそうです。 |
HP | 降松神社 |
鳥居と参道と手水舎
●鳥居
●鳥居
・1896年建立
・明神鳥居
山口県の下松市に鎮座する降松神社に到着。
降松神社と書いてくだまつじんじゃと読みます。
なんとこの降松神社が下松という地名の由来なんだとか!
ちなみに、下松市は降星伝説にちなんで星降るまちというキャッチフレーズがつけられているそうです。
そんなこんなで、参道には星がデザインされた外灯がありました。
どうやら、この神社は星の神様、いわゆる妙見さまを祀る神社のようです。
かつてこの神社は妙見社として信仰を集めていたそうですよ。
この地を治めていた大内氏は、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉など、7州に北辰妙見社を勧請。
そして、降松神社が鎮座する鷲頭山は妙見本宮として厚い信仰を集めていたんだって。
●手水舎
●手水舎
・昭和時代建立
●手水鉢
・1766年奉納
参道脇には昭和モダンな手水舎がありました。
手水鉢は、なんと1766年奉納!
そんなこんなで、江戸時代と昭和時代がコラボした素敵な手水舎でした。
個人的には、手水舎に鏡が設置されているところがグッときました!
な~んとなく公衆便所みたいな・・・って、失礼すぎる! m(_ _)m
●鳥居
・1896年建立
・明神鳥居
山口県の下松市に鎮座する降松神社に到着。
降松神社と書いてくだまつじんじゃと読みます。
なんとこの降松神社が下松という地名の由来なんだとか!
●降松神社と下松
595年、鷲頭庄青柳浦の松に星が降臨し、7日7夜輝き続け『我は天之御中主尊なり。3年以内に、この地に百済国の王子・琳聖太子がやって来るため、そのさきがけとして降ってきた』というお告げがあったという。
597年、星のお告げ通り、百済国の王子・琳聖太子が来日。
そして、琳聖太子は桂木山に北辰妙見社を建立し、鷲頭庄の氏神としたそうです。
そんなこんなで、青柳浦の松に星が降臨したことにより、この地は降松と呼ばれるようになったという。
これが下松という地名の由来なんだと!
なんと、星が降臨した松の5代目は、現在、JR・下松駅前にある金輪神社にあるんだとか!
その他、百済(くだら)と交易する津(港)という意味の百済津(くだらつ)が転じて下松になったという説もあるみたいですよ。
595年、鷲頭庄青柳浦の松に星が降臨し、7日7夜輝き続け『我は天之御中主尊なり。3年以内に、この地に百済国の王子・琳聖太子がやって来るため、そのさきがけとして降ってきた』というお告げがあったという。
597年、星のお告げ通り、百済国の王子・琳聖太子が来日。
そして、琳聖太子は桂木山に北辰妙見社を建立し、鷲頭庄の氏神としたそうです。
そんなこんなで、青柳浦の松に星が降臨したことにより、この地は降松と呼ばれるようになったという。
星が降臨した松
↓
降り松
↓
降松
↓
下松
↓
降り松
↓
降松
↓
下松
これが下松という地名の由来なんだと!
なんと、星が降臨した松の5代目は、現在、JR・下松駅前にある金輪神社にあるんだとか!
その他、百済(くだら)と交易する津(港)という意味の百済津(くだらつ)が転じて下松になったという説もあるみたいですよ。
ちなみに、下松市は降星伝説にちなんで星降るまちというキャッチフレーズがつけられているそうです。
そんなこんなで、参道には星がデザインされた外灯がありました。
どうやら、この神社は星の神様、いわゆる妙見さまを祀る神社のようです。
かつてこの神社は妙見社として信仰を集めていたそうですよ。
この地を治めていた大内氏は、周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉など、7州に北辰妙見社を勧請。
そして、降松神社が鎮座する鷲頭山は妙見本宮として厚い信仰を集めていたんだって。
●妙見社とは?
