所在地 | 福岡県柳川市奥州町32−1 |
---|---|
宗 派 | 黄檗宗 |
由 緒 | 1587年、立花宗茂が父・戸次道雪の菩提を弔うために創建したのが始まり。当初は曹洞宗のお寺でしたが、1669年に黄檗宗に改宗。1600年の関ヶ原の戦いで立花氏が改易となり、代わって田中吉政が藩主となると福厳寺は破却され、お寺の跡地は家臣の屋敷になったといいます。しかし1620年、立花宗茂が柳川藩に復帰した際、お寺は再建され、柳川藩主・立花家の菩提寺になったそうです。 |
山門
●福厳寺とは?
柳川藩主・立花家の菩提寺であります福厳寺に到着。
もともとは立花宗茂が父・戸次道雪の菩提を弔うために筑前国・立花山の麓に養孝院(現・梅岳寺)を創建したのが始まりといいます。
その後、1587年に立花宗茂が柳川に城を築いた際、お寺も移転したそうです。
しかし1600年の関ヶ原の戦いで西軍に味方した立花氏は棚倉藩(福島県)に移封。
そして立花氏に代わって田中吉政が藩主となりました。
田中氏は福厳寺を取り壊し、お寺の跡地に家臣の屋敷をつくったといいます。
その後、跡継ぎがなく家を存続できなくなった田中氏は無嗣断絶で改易。
そんなこんなで、1620年に立花宗茂は柳川藩初代藩主として柳川の地に復帰し、お寺を再建。
その後、宗派を曹洞宗から黄檗宗へ。
寺号を養孝院から梅岳山福厳寺へ。
以降、柳川藩主・立花家の菩提寺として、代々藩主および一族が埋葬されるお寺となりました。
ちなみに戸次道雪の戒名は
福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士
神号は梅岳霊神です。
ということで梅岳山福厳寺という寺号は戒名からきてるんですね。
●山門
●山門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 四脚門
そんなこんなで参拝開始。
まず最初に登場するのは重厚な造りの山門。
猛将の道雪さんや宗茂さんを彷彿とさせる男らしい門でした。
このお寺さんは黄檗宗ですが、山門には中華風の味付けは少なく、味の旅に出てようやく味を見つけだせるくらいの薄味中華でした。
ということで、もしかしたらこの門は黄檗宗に改宗する以前の門なのかも知れません(推測)
ネットの情報では柳河藩独特の四脚門というワードをよくお見かけしましたが、どの部分が独持なのか見つけ出すことができず・・・(悔しい)。
建立年は定かではありませんが、建て付けと風合いからして江戸期のオーラを感じた次第です。
木鼻は禅宗様。
控えめではありますが、随所随所に彫刻が施されていて、それなりに見所のある門でしたよ。
透かし彫りの格子が多いのも特徴的でした。
あと、写真を撮り忘れましたが、梅岳山と書かれた扁額は黄檗宗の開祖・隠元さんの筆らしいですよ。
そんなこんなで山門をくぐると菱形の敷石参道が登場。
禅宗らしい風景ですねぇ。
柳川藩主・立花家の菩提寺であります福厳寺に到着。
もともとは立花宗茂が父・戸次道雪の菩提を弔うために筑前国・立花山の麓に養孝院(現・梅岳寺)を創建したのが始まりといいます。
その後、1587年に立花宗茂が柳川に城を築いた際、お寺も移転したそうです。
しかし1600年の関ヶ原の戦いで西軍に味方した立花氏は棚倉藩(福島県)に移封。
そして立花氏に代わって田中吉政が藩主となりました。
田中氏は福厳寺を取り壊し、お寺の跡地に家臣の屋敷をつくったといいます。
その後、跡継ぎがなく家を存続できなくなった田中氏は無嗣断絶で改易。
そんなこんなで、1620年に立花宗茂は柳川藩初代藩主として柳川の地に復帰し、お寺を再建。
その後、宗派を曹洞宗から黄檗宗へ。
寺号を養孝院から梅岳山福厳寺へ。
以降、柳川藩主・立花家の菩提寺として、代々藩主および一族が埋葬されるお寺となりました。
ちなみに戸次道雪の戒名は
福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士
神号は梅岳霊神です。
ということで梅岳山福厳寺という寺号は戒名からきてるんですね。
●山門
●山門
・建立年不明
・瓦葺 切妻造 四脚門
そんなこんなで参拝開始。
まず最初に登場するのは重厚な造りの山門。
猛将の道雪さんや宗茂さんを彷彿とさせる男らしい門でした。
このお寺さんは黄檗宗ですが、山門には中華風の味付けは少なく、味の旅に出てようやく味を見つけだせるくらいの薄味中華でした。
ということで、もしかしたらこの門は黄檗宗に改宗する以前の門なのかも知れません(推測)
ネットの情報では柳河藩独特の四脚門というワードをよくお見かけしましたが、どの部分が独持なのか見つけ出すことができず・・・(悔しい)。
建立年は定かではありませんが、建て付けと風合いからして江戸期のオーラを感じた次第です。
木鼻は禅宗様。
控えめではありますが、随所随所に彫刻が施されていて、それなりに見所のある門でしたよ。
透かし彫りの格子が多いのも特徴的でした。
あと、写真を撮り忘れましたが、梅岳山と書かれた扁額は黄檗宗の開祖・隠元さんの筆らしいですよ。
そんなこんなで山門をくぐると菱形の敷石参道が登場。
禅宗らしい風景ですねぇ。
鐘楼と鐘鼓楼
●鐘楼
●鐘楼
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
鐘楼は木に飲み込まれそうになっていました。
いや、飲み込まれていました。
●鐘鼓楼
●鐘鼓楼
・建立年不明
・瓦葺 重層入母屋造
境内には、これぞ黄檗宗!
ってな感じの中華風の鐘鼓楼がありました。
建立年は分かりませんが、黄檗宗に改宗後の建立なのは間違いなさそうです。
黄檗宗に改宗したのが1669年ですので、それ以降の建立となります。
●鐘楼
・建立年不明
・銅板葺 入母屋造
鐘楼は木に飲み込まれそうになっていました。
いや、飲み込まれていました。
●鐘鼓楼
●鐘鼓楼
・建立年不明
・瓦葺 重層入母屋造
境内には、これぞ黄檗宗!
ってな感じの中華風の鐘鼓楼がありました。
建立年は分かりませんが、黄檗宗に改宗後の建立なのは間違いなさそうです。
黄檗宗に改宗したのが1669年ですので、それ以降の建立となります。
本堂
●本堂
そんなこんなで
はいドン。
工事中!(笑)
これはもう寺社巡りあるあるだから仕方ないです。
ちなみに、工事中・住職さん不在・小銭がないは私の中で寺社巡り3大あるあるだと思っています。
●本堂
・江戸時代後期建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 釈迦如来像
屋根は瓦が取り除かれて垂木がむき出しになっていました。
まるで食べ終わった焼き魚のよう。
そんなことより、境内の片隅には古瓦が並べられていました。
おそらくこの瓦は本堂にあったものだと思われます。
その他、本堂のものと思われる部材が積まれていました。
どこの部分かわかんないけど興味深く拝見させていただきました。
そんなこんなで
はいドン。
工事中!(笑)
これはもう寺社巡りあるあるだから仕方ないです。
ちなみに、工事中・住職さん不在・小銭がないは私の中で寺社巡り3大あるあるだと思っています。
●本堂
・江戸時代後期建立
・瓦葺 入母屋造
・本尊 釈迦如来像
屋根は瓦が取り除かれて垂木がむき出しになっていました。
まるで食べ終わった焼き魚のよう。
そんなことより、境内の片隅には古瓦が並べられていました。
おそらくこの瓦は本堂にあったものだと思われます。
その他、本堂のものと思われる部材が積まれていました。
どこの部分かわかんないけど興味深く拝見させていただきました。
開山堂と天王殿
●開山堂
●開山堂
・1674年建立
・瓦葺 入母屋造
本堂の隣には開山堂がありました。
説明板によると、堂内には開山・鉄文禅師が祀られているそうですよ。
ちなみに開山堂は文字通り開山したお方を祀るお堂なのですが、このお寺の開山には2通りの見方があるそうです。
①福厳寺の前身である養孝院(現・梅岳寺)の開山・緒庵禅師(曹洞宗)。
②大日本寺院総覧では黄檗宗への改宗年を創建年としているので、その時の開山・鉄文禅師(黄檗宗)。
●天王殿
●天王殿
・1857年再建
・瓦葺 入母屋造
堂内は土間式。
そして中央に壁を設けて前後を分けるというちょっと珍しい造りになっていました。
黄檗宗といえば韋駄天さん。
堂内の中央におられました。
韋駄天さんといえば足が速いことで知られていますが、見た感じこちらの韋駄天さんはそんなに速くなさそう・・・って失礼っ!
そして堂内の四隅には四天王像が安置されていました。
・左 → 広目天さん
・右 → 持国天さん
台座の名札には
・左 → 持国天さん
・右 → 増長天さん
と書かれていましたが、これは間違いだと思います・・・。
・左 → 増長天さん
・右 → 多聞天さん
台座の名札には
・左 → 広目天さん
・右 → 多聞天さん
と書かれていましたが、これも間違いだと思います・・・。
●祖霊廟
その他、祖霊廟がありました。
●開山堂
・1674年建立
・瓦葺 入母屋造
本堂の隣には開山堂がありました。
説明板によると、堂内には開山・鉄文禅師が祀られているそうですよ。
ちなみに開山堂は文字通り開山したお方を祀るお堂なのですが、このお寺の開山には2通りの見方があるそうです。
①福厳寺の前身である養孝院(現・梅岳寺)の開山・緒庵禅師(曹洞宗)。
②大日本寺院総覧では黄檗宗への改宗年を創建年としているので、その時の開山・鉄文禅師(黄檗宗)。
●天王殿
●天王殿
・1857年再建
・瓦葺 入母屋造
堂内は土間式。
そして中央に壁を設けて前後を分けるというちょっと珍しい造りになっていました。
黄檗宗といえば韋駄天さん。
堂内の中央におられました。
韋駄天さんといえば足が速いことで知られていますが、見た感じこちらの韋駄天さんはそんなに速くなさそう・・・って失礼っ!
そして堂内の四隅には四天王像が安置されていました。
・左 → 広目天さん
・右 → 持国天さん
台座の名札には
・左 → 持国天さん
・右 → 増長天さん
と書かれていましたが、これは間違いだと思います・・・。
・左 → 増長天さん
・右 → 多聞天さん
台座の名札には
・左 → 広目天さん
・右 → 多聞天さん
と書かれていましたが、これも間違いだと思います・・・。
●祖霊廟
その他、祖霊廟がありました。
御霊屋
●御霊屋
そんなこんなで、足場だらけの本堂横を通り抜けると・・・
御霊屋に到着。
こちらに戸次道雪さん・立花宗茂さんをはじめ、歴代藩主のお墓12基があるようです。
唐門をくぐると3棟の御霊屋と石灯籠がコの字型に建っていました。
なんとも言えない独特の空気感で支配されていましたよ。
●戸次道雪(鑑連)のお墓
ザックリと簡単に戸次道雪とは、豊後の戦国大名・大友氏の重臣です。
立花道雪という名で知られていますが、道雪さんは立花姓を名乗ることを嫌っていたため、生涯にわたり戸次鑑連または戸次道雪を名乗っていたそうです。
ちなみに戸次と書いてべっきと読みます。
病気の父に代わり、若干13歳で初陣を飾る。
全盛期の大内義隆率いる大内軍に勝利。
その後、元服して戸次鑑連と名乗る。
ある日、大木の下で昼寝をしていたら、夕立とともに雷が落ちてきたという!
しかし道雪さんは愛刀の千鳥で稲妻を一刀両断!
それ以降、道雪さんは雷神と呼ばれるようになりました。
しかし落雷により下半身不随に・・・。
その後は輿に乗って生涯37度の戦いで暴れまくり、無類の強さを誇ったことから鬼道雪と呼ばれるようになります。
九州各地で毛利家・島津家・龍造寺家と合戦を繰り返しますが、病により陣中でお亡くなりになりました。
享年70歳。
道雪さんの遺骸は、敵味方関係なく見送られたといわれています。
●立花宗茂のお墓
ザックリと簡単に立花宗茂とは、西国一の強者で初代柳川藩主となったお方です。
大友氏の重臣・高橋紹運の長男として生まれますが、戸次道雪(立花道雪)の猛烈な誘いにより、道雪の娘・ぎん千代と結婚して婿養子となります。
そして立花家の家督を継いでいたぎん千代に代わり立花家の当主になりました。
西に立花宗茂ありと称されるほどの戦上手で、生涯無敗の猛将。
豊臣秀吉からは忠義も武勇も九州随一と称されました。
しかし関ヶ原の合戦の際、西軍として参戦したため領地を没収・・・。
その後、浪人として京都で過ごしますが、徳川幕府2代将軍・秀忠のときに大名に復帰。
そして再び柳川藩を与えられました。
そんなこんなで立花宗茂は、旧領に復帰を果たした唯一の大名として有名なお方でもあります。
●境内の風景
その他、芥川賞作家・長谷健さんと、直木賞作家・壇一雄さんのお墓があるそうです。
芥川賞作家と直木賞作家のお墓が同じ墓地にあるのは珍しいことなんだって。
あと、このお寺は大林宣彦監督の映画・廃市(1983年公開)のロケ地にもなったそうです。
ちなみのこの映画は柳川市オールロケで撮影されたんだって。
そんなこんなで、足場だらけの本堂横を通り抜けると・・・
御霊屋に到着。
こちらに戸次道雪さん・立花宗茂さんをはじめ、歴代藩主のお墓12基があるようです。
唐門をくぐると3棟の御霊屋と石灯籠がコの字型に建っていました。
なんとも言えない独特の空気感で支配されていましたよ。
●戸次道雪(鑑連)のお墓
ザックリと簡単に戸次道雪とは、豊後の戦国大名・大友氏の重臣です。
立花道雪という名で知られていますが、道雪さんは立花姓を名乗ることを嫌っていたため、生涯にわたり戸次鑑連または戸次道雪を名乗っていたそうです。
ちなみに戸次と書いてべっきと読みます。
病気の父に代わり、若干13歳で初陣を飾る。
全盛期の大内義隆率いる大内軍に勝利。
その後、元服して戸次鑑連と名乗る。
ある日、大木の下で昼寝をしていたら、夕立とともに雷が落ちてきたという!
しかし道雪さんは愛刀の千鳥で稲妻を一刀両断!
それ以降、道雪さんは雷神と呼ばれるようになりました。
しかし落雷により下半身不随に・・・。
その後は輿に乗って生涯37度の戦いで暴れまくり、無類の強さを誇ったことから鬼道雪と呼ばれるようになります。
九州各地で毛利家・島津家・龍造寺家と合戦を繰り返しますが、病により陣中でお亡くなりになりました。
享年70歳。
道雪さんの遺骸は、敵味方関係なく見送られたといわれています。
●立花宗茂のお墓
ザックリと簡単に立花宗茂とは、西国一の強者で初代柳川藩主となったお方です。
大友氏の重臣・高橋紹運の長男として生まれますが、戸次道雪(立花道雪)の猛烈な誘いにより、道雪の娘・ぎん千代と結婚して婿養子となります。
そして立花家の家督を継いでいたぎん千代に代わり立花家の当主になりました。
西に立花宗茂ありと称されるほどの戦上手で、生涯無敗の猛将。
豊臣秀吉からは忠義も武勇も九州随一と称されました。
しかし関ヶ原の合戦の際、西軍として参戦したため領地を没収・・・。
その後、浪人として京都で過ごしますが、徳川幕府2代将軍・秀忠のときに大名に復帰。
そして再び柳川藩を与えられました。
そんなこんなで立花宗茂は、旧領に復帰を果たした唯一の大名として有名なお方でもあります。
●境内の風景
その他、芥川賞作家・長谷健さんと、直木賞作家・壇一雄さんのお墓があるそうです。
芥川賞作家と直木賞作家のお墓が同じ墓地にあるのは珍しいことなんだって。
あと、このお寺は大林宣彦監督の映画・廃市(1983年公開)のロケ地にもなったそうです。
ちなみのこの映画は柳川市オールロケで撮影されたんだって。
御朱印情報
●御朱印の種類
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2013年9月21日 参拝
・2021年3月 更新
・なし
●御朱印の受付場所
・なし
●御朱印の受付時間
・なし
●御朱印の料金
・なし
●期間限定・特別御朱印
・なし
●オリジナル御朱印帳
・なし
・2013年9月21日 参拝
・2021年3月 更新
参拝情報とアクセス
●開門時間
・9:00~17:00
●拝観料
・無料
●中国風精進料理
・1週間前までに予約をすると中国風精進料理の普茶料理を味わうことができるそうです。
●最寄りの駅
・西鉄・柳川駅から徒歩30分
・西鉄・柳川駅から車で7分
●最寄りのバス停
・西鉄・柳川駅から
西鉄バス 沖端・御花前行きに乗車
布橋で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・九州自動車道
みやま柳川ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(15台)
・9:00~17:00
●拝観料
・無料
●中国風精進料理
・1週間前までに予約をすると中国風精進料理の普茶料理を味わうことができるそうです。
●最寄りの駅
・西鉄・柳川駅から徒歩30分
・西鉄・柳川駅から車で7分
●最寄りのバス停
・西鉄・柳川駅から
西鉄バス 沖端・御花前行きに乗車
布橋で下車 徒歩3分
●最寄りのIC
・九州自動車道
みやま柳川ICから車で15分
●駐車場
・無料の専用駐車場あり(15台)