妙見社とは北極星・北斗七星を神格化し、天之御中主神・妙見菩薩などを信仰する神社です。
妙見社とは北極星・北斗七星を神格化し、天之御中主神・妙見菩薩などを信仰する神社です。
足立山妙見宮(御祖神社)の御朱印~妙見神社の総本宮・和気清麻呂ゆかりの神社~(福岡県北九州市小倉北区)
所在地福岡県北九州市小倉北区妙見町17−2祭 神・造化三神(天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)・鐸石別命・和気清麻呂由 緒769年、宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)により道鏡の怒りをかった和気...
●手水舎
●手水舎
・昭和時代建立
●手水鉢
・1766年奉納
参道脇には昭和モダンな手水舎がありました。
手水鉢は、なんと1766年奉納!
そんなこんなで、江戸時代と昭和時代がコラボした素敵な手水舎でした。
個人的には、手水舎に鏡が設置されているところがグッときました!
な~んとなく公衆便所みたいな・・・って、失礼すぎる! m(_ _)m
神門(随身門)と狛犬
●神門(随身門)
●神門(随身門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 楼門造
続いて、立派な神門が登場。
それにしても、由緒に登場する百済国の王子・琳聖太子って何者なんでしょ?
ということで調べてみると、なんと!
琳聖太子は、後に西国の大守となる大内氏の先祖なんだとか!
そんなこんなで、大内氏が莫大な財力を得たのも、西国7ヶ国の守護になったのも存在しない琳聖太子のおかげ!
やるなぁ、大内氏!
余談ですが、大内氏当主の◯代を表すとき、先祖の琳聖太子を初代とする場合と、大内姓を名乗った盛房さんを初代にする場合の2通りのパターンがあります。
ちなみに、このブログでは大内盛房さんを初代として表記しています。
●狛犬
●狛犬
・1790年奉納
続いて、狛犬ちゃんにご挨拶。
前脚が長く、たこ焼きのような巻き毛が特徴的な狛犬ちゃんでした。
どっかで見たことがある狛犬だなぁ〜と思ったら、花岡八幡宮の狛犬ちゃんも前脚が長く、たこ焼きのような巻き毛だった!
もしかして、この作風はこの地方の特徴なんでしょうかねぇ?
ちなみに1700年代、大坂で石造狛犬の寄進がブームになったんだって。
それを受けて、1800年代の半ばから周防・長州でも狛犬の寄進が本格化したのだとか。
そして江戸時代後期になると、下関・秋穂・徳山・萩などで、地元の石工たちが狛犬を作り始めたんだって。
この狛犬ちゃんは、まさに江戸時代後期のもの・・・やはり徳山地方の石工さんが作ったものなのかも知れませんね。
●神門(随身門)
・建立年不明
・瓦葺 入母屋造
・一間一戸 楼門造
続いて、立派な神門が登場。
それにしても、由緒に登場する百済国の王子・琳聖太子って何者なんでしょ?
ということで調べてみると、なんと!
琳聖太子は、後に西国の大守となる大内氏の先祖なんだとか!
●琳聖太子と大内氏
琳聖太子は、百済国の第26代王・聖明王の第3王子といわれています。
大内氏の文書によると、611年に琳聖太子は多々良浜に上陸し、聖徳太子と面会。
そして、多々良の姓と大内県(おおうちあがた)の領地を賜ったといわれています。
その後、土着した子孫が大内姓を名乗ったんだって。
しかし、日本にも百済にも琳聖太子という人物を証明する史料がないことから、架空の人物という説が有力視されているという・・・(-“-;) ??
どうやら大内氏が琳聖太子という架空の人物を捏造した背景には、朝鮮との貿易が関係しているみたい。
一説によると、朝鮮との貿易を重視した大内氏10代当主・大内義弘さんが、朝鮮半島との関係を重視するため、琳聖太子という人物を捏造して、琳聖太子の子孫を名乗ったのだとか!
そして、大内氏の思惑通りというか何というか、朝鮮は大内氏の先祖 = 琳聖太子という大内氏の主張を受け入れたのだという。
これによって大内氏は、朝鮮において幕府に次ぐ地位を確保。
そして朝鮮との貿易で莫大な利益を得たのだという。
琳聖太子は、百済国の第26代王・聖明王の第3王子といわれています。
大内氏の文書によると、611年に琳聖太子は多々良浜に上陸し、聖徳太子と面会。
そして、多々良の姓と大内県(おおうちあがた)の領地を賜ったといわれています。
その後、土着した子孫が大内姓を名乗ったんだって。
しかし、日本にも百済にも琳聖太子という人物を証明する史料がないことから、架空の人物という説が有力視されているという・・・(-“-;) ??
どうやら大内氏が琳聖太子という架空の人物を捏造した背景には、朝鮮との貿易が関係しているみたい。
一説によると、朝鮮との貿易を重視した大内氏10代当主・大内義弘さんが、朝鮮半島との関係を重視するため、琳聖太子という人物を捏造して、琳聖太子の子孫を名乗ったのだとか!
そして、大内氏の思惑通りというか何というか、朝鮮は大内氏の先祖 = 琳聖太子という大内氏の主張を受け入れたのだという。
これによって大内氏は、朝鮮において幕府に次ぐ地位を確保。
そして朝鮮との貿易で莫大な利益を得たのだという。
そんなこんなで、大内氏が莫大な財力を得たのも、西国7ヶ国の守護になったのも存在しない琳聖太子のおかげ!
やるなぁ、大内氏!
余談ですが、大内氏当主の◯代を表すとき、先祖の琳聖太子を初代とする場合と、大内姓を名乗った盛房さんを初代にする場合の2通りのパターンがあります。
●琳聖太子を初代とする場合
第16代・大内盛房
第17代・大内弘盛
第18代・大内満盛
第19代・大内弘成
第20代・大内弘貞
第21代・大内弘家
第22代・大内重弘
第23代・大内弘幸
第24代・大内弘世
第25代・大内義弘
第26代・大内盛見
第27代・大内持世
第28代・大内教弘
第29代・大内政弘
第30代・大内義興
第31代・大内義隆
第32代・大内義長
●大内盛房を初代とする場合
第1代・大内盛房
第2代・大内弘盛
第3代・大内満盛
第4代・大内弘成
第5代・大内弘貞
第6代・大内弘家
第7代・大内重弘
第8代・大内弘幸
第9代・大内弘世
第10代・大内義弘
第11代・大内盛見
第12代・大内持世
第13代・大内教弘
第14代・大内政弘
第15代・大内義興
第16代・大内義隆
第17代・大内義長
第16代・大内盛房
第17代・大内弘盛
第18代・大内満盛
第19代・大内弘成
第20代・大内弘貞
第21代・大内弘家
第22代・大内重弘
第23代・大内弘幸
第24代・大内弘世
第25代・大内義弘
第26代・大内盛見
第27代・大内持世
第28代・大内教弘
第29代・大内政弘
第30代・大内義興
第31代・大内義隆
第32代・大内義長
●大内盛房を初代とする場合
第1代・大内盛房
第2代・大内弘盛
第3代・大内満盛
第4代・大内弘成
第5代・大内弘貞
第6代・大内弘家
第7代・大内重弘
第8代・大内弘幸
第9代・大内弘世
第10代・大内義弘
第11代・大内盛見
第12代・大内持世
第13代・大内教弘
第14代・大内政弘
第15代・大内義興
第16代・大内義隆
第17代・大内義長
ちなみに、このブログでは大内盛房さんを初代として表記しています。
●狛犬
●狛犬
・1790年奉納
続いて、狛犬ちゃんにご挨拶。
前脚が長く、たこ焼きのような巻き毛が特徴的な狛犬ちゃんでした。
どっかで見たことがある狛犬だなぁ〜と思ったら、花岡八幡宮の狛犬ちゃんも前脚が長く、たこ焼きのような巻き毛だった!
もしかして、この作風はこの地方の特徴なんでしょうかねぇ?
ちなみに1700年代、大坂で石造狛犬の寄進がブームになったんだって。
それを受けて、1800年代の半ばから周防・長州でも狛犬の寄進が本格化したのだとか。
そして江戸時代後期になると、下関・秋穂・徳山・萩などで、地元の石工たちが狛犬を作り始めたんだって。
この狛犬ちゃんは、まさに江戸時代後期のもの・・・やはり徳山地方の石工さんが作ったものなのかも知れませんね。
拝殿と本殿
●拝殿
●拝殿
・1767年再建
・瓦葺 唐破風向拝付き入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
どうやら降松神社は上宮・中宮・若宮という3つのお宮から成っているみたいです。
・鷲頭山 山頂 → 上宮
・鷲頭山 中腹 → 中宮
・鷲頭山 山麓 → 若宮
そんなこんなで、鷲頭山全域が神域ということなんだね。
ちなみに、今参拝しているのは山麓の若宮です。
こちらは神社の近くから撮影した写真です。
このどれかが鷲頭山と思われます・・・適当ですみません。
そんなことより、社殿には大内氏の家紋・大内菱がありました。
この神社は大内氏の庇護を受けて大いに栄えたみたいです。
なんと、中宮の参道は草が生えないほど参拝者が訪れていたんだとか!
これは面白いエピソードですねぇ。
その他、この神社にはもう1つ面白いエピソードが残っています。
創建当初、山頂の妙見社があまりにも光り輝いていたため、その眩しさで船の運航が困難だったんだと。
そこで仕方なく山頂の妙見社を別の所に移したという。
これまた、面白いエピソードですねぇ。
●本殿
●本殿
・1767年再建
・瓦葺 入母屋造
妙見社ということで、御祭神は天之御中主尊。
天之御中主尊は造化三神の1柱です。
ちなみに造化三神とは、天と地が分かれた際、高天原(天界)に初めて出現した神様です。
簡単にいうと世界で1番最初に生まれた神様です。
ちなみに造化三神は、人間にわかるような形で活動をしないため、造化三神を主祭神として祀る神社はあまり多くありません(多分)
●拝殿
・1767年再建
・瓦葺 唐破風向拝付き入母屋造
続いて、拝殿で参拝。
どうやら降松神社は上宮・中宮・若宮という3つのお宮から成っているみたいです。
・鷲頭山 山頂 → 上宮
・鷲頭山 中腹 → 中宮
・鷲頭山 山麓 → 若宮
そんなこんなで、鷲頭山全域が神域ということなんだね。
ちなみに、今参拝しているのは山麓の若宮です。
こちらは神社の近くから撮影した写真です。
このどれかが鷲頭山と思われます・・・適当ですみません。
そんなことより、社殿には大内氏の家紋・大内菱がありました。
この神社は大内氏の庇護を受けて大いに栄えたみたいです。
なんと、中宮の参道は草が生えないほど参拝者が訪れていたんだとか!
これは面白いエピソードですねぇ。
その他、この神社にはもう1つ面白いエピソードが残っています。
創建当初、山頂の妙見社があまりにも光り輝いていたため、その眩しさで船の運航が困難だったんだと。
そこで仕方なく山頂の妙見社を別の所に移したという。
これまた、面白いエピソードですねぇ。
●本殿
●本殿
・1767年再建
・瓦葺 入母屋造
妙見社ということで、御祭神は天之御中主尊。
天之御中主尊は造化三神の1柱です。
ちなみに造化三神とは、天と地が分かれた際、高天原(天界)に初めて出現した神様です。
簡単にいうと世界で1番最初に生まれた神様です。
●妙見菩薩と天之御中主神
造化三神の1柱・天之御中主神は、その名のとおり天の真ん中を支配する神様です。
妙見菩薩とは北極星・北斗七星を神格化した仏教・天部のひとつです。
・天の真ん中を支配する神様・天之御中主神。
・宇宙の中心・北極星を神格化した妙見菩薩。
そんなこんなで天之御中主神と妙見菩薩は同一視されることとなり、妙見さんとして信仰されています。
いわゆる妙見信仰です。
造化三神の1柱・天之御中主神は、その名のとおり天の真ん中を支配する神様です。
妙見菩薩とは北極星・北斗七星を神格化した仏教・天部のひとつです。
・天の真ん中を支配する神様・天之御中主神。
・宇宙の中心・北極星を神格化した妙見菩薩。
そんなこんなで天之御中主神と妙見菩薩は同一視されることとなり、妙見さんとして信仰されています。
いわゆる妙見信仰です。
ちなみに造化三神は、人間にわかるような形で活動をしないため、造化三神を主祭神として祀る神社はあまり多くありません(多分)
臥牛の庭
●臥牛の庭
●臥牛の庭
・江戸時代後期作庭
拝殿の近くには臥牛の庭という小さな庭園がありました。
どうやら、こちらは谷間のわずかな平野を求めてたむろする一群の牛を表現したお庭のようです。
ただの庭石だと思っていたけど、そう言われてみると確かに牛の群れに見える!
説明板によると、江戸時代後期にこの地のお百姓さんが『牛が増えて、どの百姓も牛が持てますように。そして、牛が病気をしませんように』と、牛への感謝と安らぎを求めてお庭を作庭した・・・的なことが書かれておりました。
なるほどね〜、そんな願いがこもっていたとはね!
お庭って奥が深いなぁ。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
●臥牛の庭
・江戸時代後期作庭
拝殿の近くには臥牛の庭という小さな庭園がありました。
どうやら、こちらは谷間のわずかな平野を求めてたむろする一群の牛を表現したお庭のようです。
ただの庭石だと思っていたけど、そう言われてみると確かに牛の群れに見える!
説明板によると、江戸時代後期にこの地のお百姓さんが『牛が増えて、どの百姓も牛が持てますように。そして、牛が病気をしませんように』と、牛への感謝と安らぎを求めてお庭を作庭した・・・的なことが書かれておりました。
なるほどね〜、そんな願いがこもっていたとはね!
お庭って奥が深いなぁ。
そんなこんなで、参拝終了。
いやはや、素敵な神社でした。
御朱印情報
●御朱印の種類
・降松神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2014年1月18日 参拝
・2023年3月 更新
・降松神社の御朱印
●御朱印の受付場所
・社務所
●御朱印の受付時間
・不明
●御朱印の料金
・300円
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2014年1月18日 参拝
・2023年3月 更新
妙見宮鷲頭寺の御朱印|妙見信仰ならびに星祭り(節分祭)発祥の宮寺(山口県下松市)
所在地山口県下松市中市1丁目10−15宗 派真言宗御室派札 所・山口県十八不動三十六童子霊場 第18番・中国楽寿三十三観音霊場 第15番・周南七福神(大黒天)由 緒595年、青柳浦の松に...
参拝情報とアクセス
●開門時間
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・山陽本線
JR下松駅から車で10分
JR下松駅から徒歩40分
・岩徳線
JR生野屋駅から車で5分
JR生野屋駅から徒歩40分
●最寄りのバス停
・防長交通
下松高校入口 バス停から徒歩15分
●最寄りのIC
・山陽自動車道
徳山東ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり
・境内自由
●拝観料
・無料
●最寄りの駅
・山陽本線
JR下松駅から車で10分
JR下松駅から徒歩40分
・岩徳線
JR生野屋駅から車で5分
JR生野屋駅から徒歩40分
●最寄りのバス停
・防長交通
下松高校入口 バス停から徒歩15分
●最寄りのIC
・山陽自動車道
徳山東ICから車で10分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり